吾妻郡高山村尻高城址散策記2023/01/13 14:12

令和4年10月19日中山古城、中山城を散策して最後に字小屋に残る岩上の要害を訪ねた。

麓の案内板によると「応永8年(1401年)白井城主長尾重国の家臣により築城始まる。同10年完成。重国の三男重儀城主となり尻高氏を名乗り左馬頭と号した」とある。またこの要害に合わせ里城(並木城)が麓に造られ尻高城との呼称はこの二つを合わせた呼称となる。

尻高城縄張り図(高山村誌より)
縄張り図

案内図
 現地に入ったところ本丸、二の丸のほかは縄張り図と現場の対応が明確に掴めなかったので案内板の案内図に撮影した写真を当てることにした
案内図

石柱と案内板
 現在位置と朱書する場所でこの先を右折して空き地に駐車させて頂いた
石柱と案内板

要害(ゆうげい)登山開始
 二番目の矢印の地点の登り口である。
 土地ではこの岩山をゆうげいと呼ぶようである
 要害が訛ったものなのかどうか?
登山道その1
 案内板に沿って尾根道を登っていく
登山道その2

登山道その3
 トラロープを握って急登を登る
登山道その4

一番石宮
 急登を登って行くと一番石宮が見えてきた
一番石宮
 一番石宮を過ぎ主稜線に沿って歩く
 縄張り図でははっきりしないが西の二番目の郭ではないかと思われる
西の郭

本丸
 その先の本丸と思われるところ
 そう広くは感じさせない
 松の木も何本か見える
本丸

一番堀切
 本丸を東に進むと堀切の跡がある
 この写真は堀切を渡り二の丸側がら撮影したもの
 手前が二の丸、先が本丸
一番堀切

二の丸
 細長い二の丸にを進むと石宮が二番~六番続く
二の丸
 二番石宮
 まず直ぐに二番石宮が
2番石宮
 三番石宮と水場
 次に三番石宮と水を湛えた切り石がある
 貯水槽にしては小さい
3番石宮と水場
 四番石宮~六番石宮
 二の丸の先端まで進み振り返って撮影したもの
 手前が最奥の六番→五番→四番
四番石宮~六番石宮

先端の断崖
 二の丸の先端は一段下がって断崖に落ちている
二の丸先端の断崖

主稜線を第一石宮までもどった所でこの先下山ルートを見失ってしまった
一番石宮
第一石宮の先で時間をかけて下山ルートを探したが発見できず谷に下ってしまった。
あくまでも尾根筋を探すべきであったと反省している
堆積した枯葉の谷を足を滑られながら杉の伐採場までくだり、右手の低い尾根を登り藪をこいで行き運よく目印のリボンを発見しようやく民家まで辿りついた
その家のHさんの計らいで軽トラで無事に登山口に停車しておいた車まで送って頂いた
Hさんに感謝感謝である

尻高氏の威勢は盛んであったようで現在の尻高、大塚、平、赤坂、市城まで及んでいたようである。吾妻記の松井田合戦の事の件に「昔は尻高村三百貫文を二つに分け田畑野山等迄当分の積りに被成候。下尻高高辻六拾貫文は大塚組、五拾貫文は平組、四拾貫文は赤坂組、此高辻を以て万事諸役当相勤め申候事」とある。尻高村は均等に上尻高村と下尻高村に分割、「天正十八年秋末方上尻高村は井伊侍従様御知行に渡る。下尻高村は前々ゟ真田伊豆守様知行なり。さらに「下尻高村は文禄年中の頃は真田伊賀守様奥様の御知行所に被成、大塚村に北能登守殿御前様のご家老として住居被成」などなど吾妻記では尻高に関する出来事が一段と詳しく記述されているように思えるのである。

令和4年10月19日撮影

          吾妻郡 高山村 尻高   (令和5年1月14日)



後閑城址散策記2023/01/10 14:52

2022年10月27日後閑城址に出掛けた

後閑城は後閑川と九十九川の合流点に突き出した南北に続く丘陵の末端部分に築城された山城である。本丸の説明文によると嘉吉、文安の頃(15世紀中葉)信州の依田忠政が築城したと解説されている。

