横尾の地侍割田下総の古今稀なる振舞い2024/03/26 21:16

中之条町横尾の地侍割田下総について
加沢記に割田下総を我妻の住人割田下総守とて勇猛の兵あり、力万人に勝れ第一忍の上手古今無双也と称えている。
3月11日 中之条町横尾(旧横尾村)に残る割田下総守重勝の墓をお参りした。
割田下総の墓

割田下総の働きについて加沢記巻之五「割田下総馬乗捕亊」に次のように記されている。

 天正13年酉9月北条氏直は沼田倉内城を攻めるため白井の原に小屋をかけた。その白井の原へ物見に忍び入ったことを割田は傍輩に面白く語った。 
 拙者(割田)は馬大豆売りに変装して馬大豆は如何と寄せ手の小屋小屋を巡って行くと、北条家の家老松田尾張守の小屋の前でニ三十人の若侍が名馬を取出し庭乗り遊びをしていたので足を止めて物珍しそうに見物したのさ。
 ひとりの若侍が近づいてきてお前は馬がわかるのかと尋ねたので、拙者はちょっと博労をやったことがあると答えると、若侍はこんな山の中ではこんな立派な馬は見たことはあるまい寄って見参しなと笑って言った。
 拙者は黒の馬に金幅輪の鞍を置いたこの名馬は松田尾張守のめし馬に相違ない、この馬を取ってやろうと思い馬に寄って見事な鞍を確認してから少しこの馬に乗って見たいと若侍と申し入れたら
 若侍は是を聞いて拙者(割田)を馬に乗せて鞭を打って迷惑させ小田原への土産話しにしようと思い付き、乗るのは恐ろしやと偽った拙者を無理やりうち乗せると仲間共が走り寄て一度に鞭を打ったもんだから、馬は聞こえる暴れ馬は向う見ずに走り出したもんだ。
 拙者はこのまま乗っ取り盗人と言われて口惜しいを思い、馬を乗り戻し変装を解き馬大豆を取り捨て「我を誰と思うらん、真田房州の御内なる割田下総守重勝なり」と名乗りあげて馬に捨て鞭をうち追いかける追手を振り切って片品川を渡り静かに倉内城内へ帰ったのさ。

 加沢記ではこの割田が振る舞いは古今稀なる事也と称えている。

       群馬県 吾妻郡 中之条町  令和6年3月26日

川場村門前隠れキリシタンの墓2023/02/06 14:03

川場村門前にある隠れキリシタンの墓を訪れました。

元禄16年(1703)の古切支丹死失存命帳によれば、古切支丹の東庵、その養女しゃく、二女おま、三女まりの死失・存命等の動静が記されている。
東庵
沼田領戸神村で銀山の採掘が始まった頃の元和4年(1618)前後に下野国足尾から川場へ来て家族を持ち暮らしていたが、寛永7年(1630)頃妻子を置いて失踪した。
正保元年(1644)江戸から切支丹宗門であることが申し来たるが欠落後の行方は知らず。
二女おま
川場村の百姓八右衛門の養子になり、八右衛門の弟百姓半三郎の妻になる。正保元年(1644)、父切支丹宗門の由詮議を受け沼田において牢につながれた。延宝元年(1673)江戸で詮議を受け御赦免になり沼田へ戻り、延宝4年5月17日病死した。(投獄30年は長い)

おま夫半三郎の墓
川場村門前に残る隠れキリシタンの墓は、おまの夫半三郎のものである。半三郎は沼田城下のある家に預けられたが、明暦3年(1657)に放免されて川場に戻ったという。

川場かるたの看板が立つ
 (へ) 辺境に潜み東庵宣教す
川場隠れ切支丹の墓
墓石は個人の墓所の一番端に立っている。
隠れ切支丹の墓

延宝七季辰未年
 雲巌亮景居士(うんけいりょうけいこじ)
七月十八日 
隠れ切支丹の墓
中国語ではキリスト教は「景教」と記す。戒名に景を使ったのは隠れてキリスト教徒であったことを示すものであるのかもしれない。



