久米島 具志川城跡2020/01/12 11:12

沖縄方面の城は?
沖縄の歴史はよくわからない
久米島は黒潮あらう中国本土航海の要衝ということで城を築く必要があったのだろうか

久米島には4つもの城址が残されている
15世紀初頭に伊敷索(いなのは)一族という武装集団が島を支配したとき築城したという
その一つがこの具志川城である

具志川城は島の北に位置し過って海に囲まれていたというが今は南側は陸続きである

城門は南側の南側にある
久米島 具志川城跡

積石の城壁に囲まれた場内は4つの郭に区切られている
久米島 具志川城跡

三の郭に位置する城壁
久米島には具志堅三兄弟という石垣職人がおったという
久米島 具志川城跡

この海を渡ってどのような人々がやってきたのだろうか
この城の生活はどのようなものであっただろうか
1507年琉球王朝の尚真王によって伊敷索は討伐されたと聞くがこの島でどのような争いがあったのか
久米島 具志川城跡

この城ではどんな物語が文書として残されていたのだろうか
どんな古文書があるのか見てみたい
久米島 具志川城跡

14世紀頃、神と交信できる数人の根神(女:ニーガン)とニ三十人の根人(男)が村落をつくっていたという
君南風(チンベー)と呼ばれる根神の最高神(祭司)である
城の南側の斜面に祭祀のときにこのチンベーが座る石坐(トートー石)がある
久米島 具志川城跡トートー石

いったいここではどんな歴史が展開していたのだろうか興味を起させる城址でありました


         沖縄県 久米島町 具志川城跡  (2019年12月14日)

瓜州 鎖陽城遺跡 塔尓寺2019/12/12 11:20

甘粛省 瓜州県(旧名安西県)に残る鎖陽城遺跡と塔尓寺跡です
楡林窟に行く道中に訪れました

鎖陽城遺跡
瓜州 鎖陽城遺跡

        西南の展望台より北方面
瓜州 鎖陽城遺跡

        展望台より東方面
        高さ10メートルを超す城壁
瓜州 鎖陽城遺跡

        展望台より東北方面
        内城は東西に区切られている
瓜州 鎖陽城遺跡


        展望台より東方向 塔尓寺の姿を認める
瓜州 鎖陽城遺跡



塔尓寺跡
        巨大な仏塔と北側に複数の小仏塔が残っている
瓜州 鎖陽城遺跡 塔ル寺

        小仏塔は崩れ中の形が確認できる
瓜州 鎖陽城遺跡 塔ル寺

        崩れた小仏塔
瓜州 鎖陽城遺跡 塔ル寺

        大仏塔の南側は風や砂嵐の影響が少なかったためか
        塔の造りの姿をよく留めている
瓜州 鎖陽城遺跡 塔ル寺


              
瓜州 鎖陽城遺跡の案内図
瓜州 鎖陽城 案内図

    (注)塔ル寺の塔は仏塔(ストゥーパ)と思いそのように表現しました
         中国 甘粛省 瓜州県 (2019年11月25日)

