箕輪城址2020/08/17 08:31

箕 輪 城 跡          

 榛名山の東南麓に広がる丘陵に1500年頃上野国の守護代長野氏により築城された。

 北 榛名山方面の展望

箕輪城跡 榛名山方面の展望

東 赤城山方面の展望

箕輪城跡 赤城山方面展望


箕輪城構成図

  箕輪城跡の標高は約270メートル、面積は47ヘクタール(東西500メートル、南北1,100メートル)に及ぶ丘城(一部平城)である。西は榛名白川の断崖に臨み、南は椿名沼、東と北は水掘を回し守りを固めている。

箕輪城跡 配置図


搦手口

  東側の搦手口より城内に入る。左手は搦手馬出がある。

箕輪城跡 搦手口


二の丸

  坂道を登り上げると縦横各約80メートルの二の丸に着く。ここは出撃用の拠点で四方に出撃できる位置にある。

箕輪城跡 二の丸跡


本丸南掘

  右に折れ本丸に進むと左手に本丸と二の丸を隔てる幅30メートル深さ10メートルの空掘がある。

箕輪城跡 本丸南掘


本丸南虎口・馬出

  更に進むと右手に本丸門馬出しがある。
  (振り返って撮った写真)

箕輪城跡 本丸南虎口 馬出


本丸

  本丸跡には箕輪城の歴史と構造を記した石碑が建てられている。

箕輪城跡 本丸跡


    (やぶ蚊に悩まされながら)本丸跡に立つ

箕輪城跡  本丸に立つ


本丸

  南北約100メートル、東西約70メートル、東側に高い土手が  築かれ外からの視界を遮っている。

箕輪城跡  本丸跡


御前曲輪

 本丸の一部であったと考えられている。南西の隅に物見櫓が建てられていた。

箕輪城跡  御前曲輪跡

落城の際に長野業守以下が自刃した持佛堂があったと伝えられている。昭和に発見された井戸の中より多数の五輪塔の墓石が発見された。昭和21年に箕輪城将士慰霊碑が建てられた。

箕輪城跡  御前曲輪跡


本丸・御前曲輪間掘

 この空堀は東部が浅く西部が深くなっており、西の空堀に降りる通路となっていた。

箕輪城跡 本丸・御前曲輪館空堀


本丸掘

  本丸の西側の掘である。初期の空堀は全て通路壕であったが、後に掘り下げられてその働きを失っていった。

箕輪城跡  本丸掘


本丸西虎口門・橋台

  蔵屋敷から本丸に架かっていた木橋を渡ったところに門跡が確認された。ここに一階建ての高麗門があったと推定されている。

箕輪城跡  本丸西虎口・橋台


三の丸

  発掘調査によると長野期頃は屋敷地、北条期頃には鍛冶場、井伊期頃に三の丸と造り替えたことが判明した。

箕輪城跡  三之丸跡


大堀切・土橋・郭馬出

  大堀切によって城は南北に区切られ土橋ひとつで連結されている。一城別郭の城である。先にみえるのが郭馬出である。

箕輪城跡  大堀切・土橋


郭馬出・大掘切・土橋

  郭馬出は城の南側に出撃する拠点として備えられた。

(郭馬出より大堀切と土橋、二の丸方面を振り返って見る)

箕輪城跡  郭馬出・土橋・大堀切


郭馬出西虎口門

  発掘調査の結果、郭馬出の西側虎口で門跡を確認した。城門は二階建の櫓門と推定し復元した。

箕輪城跡  郭馬出西虎口門


木俣曲輪

  郭馬出を堀で隔てた曲輪で、発掘調査の結果家臣団の屋敷地の一つと考えられている。

箕輪城跡  木俣曲輪跡


搦手口へ下る

  大堀切を左にして下り搦手口に戻る。

箕輪城跡  搦め手口へ下る


慶長3年(1598)井伊直政は城を高崎に移し箕輪城は廃城になった。
 

 

 

   写真:令和2728日撮影

 記事:各々の説明文は城内の掲示板や観光パンフレットを参考に 
        しました。

 