明暦4年(1658)「古切支丹出申国所之覚」
沼田ヨリ宗門多出申候。東庵ト申イルマン同前ノ宗門御座候。

天和2年(1683)5月「切支丹訴人の制札」
 きりしたん宗門ハ累年御制禁たり 
 自然不審成もの有之は 申出
 へし・・・・・

 群馬県立歴史博物館撮影
古切支丹訴人の制札

令和4年11月25日撮影

      群馬県 利根郡 川場村    (令和5年2月6日)

昭和20年8月 米軍の投下チラシ2020/09/10 14:36

中之条町歴史と民俗の博物館「ミュゼ」の企画展 
「語り継ぐ戦争~前橋空襲と戦時のくらし~」(令和2年7月23日~9月23日)
を見てきました

その中で特に注目したのは
展示されていた
       「米軍の投下チラシ」
      と
       「滝野川尋常小学校、国民学校の学校生活と集団疎開の記録」
でした

米軍の投下チラシの存在は知っていたが、その文面まで読んだことはありませんでした
それも前橋空襲に関係するチラシとなればなおさら読んでみたいと思いました

「昭和20年8月 米軍の投下チラシ」全文

(表)日本国民に告ぐ 
 あなたは自分や親兄弟友達の
命を助けようとは思ひませんか
助けたければこのビラをよく読
んで下さい
               数日の内に裏面の都市の内全
              部若くは若干の都市にある軍事
              施設を米空軍は爆撃します
               この都市には軍事施設や軍需
              品を製造する工場があります軍
              部がこの勝目のない戦争を長引
              かせる為に使ふ兵器を米空軍は
              全部破壊しますけれども爆弾に
              は眼がありませんからどこに落
              ちるか分りませんご承知の様に
              人道主義のアメリカは罪のない
              人達を傷つけたくはありません
              ですから裏に書いてある都市か
              ら避難して下さい
 アメリカの敵はあなた方では
ありませんあなた方を戦争に引
つ張り込んでゐる軍部こそ敵で
すアメリカの考へてゐる平和と
いふのはたゞ軍部の厭迫からあ
なた方を解放する事ですさうす
ればもっとよい新日本が出来上
るんです
 戦争を止める様な新指導者を
樹てて平和を恢復したらどうで
すか            
                この裏に書いてある都市でな
               くても爆撃されるかも知れませ
               んが少くともこの裏に書いてあ
               る都市の内必ず全部若くは若干
               は爆撃します
                豫め注意しておきますから裏
               に書いてある都市から避難して
               下さい
             
(裏)都市名
       水戸 八王子 郡山 前橋 西ノ宮 大津 
       舞鶴 富山 福山 久留米 高岡 長野 

    前橋は予告どおり空襲(8月5日)を受け535人もの尊い人命が失われました

滝野川尋常小学校の生徒の記録映像の中身は昭和19年学校の秋の運動会の映像とその後吾妻へ集団疎開した時のものです
昭和19年秋の運動会の映像は児童達に戦時を思わせない明るさがあり戦後の我々の運動会とまったく変わりのないことに驚かされました また集団疎開の映像も元気に勉学する姿にも明るさを失っていませんでした しかし、昭和20年2月に集団疎開を終え帰京した生徒たちを待ち受けていたものはあの悲惨な東京大空襲でした これにより命を落とした児童も多数いたと考えるとその僅かな時間がつくりだした運命の落差に怒りを覚えました

    一年早く戦争を終わることが出来なかったのか 
                  そんな残念な気持ちでいっぱいになった

投下チラシの展示 あたご歴史資料館提供
滝野川尋常小学校の記録 橋本一郎氏撮影
令和2年9月7日(日)

         群馬県 吾妻郡 中之条町   (令和2年9月10日)

九州北部の旅⑤銅鏡に思う2018/04/11 15:10

多数の銅鏡が発掘された須玖岡本王墓と平原1号墓から銅鏡について考えてみた                


須玖岡本王墓     銅鏡30面

        この大石の下の甕棺より出土
須玖岡本遺跡王墓
                                                                    (奴国の丘歴史公園)

         前漢鏡 草葉文鏡 3面
         
須玖岡本遺跡草葉文鏡(複製)
                                                      (複製された草葉文鏡)
                   (春日市奴国の丘歴史資料館)