後閑城址縄張り図
 本丸の東に階段状に東郭と東郭群が、西に階段状に三つの大郭(西第一~第三郭)が、南に尾根を堀切で分断した尾根端に南郭と二の丸が、さらに北に堀切の先に北郭がある
縄張り図

散策開始
 西第三郭にある公園駐車場に車を停める。
西第三郭 駐車場

南郭
 駐車場から南郭へ向かう
 南堀切で分断された尾根の端に南郭がある
南郭
 南郭の奥の東屋
南郭
 南郭からの展望
 妙義山の頂が見える
南郭展望妙義山

➁二の丸
 南郭をさらに東へ進むと次の尾根を分断する大堀切がある
 その尾根の端に細長くくの字状の二の丸がある
 大堀切側の高台に櫓が建てられていたという
二の丸卯櫓台
  二の丸の東屋
二の丸
 

東郭群
 大堀切から細道を下り北方向に尾根を登ると東郭群がある
東郭群
 東郭から小郭が階段状に下る東郭群
東郭群

東郭
 大堀切までもどり堀切を登り上げると東郭に出る
 東郭の先の通りは北堀切に続く
東郭

本丸
 東郭からさらに登ると最高地点の本丸に着く
 東屋と掲示石板があり周囲には百庚申石像が並ぶ
 広さは南北60メートル、幅40メートルと解説がある
本丸
  周囲に並ぶ百庚申の石像
本丸百庚辰

本丸

西第一~第三郭
本丸から西に階段状に三つの大郭がならぶ
 西第一郭
西第一郭
 西第二郭
西第二郭
 西第三郭
西第三郭 駐車場

北郭群
堀切で仕切られて北郭に続いて小郭群が階段状に並ぶ
 北第一堀切
 本丸北側の堀切
北第一堀切

 北第二堀切
 さらに二つ目の北第二堀切が走りその先に階段状に連なる小郭
北第二堀切

北郭
 二つの堀切による分断の先に小郭の最上段に北郭がある
北郭

北第三堀切
 北郭より階段状小郭の北側の北第三堀切が走る
北第三堀切

城址を一巡して駐車場へ戻る

吾妻記では「松井田合戦の事」に於て、天正18年小田原攻めの際の上野の合戦が記されている。碓氷峠から前田利家大将として真田安房守昌幸等都合5万余騎が攻め入り大道寺駿河守政繁が守る松井田城を始め、箕輪城、安中城、白井城など北条方の城は落城した。「上野下野内にて三十日の内に城郭三十八ケ所落城す」とあり大道寺駿河守の指揮下にあったというこの後閑城も松井田城と同じ運命を辿ったのであろう。

令和4年10月27日撮影

           群馬県 安中市   (令和5年1月12日)

吾妻郡高山村中山城址散策記2023/01/09 13:51

令和4年10月19日中山古城散策を終え中山城址に向かいました。

中山城址縄張り図
 赤字の数字と矢印は記事の項目番号と撮影の方向を示す
縄張り図

①中山城址案内板
 国道沿いの駐車スペースに掲示されている案内板です
 ここから散策をスタートしました
国道端中山城址案内板

②城址東側全景
 舌状台地を利用して築城されたことが分かる
東側全景

③下曲輪
 田圃の道から城址のアクセス
 まずは城址の東側に下曲輪が畑となって細長く伸びています
中山城址下曲輪

④本丸
 下曲輪から坂道を登ると本丸です
 本丸は一辺約60メートルの正方形をしていて杉木立と藪に覆われている
 西側の土塁の袂に明神様が祀られている
 ここに設置してある案内板に追手は南側、搦手は北側にあったと解説があります
中山城址本丸

⑤本丸を囲む高土居と深い空堀
 本丸の南、西、北は高土居で囲まれ、その外側は深い空堀が取り巻いている
 縄張り図を見ると空堀の囲みの対岸は二の丸が囲んでいるのが分かる
 この写真は西側の土塁の上から北向きに撮影したものです
本丸西高土居と空堀