春日山城址(令和元年5月12日)2019/06/07 20:29

上杉謙信の居城跡春日山
春日山城 古図

春日山城址 二の丸三之丸

春日山神社より杉林の坂道を登って行くと
春日山城址

平らな千貫門跡に着く 左手には空掘りと塹壕跡とある二本の切り通しが残る
春日山城址 千貫門

上杉少弼入道宅跡を過ぎると空掘の上部に出る 千貫門跡を見下ろす
春日山城址 空掘り

その先に虎口があり登りきると直江屋敷跡がある

春日山城址 直江屋敷

春日山城址 直江屋敷

直江屋敷跡を登るとお花畑跡があり

春日山城址  お花畑

さらに頚城平野が展望できる見通しの良い坂道を行くと

春日山城址 展望

謙信が出陣の前に籠ったという毘沙門堂がある

春日山城址  毘沙門堂

お堂の中に祀られているのは毘沙門天

春日山城址 毘沙門堂内部

続いて戦勝や息災を祈祷した護摩堂や諏訪堂の跡を通り抜けて行くと

護摩堂と諏訪堂

春日山の頂上にある本丸と天守台に辿り着く

春日山城址 本丸

春日山城址 天守台

本丸の裏側に油流しがあり

春日山城址 油流し

今でも水を湛えている大井戸がある井戸丸がある

春日山城址 井戸丸跡

井戸丸を下って登ると鐘楼跡があり

春日山城址 鐘楼跡

鐘楼跡の麓を回って行くと景勝屋敷跡である

春日山城址 景勝屋敷

春日山城址 景勝屋敷

ここから道は二の丸、三郎景虎屋敷跡がある三の丸へと下り、謙信像が立つ馬場跡へと続いている

春日山城址 二の丸三之丸


春日山城址 上杉謙信像
         

加沢平次左衛門が書き残した「加沢記」の巻の二に春日山に関して「春日山」との記述があり御館の乱を記した部分がある。
「天正六戊寅年三月十三日謙信入道逝去有ければ、甥の長尾喜平次景勝と北条氏政の末男三郎と申を関東より呼越参らせ景虎と名付け両人なから養子と約束有けれども、譲なく風と逝去成ければ、本丸、二丸の間にて合戦有、此由三郎景虎の臣遠山左衛門、山中民部右衛門小田原に告げければ氏政聞給いて、景勝退治あらんとて舎弟美濃守氏明、氏邦大将にて先陣松田尾張守、相随人々には千葉、中山、宇都宮、由良、本庄、高山、倉賀野、太田☐☐川村、小幡、長尾、大胡、石野、佐野、清水太郎左衛門、塀賀伯耆守都合三万余騎、先陣氏邦沼田に着ければ後陣は武州川越にさゝえたり、三郎景虎生涯の由告来りければ如何思召たるか、皆々小田原へ引帰れける」

利根川と吾妻川の合流点に突き出した台地の先端に白井長尾氏の居城白井城があり、越州上杉勢力の上州の拠点が吾妻谷の入口にあったのである。
           新潟県上越市春日山城跡   (2019年5月12日)


上杉謙信像(令和元年5月12日)2019/05/24 15:39

春日山城跡にて
春日山城址 上杉謙信像

謙信は何処を睨んでいるのか?
宿敵信玄を睨んでいるのか?

          新潟県 上越市   (2019年5月12日)


文禄・慶長の役の城址をたどる2017/11/11 12:25

九州から対馬へさらに韓国へと対馬・朝鮮海峡と二つの海峡を船で渡ってみたいと前々より思っていた
それが今回実現できた

羽田⇒JL307⇒福岡
福岡⇒名護屋城跡⇒博多港
博多港⇒対馬海峡⇒対馬厳原港(泊)
(対馬)清水山城・金石城・万松院・桟原館
比田勝港⇒朝鮮海峡⇒釜山(泊)
(釜山)釜山子城・亀浦城・機張城
(蔚山広域市)蔚山城・西生浦城
釜山(泊)
釜山⇒鉄道⇒ソウル
(ソウル)漢陽都城・(昌徳宮・宗廟・徳寿宮)
ソウル(泊)
水原華城・南漢山城
インチョン⇒KE001⇒成田

肥前名護屋城
             天正19年大明への出兵(唐入り)の前線基地とするため秀吉の命により築城
     それは当時として大阪城に次ぐ規模の桃山様式の本格的な城郭であったという
     城普請ははじめ九州諸大名が行い第一陣が朝鮮へ出兵したあとは東国の大名が 
     引き継いで行ったようである
     