    


         群馬県 高崎市箕郷町 箕輪城跡 (令和2年8月17日)

昭和村森下(鎌田)城跡2020/06/23 11:18

阿岨城より一段下の河岸段丘の縁に森下城の砦跡があります
私有地にあるためか古い立札があるだけでした
小道を回り庭先で作業をしていた婦人に目的を説明して
断りを得て立札に近づきました

史跡  森下城跡   

天神城、鎌田城とも呼

ばれ沼田城団の一つとし

て作られたといわれる。

後に真田、北条氏によっ

て前衛の砦として□□さ

れた天正十年(1582)

北条氏に攻められ、加藤

丹波守が奮戦した模様は

沼田元祖記にくわしい。

  昭和五十四年三月二十ニ日 指定
         昭和村教育委員会

県道沿いから城址を望む
こちらからは近づけそうもない
昭和村 森下城跡

この先の横道に入り回り込んで近づいた
昭和村 森下城跡

阿岨城跡には新しい掲示石板がありましたが、ここは昭和54年に設置した当初の
掲示で全て内容が読み取れませんでした
この城も加沢記によく登場する城塞です
         群馬県 片品 昭和村  (2020年6月19日)

昭和村阿岨城跡2020/06/21 15:27

群馬県昭和村に阿岨城、森下城、長井坂城など戦国の城址が残っています。
阿岨城の概要は昭和村教育委員会による案内文により紹介します。

昭和村指定史跡

阿岨城跡           指定 昭和五十四年三月二十二日

信越地方と関東を結ぶ要衝の地である上野(群馬県)は、戦国時代には北からの上杉氏、南からの北条氏、西からの武田氏と三つ巴の争覇の地であった。利根沼田は、上杉方の越後と関東を結ぶ拠点的通路であった。

 阿岨城は、沼田城を守護する沼田城団の一つとして、天正年間に築城された中世の城郭である。

 天正元年(1573)、沼田万亀斎は幕岩城から蔵内(沼田)城へ移ったが、万亀斎の愛妾・ゆのみの兄の金子美濃守にこの城が与えられた。天正十年(1582)、北条氏邦が長井坂城、阿岨(曾)城、鎌田(森下)城を次々に攻略した。加沢記によると、阿岨城では北条の兵三千騎の夜討ちに遭い、金子美濃守は騎馬もろとも谷を滑り落ち、蔵内城へ逃れたという。

 阿岨城跡は、沼田城下を一望できる橡久保原の崖端に位置し、現在、二重の掘跡を残すのみである。しかし、加沢記の記述等から推測すれば、当時の城郭はもっと大規模であったと想像できる。

     平成十二年三月二十九日

                  昭和村教育委員会



眼下は急峻な断崖
 ここから片品川の対岸の沼田城下が一望できたと思われる
昭和村 阿岨城跡

昭和村 阿岨城跡

石垣もなく掘跡だけが残る
昭和村 阿岨城跡

昭和村 阿岨城跡

6月19日は大雨で現地を見るのが大変でした
この城から沼田の町がどのように見えるのかを楽しみにしていましたがこの雨では残念ながら見られませんでした。
金子美濃守が加沢記であのように悪く書かれているのか個人的な興味があります。
     群馬県 利根郡 昭和村  (2020年6月19日)

久米島 具志川城跡2020/01/12 11:12

沖縄方面の城は?
沖縄の歴史はよくわからない
久米島は黒潮あらう中国本土航海の要衝ということで城を築く必要があったのだろうか

久米島には4つもの城址が残されている
15世紀初頭に伊敷索(いなのは)一族という武装集団が島を支配したとき築城したという
その一つがこの具志川城である

具志川城は島の北に位置し過って海に囲まれていたというが今は南側は陸続きである

城門は南側の南側にある
久米島 具志川城跡

積石の城壁に囲まれた場内は4つの郭に区切られている
久米島 具志川城跡

三の郭に位置する城壁
久米島には具志堅三兄弟という石垣職人がおったという
久米島 具志川城跡

この海を渡ってどのような人々がやってきたのだろうか
この城の生活はどのようなものであっただろうか
1507年琉球王朝の尚真王によって伊敷索は討伐されたと聞くがこの島でどのような争いがあったのか
久米島 具志川城跡

