新疆ウイグル(17) キジル石窟 ― 2012/05/03 09:42
亀茲石窟のなかで中心的な石窟がキジル石窟です。キジルとはウイグル語のクズル赤いという言葉に由来する。確認されている石窟の数は235窟とも言われるが実際はもっと多かったと考えられている。
(キジル石窟)一番大きな窟は第47窟の大仏窟です。
第38窟は
中心柱窟で主室は天井に天相図・海中図、菱形枠に描かれた本生図、側壁に28体の演奏演舞している男女伎楽天(この窟が音楽洞と呼ばれる由縁)、前壁(入口上部)に交脚の弥勒説法図が描かれている。後室の正壁には弟子や供養者に囲まれた釈迦の涅槃像の壁画がある。
第34窟は
中心柱窟で主室の天井に天相図が描かれている。後室は涅槃台が残り仏舎利や経典をしまった穴が残る。
第32窟は
中心柱窟で指のような形でかたどった菱形格子に描かれた因縁図などが残る。手の指の形は須弥山を現わしたものである。
第8窟は
中心窟で主室は天井に天相図(蛇を口に加えたガルダ、鉄腕アトムの髪形をした風神)、入り口右上に五絃琵琶を奏でる伎楽天、4人×4か所=16人の剣を持った供養者(亀茲王侯貴族)の像が並んでいる(この窟が十六帯剣者窟と呼ばれる由縁)。後室は涅槃台のみ残っているが、ここには舎利争奪の壁画があったようだ。
第10窟は
方形窟の僧坊窟である。キジル石窟の発掘に貢献した黒龍江省朝鮮族の韓楽然先生の写真、資料などが展示されている。
第27窟は
中心柱窟で多龕窟と呼ばれる。主室の天井は碁盤の目の格子天井、前壁に弥勒説法図、正面には天蓋の絵が残り釈迦像が安置されていた。また壁に60もの小仏龕が残っている。後室には鮮明ではないが火葬図、舎利争奪などが描かれている。
このキジル石窟で印象に残ったのは
①第38窟の天相図と海中の図(白鳥が舞う太陽神と月神は特に印象的だ)及び伎楽天
②第8窟の十六帯剣者と5絃琵琶を鳴らし舞う飛天
③菱形格子に描かれた本生図や因縁図
④弥勒説法図
少々残念であったのはここで亀茲人をイメージできる壁画が少なかったことである。敦煌莫高窟に描かれた回鶻王供養図のようなものが見られれば亀茲人のイメージが掴めたと思われる。
今回行ったクズルガハ石窟も、キジル石窟も見た石窟は亀茲国時代のものであった。亀茲国は西暦645年唐により滅ぼされ姿を消した。その後石窟の形は唐風色(例えばアエ石窟のような)へと変化していくのである。
中国 新疆ウイグル (2011年10月)
新疆ウイグル(14) クズルガハ石窟 ― 2012/04/27 09:25
クズルガハ石窟はクチャ市街から北西4キロと亀茲石窟の中で一番近い所にある遺跡である。54窟が発見されており規模は大きいとは言えない。開削時期は紀元6~8世紀で窟に描かれた供養者像や亀茲文題記などからここは亀茲国王室の寺院であったと考えられている。
○第11窟は中心柱窟で主室窟頂に太陽神、ガルダ、風神などが描かれた天象図が残る。車に乗った太陽神はギリシャの影響を示すと言われる。菱形の中に描かれた本生図も残っている。
○第14窟は中心柱窟入口の上の弥勒交脚菩薩像、後室の壁に描かれた仏陀火葬図が見える。
○第16窟は大像窟で高さ6メートルあり天井は台形である。大仏のあった壁に光背の影跡が見える。
○第30窟は中心柱窟で後室頂部に8体の飛天が描かれたている。それぞれ楽器を奏で舞っている。飛天は天女でなく筋肉質の男性像であるようだ。後室に涅槃台のみ残る。
○第32窟は方形窟で天井は三角隅持ち送り式(ラテルネンデッケ)天井である。月にウサギが描かれている絵があるが珍しい。
○第27窟、28窟は僧坊窟で30人の僧を収容できたという。ベッド、窓、釜戸跡、蔵書棚などが見える。
この石窟で興味を引いたのは天象図と壁面に広がった菱形の枠の中に描かれた本生図である。また後室に描かれた火葬図(炎だけであったが)を見たのはここが初めてであった。なお色で言えば緑である。