⑥三の丸
 本丸から下曲輪に戻り、下曲輪の先から道路を進み捨曲輪と三の丸の間の道を登っていくと台地の上は一面の畑が開けている
 この境の坂道も空堀跡であったことが納得できる
 北側の開けた畑は三の丸跡でその先の杉林は本丸であると思われる
三の丸

⑦三の丸、二の丸、腰曲輪方面
 三の丸の真ん中に北向きに農道が続きその先正面が二の丸で左手が三の丸の西部分である
三の丸、二の丸、腰曲輪方面

⑧ 三の丸北側堀切
 農道を二の丸の南端まで進んで行くと左に三の丸の土塁とそこを隔てて堀切が残る
空堀

⑨二の丸西堀切跡
 右側の一段上が二の丸でその東側は本丸と向き合う深い空堀となっている
 手前の浅い堀跡は二の丸の西側三の丸西部分の間の堀切の跡と思われる
二の丸西空堀跡

➉帯曲輪南堀切跡
 三の丸の西側部分を北へさらに進んで行くと三の丸と帯曲輪、その先で北側の二の丸との間の堀切跡が伸びている
帯曲輪南空堀跡

⑪北曲輪北堀切跡
 さらに北上すると北曲輪北側の堀切跡が東に続いている
 ここで右折して方向を東に転ずる
北曲輪北堀切跡

⑫北曲輪と帯曲輪の縁
 堀切の道路を進むと右側が北曲輪の縁、正面が帯曲輪の出はなと思われる地形に出合う
北曲輪、帯曲輪の縁
 城址東側の道路を出発点に向け進む
 東側から本丸の北、南の空堀を確認する

⑬東側より本丸北側の空堀 
本丸北堀切

⑭東側より本丸南側の堀切
本丸南側堀切

 出発点①に戻り散策無事完了

中山城址は囲郭式で北条系の築城形式は北毛地域では特異な存在と見られている。吾妻記によれば、天正10年「中山城主中山右衛門尉は津久田にて討死、早速白井より赤見山城守要害持ちに被遣差置、其節小田原領になり」とあり、赤見山城が城代の頃築城したのではないかと推定されている。

令和4年10月19日撮影

           群馬県吾妻郡高山村    (令和5年1月10日)


白井城址散策記2022/12/21 21:50

道の駅に車を駐車して徒歩で白井宿の中之坂から城址に向かう
大手虎口から北郭~三の丸~二の丸~本丸虎口へ続く真っすぐな農道を辿り、本丸では高土居を巡り、笹郭を見下ろし確認し、三日月堀を下り帯郭に突き当たり帯郭を北上して三の丸の空堀を登り城址を一巡した。

白井城縄張り図
縄張り図

大手虎口・北郭
 手前に不動尊を祀る高台があり一面畑が広がっている
北郭

堀切(北郭・三の丸間)
 進行方向右手
堀切(北郭・三の丸間)

三の丸
 真ん中を貫く農道を進む
三の丸

空堀(三の丸・二の丸間)
 進行方向左側の堀
空堀(二の丸・三の丸間)東側
 進行方向右側の堀
空堀(二の丸・三の丸間)西側

二の丸
 進行方向左側の写真
二の丸

本丸虎口
二の丸を過ぎると農道は本丸虎口、石垣が残る桝形門に辿り着く

本丸虎口舛桝形門

本丸(南端高土居より)
 広大な本丸は吾妻川に面した断崖側を除き高土居で囲まれている。
本丸
 本丸高土居(北側)
本丸高土居
 本丸高土居(東側)
本丸高土居東側

笹郭
 南端にある笹郭は一段下がっている
笹郭

空堀(本丸北側)
 本丸虎口北側の二の丸との間の深い空堀
空堀(本丸北)