        前漢鏡 青雲文鏡 五面

        前漢鏡 連弧文照明鏡 四面

        前漢鏡 連弧文清白鏡 八面

        など

         連弧文銘帯鏡
須玖岡本遺跡 連弧文銘帯鏡
                                                        (春日市奴国の丘歴史資料館)

             


平原遺跡王墓    銅鏡40面      

                         平原一号墳
伊都国平原遺跡1号墳
                           

         
         副葬品の出土状況
伊都国 平原遺跡一号墳


         銅鏡は予め破砕して埋葬したようだ
平原遺跡 銅鏡
                        (復元された銅鏡)
         内行花文鏡
         方格規矩四神鏡
         四螭鏡(前漢鏡)
        
              など

         直径46.5センチの巨大な内行花文鏡 5面(国産鏡)
平原遺跡 内行花文鏡


三雲南小路王墓1号棺   35面
  〃    2号棺   22面
井原鑓満王墓       21面

銅鏡について

①銅鏡は漢から弥生中期ごろ伝わった

○「前漢書」地理志に楽浪海中有倭人、分為百余国、以歳時来献見云とあり弥生中期ごろに    は集落のなかで漢に朝見するものが出てきた
○弥生中期の須玖岡本遺跡の王墓から出土した銅鏡は殆どが前漢鏡である

どうだ、我らの集落は漢の皇帝の鏡を手に入れた この鏡で祭祀を執り行え集落の平和と繁栄は間違えない どうだ君たちの集落より偉いだろう

②倭国の形成と銅鏡の国産化

○弥生後期には大集落が出現して集落の序列が生じて序列を維持する手段として銅鏡の利用が広まった
○首長の私的な宝器や権威付け、集落同士の外交の手段として銅鏡の利用が進み、渡来では間に合わず国内でも銅鏡が鋳造されるようになった
○須玖岡本遺跡群からは多数の青銅器鋳造の鋳型が発見されている 奴国は青銅器の工業地帯として各地域から銅鏡の注文に応え勢力を蓄えた やがて「後漢書」倭伝に記すように建武中元2年(西暦57年)後漢に奉貢朝賀して光武帝から印綬を賜うまでの国になった

私はこの地方の盟主たる力がある お前は私に使えないか 貴国との連合の印としてこの銅鏡を渡す この鏡を印として君の国内を治めて欲しい

○倭王卑弥呼に景初二年(西暦238年)魏王明帝から銅鏡百枚を賜ったことが記されている卑弥呼が賜った銅鏡は盟邦の首長に下賜して倭国同盟の結束を図っただろうか
                            白絹五十
             匹金八両五尺刀二口銅鏡百枚真珠鉛丹各五
             十斤皆装封付難升米牛利還至録受悉可以示
             汝国中人使知国家哀汝故鄭重賜汝好物也 
                                「魏志」倭人伝

③銅鏡は粉砕され王の墓に埋葬された分けは

○伊都国の平原王墓から出土した銅鏡は直径46.5センチの巨大な銅鏡も含め国産のものであり、倭国を形成する統治文化が整った証ではなかろうか
○魏志倭人伝曰   「陸行五百里到伊都国官曰爾支副曰泄謨觚柄
           渠觚有千余戸世有王皆統属女王国郡使往来
           常所駐東南到奴国百里官曰兕馬觚副曰卑奴
           母離有二萬余戸・・・・・・・・・・・・」
伊都国は世帯千戸ではあるが魏の郡使が常駐する大陸とを結ぶ政治的なハブ国家であり(倭人伝の国の在りかを示す表現も伊都国を境に変えている)、また奴国は二万戸に及ぶ産業国家であったのだろうか
○40面の銅鏡が発掘されたが、王はこんなに多量の銅鏡を所持していたのだろうか?ちょっと多すぎないだろうか?
○大王没したことで今までの同盟関係を清算する意味合いから、盟主達は没した大王が下賜された銅鏡を粉砕して埋葬したのではないかと想像が羽ばたいた
○次の大王は新たに盟主達と同盟関係を築く必要があり、新王は多数の銅鏡を手に入れて盟主達との授受が不服なく成立することで新たな同盟関係が構築されたのかもね

これで多数の銅鏡埋葬と粉砕の理由の疑問が解けないだろうか??