中国 新疆ウイグル (2011年10月)
新疆ウイグル(8) アイ(阿艾)石窟 ― 2012/04/11 06:05
クチャ県城から東北60キロクチャ川流域に紅色をした巨大な峡谷がある。観光ガイドでは天山神秘大渓谷と紹介されているが、地元ではキジリア(紅山)大峡谷と呼んだようである。
この紅谷の奥に空中に浮かぶ巨大な御殿を思わせる天山瓊閣(天山のまばゆい御殿)と呼ばれる見事な断崖がある。
その中腹に小屋が建てられているのが見えた。これは偶然に出会った高さ30メートルの断崖に穿たれたアイ(阿艾)石窟である。
石窟を見学しようとしても石窟に登る階段も案内小屋も閉ざされ石窟に入るすべもなかった。
聞くところによると、アイ石窟は1999年発見された7~8世紀の仏教窟である。漢文の題記があることから漢人が寄進したしたものと考えられている。
石窟は長さ4.6メートル、幅3.4メートルで天井はドーム状で中央に方形の基壇が設けられているようだ。
後壁には一幅の観無量寿経変が一面に描かれ、左壁には大きな坐仏、薬師瑠璃光仏、文殊菩薩、盧舎那仏、薬師瑠璃光仏などが並びその上に千仏などが描かれているそうである。
断崖の下に設けられた仏壇の中央の仏像は前述した坐像、後ろの壁画の写真は左が盧舎那仏、右が薬師瑠璃光仏と思われる。
昔この紅山峡谷はクチャのお大臣さまが財宝を隠したところであったと聞いた。そんなことで極楽往生を願う漢人のお金持ちがこの渓谷に目を着けて石窟寺を寄進するとともに財宝を隠して置かれたのではないかとは私のまったくの想像である。
中国 新疆ウイグル(2011年10月)
新疆ウイグル(7) クマーラジ-パ ― 2012/04/03 23:36
クマーラジーパ
クチャの郊外にあるキジル石窟の門前に建てられた一体のブロンズ像
は仏典翻訳した偉業で名高いクマーラジーパ(鳩摩羅什)であることはシルクロードに興味のある方ならば誰でも知っているはずである。
クマーラジーパはインド人僧と亀慈国王の妹を母に生まれ、カシミールやカシュガルでインド仏教を学び、亀慈に帰り大乗仏教を宣揚し名を高めた。
西暦401年、後秦の姚興により長安に迎えられ、般若、法華、維摩など35部294巻の訳業を残した。
中国で名所の前に立つ像を数多く見たが、このクマーラジーパの像より気に入ったものは心当たりがない。この像からはオアシスにようやく辿り着いた旅行者が飢えたこころを甦らせるものが漂ってくるような気持がした。
中国 新疆ウイグル(2011年10月)
守護神(サンチー第1ストゥーパ) ― 2012/02/25 13:50
守護神(サンチー第1ストゥーパ)
サンチーにストゥーパを最初に祀ったのはマウリア朝(前324~187年)のアショカ王であったと言われている。ストゥーパの材料は土であったが、土から煉瓦へ煉瓦から石材へと変わっていった。そして古いストゥーパは新しい材料で包み込まれ大きくなっていった。
トラーナと呼ばれる塔門が東西南北に建てられたのは紀元前35年ごろであるという。塔門は三本の梁を掲げ神社の鳥居のようである。ここでは塔門に見える守護神について焦点をあてた。
西門のヤクシャ
4人の太鼓腹のヤクシャが梁を支えている。ヤクシャは毘沙門天の前身であるという。ちょっと体形が私に似ている。
北門の象
4頭の象が力強く門を支えている。鼻をよじり今にも暴れ出しそうである。
東門の象とヤクシー
この象は鼻を垂らして歩いている。力んで門を支えている場景ではない。その隣のヤクシーは私代の言葉で表現すると「とてもグラマーでした」ということになります。
南門の獅子
インドの国章となっているライオン(獅子)が4頭背中合わせて門を支えている。口を開いた表情がどちらかと言うとかわいい。
東門門柱のヤクシャ
左右の門柱の内側の最下部に守門神ヤクシャが掘り出されています。
北柱
蓮の花束を持っている守門神。これがアジャンタ第1窟で言うならばテンペラ画のパドマパーニ(蓮華手)ということだろう。