三日月堀
 本丸虎口東側の堀を下ると帯郭に行きつく
見和樹濠
 堀はかなり急坂であり
三日月堀
 名前のとおり堀は三日月形に曲がっている
三日月堀

帯郭
 本丸から三の丸の東側に伸びる帯郭
帯郭
 この帯郭を北に進み堀を三の丸へ登って城址を一巡した
帯曲輪


天正18年北条攻めに於ける白井城の戦いについて「吾妻記」では次のように述べている。
「白井の城には先代より長尾一井斎入道子息長尾右衛門輝景居城ス、則白井城を責めんとて昌幸公真先にすゝみ渋河羽田(半田カ)へ押寄給へて籏をあげ太こ打被成ければ、白井城内にては是を見ておどろきさわぎ、女わらんべはなきかなしみ上は家老の矢野、赤見、師岡、神庭降人にいづる、白井廿騎衆とて日比は武道みがきしが皆小野子、村上へ落行ける、長尾も今は叶わじとて越後国へ落行ける、」

令和4年12月9日撮影

       群馬県渋川市(旧子持村)      令和4年12月23日

高山村 中山古城散策記2022/12/06 11:15

中山古城
この城は加沢記等に見られる中山衆と称される地侍達が活躍した山城である。馬蹄形の尾根に築かれ、その内に小屋場を抱いた異形な城である。北部が主要部で梯格式の構造がよく残されている。
中山古城縄張り図

中山古城遠望
中山古城は沼田、岩櫃両城の中間にあり、古い越後道や江戸期の三国街道はここを通っていた。天正10年中山右衛門が津久田に於て戦死したのを機に中山古城は北条方に渡り、新城(中山城)が北条氏によって築かれ廃城となって今に至っている。
中山古城遠望

中山古城散策ルートを赤線で示す
登山ルートと縄張り図

散策路入口
道祖神が祀られている
中山古城散策路入口

登城ルート
散策道


小屋場に到着か?説明板2基と二基の祠あり
ここでルートは二手に分かれる
小屋場?

文責者林氏の解説文
古城解説板

本丸へアプローチ(左ルート)
岩塊の間をよじ登り西郭から本丸へ
左ルート急斜面の岩塊

西郭の下部、梯格式の構造が残る
西郭

西槨から本丸へ
本丸手前の廓

本丸へアプローチ(右ルート)
二つの祠を右に見て坂道を登る
右側ルート

馬蹄形の尾根に囲まれた地形
小屋場と思われるところ

本丸東側の堀切に辿り着く
左が本丸、右が東郭
右側ルートを登ると

本丸の高土居の跡と思われる盛り土
本丸の高土居址?

左右のルートを登って本丸で合流
古城本丸

堀切東側の立ち木に覆われた東廓
古城東郭

東郭の北側から武者走りが始まり
武者走り

馬蹄形の尾根(腰曲輪?)の際に沿って先端まで続いている
武者走り

本丸に立つ執筆者
上杉家文書の「関東幕注文」の沼田衆の中には中山氏の名は見られず阿佐美小三郎の名が同心として記載されている。このことから永禄年中に於てはここの中山城主は阿佐美氏として扱われていたと考えられる。中山氏の氏祖は武蔵七党の一つ児玉党の阿佐美氏であることにまちがえはなさそうである。
本丸にて執筆者

令和4年10月19日撮影

        群馬県吾妻郡高山村久保入    (令和4年12月6日)

黒保根町栗生神社本殿の関口文治郎作透かし彫り2022/11/30 15:13

栗生神社寄
栗生山の中腹杉木立の中に鎮座する神社は新田義貞の家臣栗生左衛門頼方を祀る。石の鳥居から石段を登り長屋門を抜けると社殿の前に辿り着く。拝殿の右手に大杉が聳え、左手に神楽殿が残されている。拝殿の後ろに本殿があり関口文治郎の透かし彫りが目に留まった。彫られた場面は何の場面であるのか?二十四孝に関係すると云われているが私には説明する知識がない。現在の社殿は寛政2年(1790年)の建築ということからすでに240年が経過している。

本殿右面

本殿背面
本殿背面

本殿左面
本殿左面

棟札に残された彫工の氏名をここに写す。
彫工
武衛御棟梁 関口文次在信 同仕手 福田源治
同仕手   窪田徳次 藤原与四郎 関口千次
同     関口松次 鏑木半次 萩原平次