肥前名護屋城

 
      天守台には五層七階の天守閣が聳えていたという
肥前名護屋城跡
       
      城の周囲には160にも及ぶ大名が集結し陣屋を構え20万人ともいわれる
      大規模な城下町が形成されたようである
      真田昌幸の陣屋は陣屋位置を列記した古記録によると?ワク町下中尾と
      記録されている
肥前名護屋城
      この巨大な城はこの地に突然出現し忽然と消えた 天守や多くの御殿など
      建物は残っていない 
      玄界灘を見渡す本丸に「太閤が睨みし海のかすみ哉」と青木月斗の句碑が
      たっている
対馬海峡
博多港よりジェットフォイルに乗船対馬海峡を渡る
天気は曇りなれど波は穏やかだった
海が荒れなければそう大きくない船でも容易に渡れると感じた
対馬海峡

対馬
    清水山城
      肥前名護屋城~壱岐の勝本城~対馬の清水山城~朝鮮の釜山城と結ぶ
      中継ぎの城 
      尾根に沿って下から三ノ丸、二ノ丸、一ノ丸と曲輪が階段状に造られ
      各曲輪は登り石垣で結ばれている
対馬 清水山城

      三ノ丸
            眼下に厳原の街が広がる
清水山城三ノ丸

      一ノ丸
      標高206メートルの頂に本丸が
清水山城一の丸

      一ノ丸から見た厳原の街と厳原港
対馬 清水山城一ノ丸

    金石城
      対州宗氏の金石館を朝鮮の役のため改修秀吉の御座所に指定された
      平成2年に復元された大手の櫓門は寛文9年(1669年)21代義真が築いたもの
対馬 金石城

    万松院
      金石城の堀に沿って進むと対馬藩主宗家の菩提寺がある
      宗家一族の墓所である御霊屋に墓石が立ち並ぶ      
      朝鮮の役で重要な役割を果たした20代藩主宗義智の墓は宝篋印塔であった
満松院

朝鮮海峡
上対馬の比田勝港にて出国ジェットフォイルにて朝鮮海峡を渡る
ここも想像に反し海は穏やかだった


韓国
釜山広域市
    釜山子城台倭城
      文禄の役に築く
      釜山子城台倭城は釜山母城とともに倭城群の本拠地と言える
      丘陵全体が公園となっていて石垣が周囲を取り巻く
      
釜山子台倭城

      
      乱後も釜山鎮僉使営として利用され現在頂上に鎮南門や千万里将軍の
      記念碑などが建てられている
      また麓には朝鮮通信使を出航せしめた五色に彩られた永嘉台がある
釜山子城倭城

    亀浦倭城
      文禄の役に築く
      洛東江により船舶の停泊が可能であった
      対岸の金海竹島城と対で補給路の確保を目的とした
      標高76メートルの小高い丘の上に石垣が残り周りには空掘り跡が
      残る
      
亀浦倭城
      本丸は土饅頭の墓や畑がある私有地となっている
       
機張倭城
      

      洛東江対岸の金海竹島城の方面
釜山 亀浦城

 

    機張倭城
      文禄の役に築く
      釜山倭城~西生浦倭城~蔚山倭城と東海岸線を北に連結する中間の
      要地に位置する 兵を長期間軍を駐屯するため海岸の要衝地に位置
      して築かれ多数の船舶が収容可能であった
機張倭城

      登り石垣に沿って直線的な階段を登ると道は草ぼうぼうとなりその先に
      雑草に覆われた石垣が現われる
機張倭城
 

      本丸からの眺め
機張倭城


蔚山広域市
    蔚山倭城
      
      慶長の役(慶長2年)に築いた城で完成まじかにして明・朝鮮の大軍勢
      に取り囲まれ壮絶な籠城戦が行われた場所である
      

      城跡は公園となっていて市民の憩いの場所である 当時の遺構は石垣が
      若干残っているが多くは崩落したりはらみ出してして状態は良くない
蔚山倭城
      

    西生浦倭城
       文禄の役に築く
       釜山より東海岸線を北に60キロの地点、標高133メートルの丘陵に
       加藤清正が指揮して築城した大規模な城であった
       この城址は当時の遺構が多く残されているがこれは文禄・慶長の役後
       300年にわたり朝鮮水軍の同儉節制使営として利用されいたためと想像した   
西生浦倭城