④卑弥呼の死の場合からは

○魏志倭人伝曰   「・・・・・・・・・・・卑彌呼以死大作徑
           百余步殉葬者奴婢百余人更立男王国中不服
           更相誅殺当時殺千余人復立卑弥呼宗女壱與
           年十三為王国中遂定・・・・・・・・・・」

○伊都国の平原王墓は卑弥呼の時代とほぼ同時代であると考えられている 平原1号墳は副葬品の構成からして女性の墓ではないかと恰も=卑弥呼の墓と考える気配を感じた 
○魏志の記しによれば卑弥呼没後男の大王を立てたが皆が不服で殺し合って倭国の同盟関係は成立しなかったとある 平原1号墳が卑弥呼の塚だとすれば破砕した銅鏡は同盟関係を清算を象徴する儀式であったのかも知れない


(注)この稿は旅をして考えた個人的な想像の世界を述べたものです 

        福岡県 奴国の丘歴史公園
            伊都国歴史博物館      (2018年2月)      


九州北部の旅④甕棺に思う2018/03/19 22:57


甕棺というものを実際目の前で見たのは初めてだ
素焼の甕で大きい物は高さ1メートル20センチ、口の直径は70センチ程度で、高さ50センチほどの所に補強のためかつなぎ目であるのか二重の縁がまわっている
小さい物では高さ40センチ程度、口の直径は40センチ程度のものがある
この時代大人も子供も甕棺に入れられ埋葬されたのだ
吉野ヶ里遺跡 甕棺
                      (吉野ヶ里遺跡にて)
棺に甕が使われたのかその理由は想像しがたいが人の死者に対する暖かさを感じる
甕棺は少し傾けて土中に埋められ埋葬者の視線は真上ではなく斜めとなる
吉野ヶ里遺跡 甕棺墓

通常は棺の上下は甕と甕の組み合わせであるが、甕と壷の組み合わせも出土した
須玖岡本遺跡
                     (奴国の丘歴史資料館)
甕棺の強度の問題であるのか深くは埋められないようだ
吉野ヶ里遺跡 甕棺墓列
                   (吉野ヶ里遺跡 甕棺墓列)

埋葬者はまるで子宮のなかで浮かぶ胎児のように見えた
甕棺は魂を鎮める揺り籠のようであり、あの世へ戻るカプセルのようでもある
甕が選ばれたのは母体回帰の意味合いがあったのではないかと想像した
吉野ヶ里遺跡 墳丘墓
                  (吉野ヶ里遺跡 北墳丘墓)
位の高い者は副葬品として剣や鏡、管玉などが入れられた

戦いの痕跡を残す人骨
吉野ヶ里遺跡の甕棺墓は約2900基発見され、そのうち300基から人骨が検出された
首のないものや 矢じりが刺さっていたり 刀傷のある骨も発見されている
吉野ヶ里遺跡 首のない人骨
                  (吉野ヶ里遺跡 首のない人骨)

当時の葬式はどのようなものであったのか?

奴国の丘歴史公園にある竪穴遺構は埋葬に関係した建物跡の可能性ありとある
須玖岡本遺跡 竪穴遺構
                  (奴国の丘歴史公園 竪穴遺構)

魏志倭人伝に葬儀の様子が記されている

                其死有
棺無槨封土作家始死停喪十余日当時不食肉
喪主哭泣他人就歌舞飲酒巳葬挙家詣水中澡
浴以如練沐
             「魏志」倭人伝

棺はあるが槨はないとある
 棺は甕棺や木棺であったろう そして外棺はなく直接土に埋められたということか
誰が葬式を取り仕切ったのか
 卑弥呼のような鬼道に仕える霊媒師のようなものが行ったものなのか
他人は歌舞飲酒とあるが
 今の葬式でも清めといって酒宴を催すのと同じだね

甕棺は日常使用していた甕を使ったものではなく、そのつど誂えたもののようだ
その点甕棺は死者を敬う人の気持ちをかたちとした包みと思えないこともない
また丸い甕の内壁は死者へ永遠の宇宙を提供したものになったのかもしれない

         佐賀県 吉野ヶ里遺跡    (2018年2月)