令和4年11月24日撮影

     群馬県桐生市黒保根町(旧勢多郡黒保根村) 令和4年11月30日



今晩望月さまがホオズキの実になりました2022/11/09 15:02

令和4年11月8日今晩望月様が
2022年11月8日19時過ぎ
ほおずきの実になりました。
2022年11月8日19時半過ぎ
令和4年11月8日撮影

           群馬県吾妻郡    (令和4年11月09日)

磯部城址(安中市磯部)2022/11/03 08:15

磯部温泉旅館のチェックインまで時間があったので、急遽磯部城址を見ることにした。
地元のハムの先輩たち(NAB/OAK)が子供の頃走り回って遊んだ城址は今は公園となるも遊ぶ子供の子供の姿も声もしない。
現地にある案内板
磯部城址案内板
由来
磯部城址歴史と構造
縄張り図
縄張り図
三の丸
三の丸
馬出し
馬出し
腰曲輪(馬出を越えて行く)
腰曲輪
馬出し下空堀
馬出下堀切
空堀を下まで降って行ったところにこれは石垣の跡か??どうか?
腰曲輪下下部の石垣址?
櫓台(物見平)下の空堀(この下が三の丸)
櫓台下の堀切
堀切、二の丸虎口(左:二の丸、右:物見平)
二の丸虎口
右:物見平
物見平
右:物見平東下の空堀
物見平東下空堀

左:二の丸(虚空蔵菩薩祠一基あり)
二の丸
二の丸と本丸間の笹で覆われた高土居、堀切の跡ははっきりしない。
高土居
本丸(一面の笹、端に神社一基あり)
本丸
本丸搦手口(本丸北西の端)
本丸搦手口

ハムの先輩たちが子供の頃遊んだ城址に今は遊ぶ子供等ひとりもおらず荒れるにまかせ朽ちるばかりなり。

この城は永禄4年(1561年)武田信玄が松井田城と安中城を分断するため築城したのかもと記されているが、これに関連すると考えられる史跡として首塚が簗瀬二子塚古墳の際にある。

簗瀬八幡平の首塚
戦国時代の犠牲者のものと考えられる150体分の頭蓋骨を供養したもの。
簗瀬八幡平の首塚
説明文
首塚由来

磯部城と関連ありと感じてここに合わせて首塚を載せることとした。

令和4年10月27日撮影

            群馬県安中市 磯部   (令和4年11月3日筆)

安中市梁瀬二子塚古墳2022/11/01 20:02

群馬県民の日の前日に吾妻から地蔵峠を越えて碓井へ出かけました。その目的の一つは安中市にある大型の前方後円墳を見物することでした。
全景
古墳時代後期初頭(6世紀初頭)の横穴式石室をもつ前方後円墳である。
墳丘に葺石を施した形跡が発掘されている。
簗瀬二子塚古墳全景
想定図
墳丘の長さ約80m、周溝、周堤、外周溝を加え全体の長さは約130mと推定している。
埴輪は墳頂部と第一段基壇(平坦)面?に並べられていたようだ。
古墳想定図

後円頂部方向(東向き)
後円部
前方頂部方向(西向き)
妙義山や浅間山が展望できる。
前方部
横穴式石室の入口
後円部南側に石室の入口あり 扉施錠のため入室出来ず
横穴式石室入口
石室からの出土品
全長11.54m、羨道長7.47m、玄室長4.07m 壁面に赤色顔料(ベンガラ)痕跡あり。
玄室からの出土品は装身具、馬具などであり、特に「金箔挟み込みガラス三連玉」は非常に珍しい。
石室内部とその出土品
石室のベンガラを確認できずちょっぴりガッカリしている見学者
見学人物

隣接して展示コーナ、トイレ、駐車場を備えたガイダンス設備があり見学には便利でありました。

撮影:令和4年10月27日

           群馬県 安中市    (令和4年11月3日)


こんな見事な夕焼け朝焼けが出現2022/10/14 14:25

こんな見事な夕焼け(10月11日 夕)
中之条町の夕焼け(10月11日)
つづけて翌日も見事な朝焼け(10月12日 朝)
中之条町の朝焼け(10月12日)

         群馬県吾妻郡中之条町 (令和4年10月14日)