この城ではどんな物語が文書として残されていたのだろうか
どんな古文書があるのか見てみたい
久米島 具志川城跡

14世紀頃、神と交信できる数人の根神(女:ニーガン)とニ三十人の根人(男)が村落をつくっていたという
君南風(チンベー)と呼ばれる根神の最高神(祭司)である
城の南側の斜面に祭祀のときにこのチンベーが座る石坐(トートー石)がある
久米島 具志川城跡トートー石

いったいここではどんな歴史が展開していたのだろうか興味を起させる城址でありました


         沖縄県 久米島町 具志川城跡  (2019年12月14日)

瓜州 鎖陽城遺跡 塔尓寺2019/12/12 11:20

甘粛省 瓜州県(旧名安西県)に残る鎖陽城遺跡と塔尓寺跡です
楡林窟に行く道中に訪れました

鎖陽城遺跡
瓜州 鎖陽城遺跡

        西南の展望台より北方面
瓜州 鎖陽城遺跡

        展望台より東方面
        高さ10メートルを超す城壁
瓜州 鎖陽城遺跡

        展望台より東北方面
        内城は東西に区切られている
瓜州 鎖陽城遺跡


        展望台より東方向 塔尓寺の姿を認める
瓜州 鎖陽城遺跡



塔尓寺跡
        巨大な仏塔と北側に複数の小仏塔が残っている
瓜州 鎖陽城遺跡 塔ル寺

        小仏塔は崩れ中の形が確認できる
瓜州 鎖陽城遺跡 塔ル寺

        崩れた小仏塔
瓜州 鎖陽城遺跡 塔ル寺

        大仏塔の南側は風や砂嵐の影響が少なかったためか
        塔の造りの姿をよく留めている
瓜州 鎖陽城遺跡 塔ル寺


              
瓜州 鎖陽城遺跡の案内図
瓜州 鎖陽城 案内図

    (注)塔ル寺の塔は仏塔(ストゥーパ)と思いそのように表現しました
         中国 甘粛省 瓜州県 (2019年11月25日)