南柱
払子のようなものを持つ守門神。門の内側に顔を向けている。
守護神(アジャンタ第1窟) ― 2012/02/20 23:48
守護神(アジャンタ第1窟)
アジャンタ第1窟が造営されたのは6世紀前半と言われている。仏殿の前室の左右の壁すなわち後廊の左右後壁にテンペラ画がある。仏殿に向って左がパドマパーニ(蓮華手)、右がヴァジェラパーニ(金剛手)と言われている。これを蓮華手菩薩、金剛手菩薩とするには壁画の像には頭光が描かれていないのが気になる。従ってここでは仏殿の門に描く花を持った守門神(天部)であるとの位置づけでまとめることにした。
パドマパーニ(蓮華手)仏殿に向かって左側
ヴァジェラパーニ(金剛手)仏殿に向かって右側
638年建立された法隆寺金堂の阿弥陀浄土図の菩薩像はこの金剛手の影響を受けていると言われている。実際に壁画の前に立ってみると暗くて老眼乱視の目では両者を対比できるようなあんばいではなかった。ざっと捉えると相違点は法隆寺金堂の菩薩像は足元から頭上まで伸びた蓮華を持っていること、また図光が描かれていること。類似点はグプタ調と言われる顔形や体型、顔の眉の引き方などが指摘できる。
守護神(アジャンタ第16窟) ― 2012/02/17 11:39
守護神(ピタルコーラー第4窟) ― 2012/02/13 22:43
ピタルコーラー石窟を見に谷に下っていくとナイフでえぐり取られたような岩壁に石窟寺院の遺跡が並んでいる。黄色いシートがあるところがヴィハーラ窟の第4窟にあたりその右隣がチャイトヤ窟の第3窟である。ここで取り上げる守護神は黄色のシートのところにある。
現在、我々が各石窟へ往来する窟前の道は過っては無かった。道は川伝いにあって各々設けられた石段を登り出入りしたようである。途中に石門がありここから上が聖域でこの境に守護神が立っているのが普通である。
ここの守護神、すなわち正面の守門神は以前写真で見たものとかなり傷みが進んでいて非常に残念である。また、手前の横壁にナーガらしきものが見えるが蛇の頭部分しか残っていない。シートで隠れて見えないが守門神の右横には象が並んでいるようである。ちゃんと残っているのであればちょうとスリランカのアヌラーダプラのルワンウェリ・セーヤ仏塔の基壇を守る象のように整然と並んでいるのであろう。
僧院の入口はアーチと柱で仕切られ、柱の最上部には馬や牛、虎や獅子などの動物が彫りこまれている。
僧院のなかに配置された僧坊は今でも形を留め当時の修行僧の姿が浮かんでくるようである。
仏教国のスリランカは仏教国なので遺跡はきちっと管理されていたが、ヒンズーの国インドにあっては仏教遺跡の保護・管理は十分とは言えないようである。
仏陀涅槃像(アジャンタ第26窟) ― 2012/02/12 16:48
アジャンタ第26窟においてインドで最も大な涅槃仏に遇うことができた。全長7.1メートルの涅槃仏は左側廊で頭を入口に向けて横たわり頭上から射し込む光が全身を照らしていた。
上空には飛天が舞い、寝台下では弟子たちが跪いている。
寝台下の後ろ姿の弟子は誰であるのか、弟子は念仏を唱えているように見える。また三脚に吊るされた水筒のようなものは何なのか、釈迦の死に水であるのか?
沙羅双樹の下、釈迦の足下で蹲る弟子はアーナンダであろうか。釈迦の入滅の深い悲しみが伝わってくるようだ。
中国などで見た石窟寺院の入口は南に開けられ涅槃物は仏殿の一番奥(中心柱窟では正面の裏側)の北壁を背にして頭を西に向けて横になっている。ここでは位置が仏殿の奥(ストゥーパの裏側)ではなく入口のすぐの左側廊である。しかし、入口が西に開けられたアジャンタ第26窟では左側廊が北壁にあたり仏陀の頭は西を向き横たわる方向は同じ律に基づいている。
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