       登り石垣
西生浦倭城

      大手口?から見た海岸リゾート
西生浦倭城

      本丸曲輪
      喰い違い虎口を通りぬけると本丸が開ける
西生浦倭城

      天守台を右に見てもう一方の喰い違い虎口を通ると最奥の馬出し
      曲輪に行き着く
西生浦倭城


      馬出し曲輪には出入口が塞がれた目隠し虎口が2か所造られている
西生浦倭城


ソウル
    漢陽都城
      内四山、北岳山、駱山、南山、仁王山をつなぐ城壁で漢陽を囲む
      花崗岩の城壁は高さ7~8メートル総長18.6キロメートルに及ぶ

      彰義門
                 この門から入る
漢陽都城

      北岳山の頂きに続く城壁
ソウル 漢陽都城
      


対馬海峡と朝鮮海峡をはさんで両国に展在する城跡を訪ね、その事件が本当にあったということが実感できた。また両海峡を船で渡って白村江に渡った人々、文禄・慶長の役で朝鮮へ渡った人々、明治~昭和の時代大陸へ渡った人々が抱いたと思う渡海の感覚を実感することも出来たようだ。さて韓国は長期間の連休中でどこも休日を楽しむ人々でにぎやいでいた。地震国の日本人の感覚からするととても不安に思える都市に林立する高層マンション群、また休日を人々がこの時とばかり燃え尽きるように思う存分楽しんでいる姿にもこの国の危うさを覚えてしまうのである。

        佐賀、対馬、釜山、ソウル   (2017年10月)

城址を訪ねる⑥鎌原城2016/08/26 21:42

鎌原城は吾妻川と万座川が合流する断崖の上にこの地の国周衆鎌原氏が構えた居城である
嬬恋村 鎌原城址

万座鹿沢で国道144号からロマンチック街道に進むと嬬恋郷土資料館があり案内看板に従って右折する 畑の中に続く細い舗装道路を進むと窯原氏の墓地がありその先に駐車場がある

        鎌原城址図
嬬恋村 鎌原城址

まずは三の丸 送電線の鉄塔下の畑に三の丸の杭が見える
        三の丸
嬬恋村 鎌原城址

その先へ車を進めると鎌原氏の墓場が右手にある
        平成になって建造された墓標
嬬恋村 鎌原城址 鎌原氏墓地


案内看板が建つ駐車場に車を停め歩くと堀切が残りその先に二の丸と本丸と続く
        堀切と二の丸跡
嬬恋村 鎌原城址 二の丸堀切

        本丸跡
嬬恋村 鎌原城址 本丸

現在城跡は広い畑作地となっていてトウモロコシ、キャベツ、花インゲンなどが栽培されていた
土塁のような防護壁は見あたらず城の備えとして形を残すのは二の丸堀切である

       群馬県 吾妻郡 嬬恋村 鎌原  (2016年8月19日)

城址を訪ねる⑤長野原城2016/05/29 11:10

吾妻にある城を「加沢記」の表現で見てみよう
○○城との表現は岩櫃城がある
○○の城とあるのは手子丸の城、尻高の城、中山の城、武山の城、折田の城、仙蔵の城など
○○の要害とあるのは武山、折田、仙蔵、山田、長野原、長野原、鎌原など
武山、折田、仙蔵は~の城と~の要害と二通りの表現が用いられている
長野原町にある長野原城は加沢記では長野原の要害と記されている


十二坂を登る
長野原城址(十二坂)

十二坂を登りきって長野原城址との立札の矢印に従って小道を進む
小道の分岐点を左に登る

まず虎口(出入り口)がある
長野原城址(虎口)

土塁や空堀で防御を固め
長野原城址(土塁と空掘

さらに大堀切で城郭を南北に隔てる
長野原城址(大堀切)