春日山城址(令和元年5月12日)2019/06/07 20:29

上杉謙信の居城跡春日山
春日山城 古図

春日山城址 二の丸三之丸

春日山神社より杉林の坂道を登って行くと
春日山城址

平らな千貫門跡に着く 左手には空掘りと塹壕跡とある二本の切り通しが残る
春日山城址 千貫門

上杉少弼入道宅跡を過ぎると空掘の上部に出る 千貫門跡を見下ろす
春日山城址 空掘り

その先に虎口があり登りきると直江屋敷跡がある

春日山城址 直江屋敷

春日山城址 直江屋敷

直江屋敷跡を登るとお花畑跡があり

春日山城址  お花畑

さらに頚城平野が展望できる見通しの良い坂道を行くと

春日山城址 展望

謙信が出陣の前に籠ったという毘沙門堂がある

春日山城址  毘沙門堂

お堂の中に祀られているのは毘沙門天

春日山城址 毘沙門堂内部

続いて戦勝や息災を祈祷した護摩堂や諏訪堂の跡を通り抜けて行くと

護摩堂と諏訪堂

春日山の頂上にある本丸と天守台に辿り着く

春日山城址 本丸

春日山城址 天守台

本丸の裏側に油流しがあり

春日山城址 油流し

今でも水を湛えている大井戸がある井戸丸がある

春日山城址 井戸丸跡

井戸丸を下って登ると鐘楼跡があり

春日山城址 鐘楼跡

鐘楼跡の麓を回って行くと景勝屋敷跡である

春日山城址 景勝屋敷

春日山城址 景勝屋敷

ここから道は二の丸、三郎景虎屋敷跡がある三の丸へと下り、謙信像が立つ馬場跡へと続いている

春日山城址 二の丸三之丸


春日山城址 上杉謙信像
         

加沢平次左衛門が書き残した「加沢記」の巻の二に春日山に関して「春日山」との記述があり御館の乱を記した部分がある。
「天正六戊寅年三月十三日謙信入道逝去有ければ、甥の長尾喜平次景勝と北条氏政の末男三郎と申を関東より呼越参らせ景虎と名付け両人なから養子と約束有けれども、譲なく風と逝去成ければ、本丸、二丸の間にて合戦有、此由三郎景虎の臣遠山左衛門、山中民部右衛門小田原に告げければ氏政聞給いて、景勝退治あらんとて舎弟美濃守氏明、氏邦大将にて先陣松田尾張守、相随人々には千葉、中山、宇都宮、由良、本庄、高山、倉賀野、太田☐☐川村、小幡、長尾、大胡、石野、佐野、清水太郎左衛門、塀賀伯耆守都合三万余騎、先陣氏邦沼田に着ければ後陣は武州川越にさゝえたり、三郎景虎生涯の由告来りければ如何思召たるか、皆々小田原へ引帰れける」

利根川と吾妻川の合流点に突き出した台地の先端に白井長尾氏の居城白井城があり、越州上杉勢力の上州の拠点が吾妻谷の入口にあったのである。
           新潟県上越市春日山城跡   (2019年5月12日)


上杉謙信像(令和元年5月12日)2019/05/24 15:39

春日山城跡にて
春日山城址 上杉謙信像

謙信は何処を睨んでいるのか?
宿敵信玄を睨んでいるのか?

          新潟県 上越市   (2019年5月12日)


文禄・慶長の役の城址をたどる2017/11/11 12:25

九州から対馬へさらに韓国へと対馬・朝鮮海峡と二つの海峡を船で渡ってみたいと前々より思っていた
それが今回実現できた

羽田⇒JL307⇒福岡
福岡⇒名護屋城跡⇒博多港
博多港⇒対馬海峡⇒対馬厳原港(泊)
(対馬)清水山城・金石城・万松院・桟原館
比田勝港⇒朝鮮海峡⇒釜山(泊)
(釜山)釜山子城・亀浦城・機張城
(蔚山広域市)蔚山城・西生浦城
釜山(泊)
釜山⇒鉄道⇒ソウル
(ソウル)漢陽都城・(昌徳宮・宗廟・徳寿宮)
ソウル(泊)
水原華城・南漢山城
インチョン⇒KE001⇒成田

肥前名護屋城
             天正19年大明への出兵(唐入り)の前線基地とするため秀吉の命により築城
     それは当時として大阪城に次ぐ規模の桃山様式の本格的な城郭であったという
     城普請ははじめ九州諸大名が行い第一陣が朝鮮へ出兵したあとは東国の大名が 
     引き継いで行ったようである
     
肥前名護屋城

 
      天守台には五層七階の天守閣が聳えていたという
肥前名護屋城跡
       
      城の周囲には160にも及ぶ大名が集結し陣屋を構え20万人ともいわれる
      大規模な城下町が形成されたようである
      真田昌幸の陣屋は陣屋位置を列記した古記録によると?ワク町下中尾と
      記録されている
肥前名護屋城
      この巨大な城はこの地に突然出現し忽然と消えた 天守や多くの御殿など
      建物は残っていない 
      玄界灘を見渡す本丸に「太閤が睨みし海のかすみ哉」と青木月斗の句碑が
      たっている
対馬海峡
博多港よりジェットフォイルに乗船対馬海峡を渡る
天気は曇りなれど波は穏やかだった
海が荒れなければそう大きくない船でも容易に渡れると感じた
対馬海峡

対馬
    清水山城
      肥前名護屋城~壱岐の勝本城~対馬の清水山城~朝鮮の釜山城と結ぶ
      中継ぎの城 
      尾根に沿って下から三ノ丸、二ノ丸、一ノ丸と曲輪が階段状に造られ
      各曲輪は登り石垣で結ばれている
対馬 清水山城