九州北部の旅③邪馬台国を想像する2018/03/06 16:51

○邪馬台国の王は

倭在韓東南大海中依山島為居凡百余
国自武帝滅朝鮮使駅通於漢者三十許
国国皆称王世世伝統其大倭王居邪馬
台国
         「後漢書」倭伝

邪馬台国に居た大倭王の勢力は自国のムラ長をまとめるだけだったのか
吉野ヶ里遺跡 北内郭

○大倭王の座の争奪戦は
           桓霊間倭国
大乱更相攻伐歴年無主有一女子名曰
卑彌呼年長不嫁事鬼神道能以妖惑衆
於是共立為王
         「後漢書」倭伝

其国本亦以男子為王住七八十年倭国乱相攻
伐歴年乃共立一女子為王名曰卑彌呼事鬼道
能惑衆           
            「魏志」倭人伝

倭国は争いが治まらず一女子(卑彌呼を)共に立てて王としたとあるが争いは一国内の争いではなく九州北部の諸王間の大倭王の座の争奪戦であったと言えないだろうか
吉野ヶ里遺跡 北内郭

○邪馬台国の景観

          居処宮室楼観
城柵皆持兵守衛法俗厳峻
         「後漢書」倭伝


      居処宮室楼観城柵厳設常有人
持兵守衛
            「魏志」倭人伝

大倭王卑弥呼が住む邪馬台国とははどんな景観であったのか

城柵と濠で集落を取り囲みさらに内郭で囲み厳重な大倭王の警備
吉野ヶ里遺跡 城柵

楼観 兵士が常時警備にあたった物見のやぐらか
吉野ヶ里遺跡 楼観

大型建物 諸王を威嚇することもできたろう壮大な建物
これだけ大きな建物が建つのに王は竪穴住居なのか・・・
吉野ヶ里遺跡 大型建物

大規模な墳丘墓や甕棺墓はこの集落の人口の多さを示すものだろう
吉野ヶ里遺跡 墳丘墓甕棺墓

吉野ヶ里遺跡を邪馬台国にイメージして見ました この遺跡は大倭王が居住した都であると想像してもおかしくはないと思いました  倭国大乱と後漢書に記すということは単に一国の騒乱を言うのではなく倭国の大倭王の座を九州北部の諸王が争奪し合ったものでこの諸国連合を邪馬台国と言ったものではないかとも感じました

       

          佐賀県 吉野ヶ里遺跡   (2018年2月)


九州北部の旅②水稲耕作の遺跡を見る2018/03/03 11:21

      土宜禾稲麻紵蠶桑知織
績為縑布
                「後漢書」倭伝

弥生文化は九州北部で成立したという
弥生時代前期の板付遺跡を見た

集落(ムラ)を中心に水路をめぐらして水田を開いた
集落には住居や稲穂の貯蔵施設があり濠で取り囲んでいた
板付遺跡全景

住居は松菊里型という竪穴式住居 韓国にこれと同じ造りものがあると云う
土器は弥生時代初期の板付式土器
板付遺跡 竪穴住居

木製農具 農具は稲作技術と同時に伝わったようだ
ということは、先に水稲をやっていた人々が移り住んで開拓したということかも
板付遺跡 木製農具

後漢書に記すようにここでも蚕桑の知識があったというのか
板付遺跡 蚕

この後(弥生中期)に福岡平野には奴国が成立していく
            福岡県 福岡市   (2018年2月)

九州北部の旅①漢委奴国王金印を見る2018/03/01 14:52

福岡市博物館で展示された国宝の金印を見る

     建武中元二年倭奴国奉貢
朝賀使人自称大夫倭国之極南界也光
武賜以印受
                「後漢書」倭伝
大きさは漢の一寸角
金の純度は後漢までの金製品とほぼ同じ(純度95%)
漢委奴国王金印

倭は亻がない委であるが
漢委奴国王金印

鈕(つまみ)は蛇を形どったもの
蛇は南方諸民族へ下賜のもの 北方民族へは駱駝や羊だそうだ
漢委奴国王金印

古希を迎えてようやく歴史の教科書にでていたものを見ることができました
建武中元2年(西暦57年)九州北部に後漢に直属する奴というクニあり


          福岡県 福岡市博物館  (2018年2月)