その先に本丸がある
長野原城址(本丸)

本丸の先端に櫓台状の小区画があり城址碑が立つ
そこでは北東~南東方面に尾根が走りその南北両面は断崖である
長野原城址(本丸)

本丸の北西側に段築状に曲輪が重なる
長野原城址(曲輪)

南東方向尾根に沿って出丸や物見に下る道がある
長野原城址(ヤセ尾根)

秋葉山出丸跡には武者溜りと秋葉神社跡の石碑がある
長野原城址(秋葉山出丸)

さらに下ると三角点
長野原城址(二等三角点)

尾根道の終点は物見台?
ここは箱岩という岩の頂上になるのかどうか??
これ以上は危険で行けそうもない
長野原城址(物見台?)

長野原城はどんな城であったか?
加沢記の長野原合戦のでは長野原の要害として斎藤越前勢と戦った真田幸隆の舎弟常田新六郎が羽尾に討たれるまでの顛末が語られている
長野原城址(本丸)

長野原の要害のイメージ
長野原城址(配置イメージ)

北条氏が滅び吾妻を真田氏が領有するところとなって、吾妻の城は岩櫃城を残して全て破却廃城となった
      群馬県 吾妻郡 長野原町  (2016年5月12日)

海野長門守幸光の墓と羽根尾城址2016/05/22 17:17

長野原町羽根尾の○○山の麓に吾妻郡の戦国武将の墓がある
その武将の名は海野長門守幸光
羽尾治部入道道雲の二男海野長門守幸光三男海野能登守輝幸とて無双の勇士と加沢記に記される
海野長門守の墓

その墓はいちばん右側筐印塔の形を留めている
海野長門守の墓

掲示板があり墓の説明と吾妻の戦国武将海野兄弟の辿った略歴が記されている
斎藤越前守の家臣であったが真田に寝返り功名を立て岩櫃城代に昇り詰めるがその後逆心ありとて真田によって七十五歳を最後として岩櫃の露と消えた 
海野長門守の墓誌


墓碑は塔身の部分がやや違うがほぼ宝筐印塔の形をしている
正面は「雲林院殿前長州洞雲全龍居士」と海野長門守幸光の戒名を記し
海野長門守の墓碑

右方の側面には「上野州我妻郡羽根尾城主海野長門守同舎弟能登守従往者雖有遺跡没為水災故改之」と墓碑を改めた理由が記され
海野長門守墓碑右側

左方の側面には「干時元文三年戌午七月朔日宗泉五世月心叟再興之」と墓碑を再興した言われが記されている (1732年この土地の宗泉寺の住職月心叟が再興したことが記されている)
海野長門守墓碑

ここから水音が鳴る木陰の山麓道を辿り
羽根尾城址へ水路のある山道

落ち葉が降り積もった階段を330段ほどほぼ直線で登りきったところに羽根尾城本丸址がある
羽根尾城址

尾根にそって二の丸や堀切などがあるということであるが表示もなくよく分からない
羽根尾城址

海野長門守の墓に建てられた掲示板で羽根尾城の略歴を見ておこう
羽根尾城略歴

本丸跡からの羽根尾の集落を見下ろす現在の展望である 戦国の世もこの城山がこのように立木で覆われていたとするならばこの城の展望は寄せ来る軍勢をどれくらい察知できたのであろうか(あまり遠くまできかなかったのではなかろうか)
羽根尾城址からの展望

長野原町の中心に1263年創建された雲林寺がある
火災だ亡失していたこの寺の伽藍を再建したのがこの海野長門守である
        長野原町雲林寺
長野原町 雲林寺

海野長門守幸光舎弟能登守輝光や羽根尾城などの経緯などを詳しく知りたければ「加沢記」を一読することをお勧めしたい

加沢記 巻之一  鎌原と羽根尾合戦之事
         長野原合戦之事
         斎藤入道没落並沼田勢加勢之事   
    巻之二  海野長門守同能登守吾妻郡代
    巻之三  海野兄弟御成敗矢沢頼綱無二心事
         海野兄弟迦葉とむらい玉ふ事  