      三ノ丸
            眼下に厳原の街が広がる
清水山城三ノ丸

      一ノ丸
      標高206メートルの頂に本丸が
清水山城一の丸

      一ノ丸から見た厳原の街と厳原港
対馬 清水山城一ノ丸

    金石城
      対州宗氏の金石館を朝鮮の役のため改修秀吉の御座所に指定された
      平成2年に復元された大手の櫓門は寛文9年(1669年)21代義真が築いたもの
対馬 金石城

    万松院
      金石城の堀に沿って進むと対馬藩主宗家の菩提寺がある
      宗家一族の墓所である御霊屋に墓石が立ち並ぶ      
      朝鮮の役で重要な役割を果たした20代藩主宗義智の墓は宝篋印塔であった
満松院

朝鮮海峡
上対馬の比田勝港にて出国ジェットフォイルにて朝鮮海峡を渡る
ここも想像に反し海は穏やかだった


韓国
釜山広域市
    釜山子城台倭城
      文禄の役に築く
      釜山子城台倭城は釜山母城とともに倭城群の本拠地と言える
      丘陵全体が公園となっていて石垣が周囲を取り巻く
      
釜山子台倭城

      
      乱後も釜山鎮僉使営として利用され現在頂上に鎮南門や千万里将軍の
      記念碑などが建てられている
      また麓には朝鮮通信使を出航せしめた五色に彩られた永嘉台がある
釜山子城倭城

    亀浦倭城
      文禄の役に築く
      洛東江により船舶の停泊が可能であった
      対岸の金海竹島城と対で補給路の確保を目的とした
      標高76メートルの小高い丘の上に石垣が残り周りには空掘り跡が
      残る
      
亀浦倭城
      本丸は土饅頭の墓や畑がある私有地となっている
       
機張倭城
      

      洛東江対岸の金海竹島城の方面
釜山 亀浦城

 

    機張倭城
      文禄の役に築く
      釜山倭城~西生浦倭城~蔚山倭城と東海岸線を北に連結する中間の
      要地に位置する 兵を長期間軍を駐屯するため海岸の要衝地に位置
      して築かれ多数の船舶が収容可能であった
機張倭城

      登り石垣に沿って直線的な階段を登ると道は草ぼうぼうとなりその先に
      雑草に覆われた石垣が現われる
機張倭城
 

      本丸からの眺め
機張倭城


蔚山広域市
    蔚山倭城
      
      慶長の役(慶長2年)に築いた城で完成まじかにして明・朝鮮の大軍勢
      に取り囲まれ壮絶な籠城戦が行われた場所である
      

      城跡は公園となっていて市民の憩いの場所である 当時の遺構は石垣が
      若干残っているが多くは崩落したりはらみ出してして状態は良くない
蔚山倭城
      

    西生浦倭城
       文禄の役に築く
       釜山より東海岸線を北に60キロの地点、標高133メートルの丘陵に
       加藤清正が指揮して築城した大規模な城であった
       この城址は当時の遺構が多く残されているがこれは文禄・慶長の役後
       300年にわたり朝鮮水軍の同儉節制使営として利用されいたためと想像した   
西生浦倭城

       登り石垣
西生浦倭城

      大手口?から見た海岸リゾート
西生浦倭城

      本丸曲輪
      喰い違い虎口を通りぬけると本丸が開ける
西生浦倭城

      天守台を右に見てもう一方の喰い違い虎口を通ると最奥の馬出し
      曲輪に行き着く
西生浦倭城


      馬出し曲輪には出入口が塞がれた目隠し虎口が2か所造られている
西生浦倭城


ソウル
    漢陽都城
      内四山、北岳山、駱山、南山、仁王山をつなぐ城壁で漢陽を囲む
      花崗岩の城壁は高さ7~8メートル総長18.6キロメートルに及ぶ

      彰義門
                 この門から入る
漢陽都城

      北岳山の頂きに続く城壁
ソウル 漢陽都城
      


対馬海峡と朝鮮海峡をはさんで両国に展在する城跡を訪ね、その事件が本当にあったということが実感できた。また両海峡を船で渡って白村江に渡った人々、文禄・慶長の役で朝鮮へ渡った人々、明治~昭和の時代大陸へ渡った人々が抱いたと思う渡海の感覚を実感することも出来たようだ。さて韓国は長期間の連休中でどこも休日を楽しむ人々でにぎやいでいた。地震国の日本人の感覚からするととても不安に思える都市に林立する高層マンション群、また休日を人々がこの時とばかり燃え尽きるように思う存分楽しんでいる姿にもこの国の危うさを覚えてしまうのである。

        佐賀、対馬、釜山、ソウル   (2017年10月)

城址を訪ねる⑥鎌原城2016/08/26 21:42

鎌原城は吾妻川と万座川が合流する断崖の上にこの地の国周衆鎌原氏が構えた居城である
嬬恋村 鎌原城址

万座鹿沢で国道144号からロマンチック街道に進むと嬬恋郷土資料館があり案内看板に従って右折する 畑の中に続く細い舗装道路を進むと窯原氏の墓地がありその先に駐車場がある

        鎌原城址図
嬬恋村 鎌原城址

まずは三の丸 送電線の鉄塔下の畑に三の丸の杭が見える
        三の丸
嬬恋村 鎌原城址

その先へ車を進めると鎌原氏の墓場が右手にある
        平成になって建造された墓標
嬬恋村 鎌原城址 鎌原氏墓地


案内看板が建つ駐車場に車を停め歩くと堀切が残りその先に二の丸と本丸と続く
        堀切と二の丸跡
嬬恋村 鎌原城址 二の丸堀切

        本丸跡
嬬恋村 鎌原城址 本丸

現在城跡は広い畑作地となっていてトウモロコシ、キャベツ、花インゲンなどが栽培されていた
土塁のような防護壁は見あたらず城の備えとして形を残すのは二の丸堀切である

       群馬県 吾妻郡 嬬恋村 鎌原  (2016年8月19日)

城址を訪ねる⑤長野原城2016/05/29 11:10

吾妻にある城を「加沢記」の表現で見てみよう
○○城との表現は岩櫃城がある
○○の城とあるのは手子丸の城、尻高の城、中山の城、武山の城、折田の城、仙蔵の城など
○○の要害とあるのは武山、折田、仙蔵、山田、長野原、長野原、鎌原など
武山、折田、仙蔵は~の城と~の要害と二通りの表現が用いられている
長野原町にある長野原城は加沢記では長野原の要害と記されている


十二坂を登る
長野原城址(十二坂)

十二坂を登りきって長野原城址との立札の矢印に従って小道を進む
小道の分岐点を左に登る

まず虎口(出入り口)がある
長野原城址(虎口)

土塁や空堀で防御を固め
長野原城址(土塁と空掘

さらに大堀切で城郭を南北に隔てる
長野原城址(大堀切)

その先に本丸がある
長野原城址(本丸)

本丸の先端に櫓台状の小区画があり城址碑が立つ
そこでは北東~南東方面に尾根が走りその南北両面は断崖である
長野原城址(本丸)

本丸の北西側に段築状に曲輪が重なる
長野原城址(曲輪)

南東方向尾根に沿って出丸や物見に下る道がある
長野原城址(ヤセ尾根)

秋葉山出丸跡には武者溜りと秋葉神社跡の石碑がある
長野原城址(秋葉山出丸)

さらに下ると三角点
長野原城址(二等三角点)

尾根道の終点は物見台?
ここは箱岩という岩の頂上になるのかどうか??
これ以上は危険で行けそうもない
長野原城址(物見台?)

長野原城はどんな城であったか?
加沢記の長野原合戦のでは長野原の要害として斎藤越前勢と戦った真田幸隆の舎弟常田新六郎が羽尾に討たれるまでの顛末が語られている
長野原城址(本丸)

長野原の要害のイメージ
長野原城址(配置イメージ)

北条氏が滅び吾妻を真田氏が領有するところとなって、吾妻の城は岩櫃城を残して全て破却廃城となった
      群馬県 吾妻郡 長野原町  (2016年5月12日)