      群馬県長野原町 羽根尾  (2016年5月12日)

城址を訪ねる③沼田城2016/03/30 16:57

ふるさとはNHK大河ドラマ「真田丸」の舞台となっていることで盛り上がりを見せている 威容を誇る岩櫃の山塊は私の家の窓から常に見える位置に鎮座している
記憶の中で残る沼田城址は公園の鐘楼であった
沼田城址 鐘楼

沼田城の形はどのようなものであったのか??
正保年間につくられた正保城絵図にそのかたちが見て取れる
沼田城絵図に基づく城址

捨曲輪とある高台が最初に沼田万鬼斎が築城した蔵内城にあたる
そこには真田昌幸の策略で謀殺された沼田平八郎の首と載せた石と伝えられる平八石が祀られている
沼田城址 平八石

沼田城を与えられた信幸は慶長2年五重の天守を造営したと伝えられている
沼田城址 天守

しかし真田の支配は五代で改易となり天和2年に城は全て破却され堀も埋められてしまった
当時の偲ぶものと言えば
       西櫓台の石垣
沼田城址 西櫓台の石垣
       樹齢400年以上と言われるヒガンザクラ
沼田城址 御殿桜
       築城された小高い丘からの雄大な眺め
沼田城址 丘の上からの景色
である

最近建てたと分かる信幸と小松姫の真新しい像
沼田城址 信幸と小松姫像

とにもかくも「真田丸」放送開始されこの公園を訪れる人が多くなっているようだ
観光案内所には真田丸出演の役者さんたちも地域の観光に一役買っている
沼田城址 観光案内所サイン

子供の頃は真田十勇士の物語に出てくる猿飛佐助、霧隠才蔵や大阪の陣で活躍した真田幸村ぐらいが興味の的であった
岩櫃城は吾妻太郎や斎藤氏、沼田城は沼田氏とこの地域の勢力が治めていたが、武力知力に勝る真田に滅ぼされて支配された地域なのである 小松姫の物語がこれほど有名であっても古くから真田信幸や小松姫の像が建てられなかった心情がここにはあるのかも知れない


      群馬県 沼田市 沼田城址  (2016年3月25日)

城址を訪ねる②名胡桃城2014/11/07 21:29

利根川に架かる月夜野大橋を渡り国道17号線を走ると
名胡桃城址前交差点に名胡桃(なぐるみ)城址がある

天正7年武田勝頼の命を受けて利根に進攻した真田昌幸が築いたもので
後に天正17年北条方が秀吉の領土裁定を破り名胡桃城を攻略したことで
秀吉の怒りをかい小田原攻めの発端となった城である

名胡桃城址現況図
名胡桃城

名胡桃城は舌のように突き出した段丘面に築かれた山城で
三の郭、二の郭、本郭、ささ郭と堀切で区切られた郭(くるわ)が直線的に配置されている
天守のような建物はなく兵士が詰める建物が並んでいた

馬出郭、三の郭、二の郭
  郭の間に堀切を設け土橋や木橋を架けた
名胡桃城址

  三の郭と二の郭間の堀切
名胡桃城址

本 郭
  二の郭から土橋を渡り本郭へ
  巨大な石碑が建ちその前で六文銭の旗がはためく
名胡桃城址 本郭

ささ郭
  本郭より堀切を渡りると笹のような形をしたささ郭がある
  その先端に立つと目の前に月夜野の町並み三峰山が眺望が開く
  またこの先を下ると袖郭と物見郭が設けられている
名胡桃城址 ささ郭

段丘に郭を列ねるこの城の形を初めて見たとき真田町で見た真田氏の城を思い起こさせた
なお、この名胡桃城址は群馬県指定史跡に指定されている
      群馬県 利根郡  名胡桃城址 (2014年10月4日)