コレヒドール島の石2020/08/06 16:21

海に埋もれた鎮魂歌
コレヒドールのサースビーチに血の色をした石があるという
その話を聴いて砂浜を探したら
赤くそまった石を見つけた
この島で命を落とした男たちの若き血潮で染まったといって
75年過ぎても言い伝えをやめない男が居る
コレヒドールの石

赤く染まった石は色を落とそうとしない
今でもこの海で今の先を危ぶんで
鎮魂することはできないと叫んでいるのだ
コレヒドール島サースドック

2019年3月10日撮影

         フィリピン コレヒドール島  (2020年8月6日)

マニラ サンチャゴ要塞(平成31年3月7日)2019/04/18 13:55

Fort SANTIAGO
1571年スペインによって造られた最初の要塞は丸太や土で囲んだ城塞であったという
マニラ サンチャゴ要塞


マニラ サンチャゴ要塞
 

One of the oldest fortifications in Manila,Built in 1571,on the site of native ettlement of Raja Aoliman.First fort was a palisaded structure of logs and earth.Destoroyed in the Limahong attack in 1574.Stone fort built between 1589 and 1592.Damaged in the 1645 earthquake.Repaired and strengthened from 1658 to 1663.Became the headquarters of the British occupation army from 1762 to 1764.Repaired and renovated in 1778.
マニラ ホセ・リサール

日本軍政時代ここには憲兵隊本部が置かれていた。

Formaer headquaters of the Philippine Division of the U.S.Army,Occupied by the Japanese military in 1942 where hundreds of civilans and guerillas were imprisoned,tortured and executed. Destroyed in the Battle of Manila in 1945.
  
          


THE DUNGEONS(地下牢)
最初は地下の弾薬庫として利用したが、湿気が多い気候で近くにパッシグ川が流れているため新しく別に弾薬庫を築いた。その後は刑務所の独房として使われた。
マニラ サンチャゴ要塞 地下牢

Pasig River
マニラ サンチャゴ要塞 パッシグ側


Used as depot of the U.S. Transportation Corps before turnover to the Philippine Covernment in 1946. Declared Shrine of Freedom in 1950.Restoration and maintenance of the fort began in 1951 under the National Park Development Commitleenegement was turned over to the Intramuros Administration in 1992.
          フィリピン マニラ  (2019年3月7日)

フィリピンの印象(一)(平成31年3月)2019/04/14 16:33

車は
日本車が多くボディーは洗車が行き届いてとてもきれいだった
軽自動車のような小型車は走っていないのだ
フィリピン マニラ

就労のため国外へ渡航するフィリピン人労働者は年間184万人で主な渡航先としてはサウジアラビア、アラブ首長国連邦、シンガポール、カタール、クェートであるいう。因みに海外からの送金は256億ドル GDPの8.6%を占めるという。民間人の自家用車の普及はこの海外での働きが大きく寄与していると考えても的はずれではないと思う。

日本車が多いのは「安物買いの銭失い」の精神があるからとうれしい現地ガイドの説明である。


しかし、マニラの道路は時間帯によっては車が氾濫して交通マヒがおこる
渋滞の中からより早く車を進めるにはドライバーの独特な運転技術が求められるようだ
フィリピン マニラ

とても私の運転技(ワザ)ではたちうち出来そうもない

公共交通として目を引いたものは「ジプニー」といういかついバスと
フィリピン ジプニー

「トライシクル」という風通しのよいサイド客車付きのオートバイである。
フィリピン トライスクール

気候に合った快適な乗り物は庶民の足として十分に活躍しているのが頼もしい。


都市交通システムはまだまだ課題が大であると思われるが、高度な交通システムを見せられるよりはフィリピンでしかないフィリピンならではの交通が見えた方がより旅の楽しみが味わえる。

          フィリピン マニラ  (2019年3月)

マニラ サン・オーガスチン教会(平成31年3月7日)2019/04/06 08:24

サン・オーガスチン教会

スペインがフィリピンにもたらしたもののひとつにキリスト教がある
フィリピンのカトリックの信者は人口の83%を占めると言われている
マニラ サン・オーガスチン教会

フィリピンはマレー系、中国系、スペイン系、少数民族など多民族国家
キリスト教の教会の門に玉を抱えた獅子が置かれているのを見たのは初めてであるが、それはここでは不思議ではないのである
マニラ サン・オーガスチン教会

夕方正門が開かれ6時前にはマニラの人々が集まった
私も夕食まで時間があったので教会に入り後ろの席に座って繰り広げられるミサの式典を見物した
ヨーロッパで経験した教会の雰囲気よりずっと自分に近い親しみを感じた
マニラ サン・オーガスチン教会

ミサの最後に二人の巫女?が席を廻り竿の先に紐でつるした袋を僕の頭上に垂らしたのでい躊躇することなく賽銭のつもりで小銭を袋に入れた。フィリピンでは宗教税はどれくらいかとガイドに尋ねたら税はない全て寄付だと回答であった
日本のこんなに近い国でカトリック大国があるとは認識を新たにした

            フィリピン マニラ (2019年3月7日)

マニラ マニラ大聖堂(平成31年3月7日)2019/04/05 16:41

マニラ大聖堂

スペイン統治時代の16世紀に創設

植民地支配のシンボルサンチャゴ要塞の門から見る現在のマニラ大聖堂
マニラ マニラ大聖堂


1945年2月マニラ市街戦の戦禍により破壊された大聖堂は1954年~58年に再建された

現在のマニラ大聖堂正面
マニラ マニラ大聖堂
 

聖堂の再建にあたっては復旧に必要なセメント6万袋が内山岩太郎氏らの手立て(アジア善隣国民運動)により寄贈された。現地ガイドのスズキ氏からはこれは日本に対するフィリピンの国民感情を和らげたことだったコメントがあった。

           フィリピン マニラ  (2,019年3月7日)

マニラ ホセ・リサールの記念碑(平成31年3月7日)2019/04/03 11:20

 
JOSE RIZAL
1861.6.19~1896.12.30

1896年12月29日
 ポート サンチャゴ
 獄中
マニラ ホセ・リサール

1896年12月30日
 ポート サンチャゴ
マニラ ホセ・リサール

 ポート サンチャゴ
マニラ ホセ・リサール


 バグンバヤン広場
  (リサール公園)
   銃殺刑執行
         フィリピンの国民的英雄
マニラ ホセ・リサール

東京の日比谷公園にホセ・リサール像が建てられている
碑文に曰「フィリピンの国民的英雄ホセ・リサール1888年この地東京ホテルに滞在する」

           フィリピン マニラ (2019年3月7日)

マニラ メモーラーレ-マニラ1945(平成31年3月7日)2019/03/27 09:00

MEMOLARE-MANILA1945

フィリピン民間人の犠牲者を追悼する記念碑
 イントラムロスのなかにある
メモリアルマニラ1945
        

ツアーの中に入っていないためバスを停車させ車窓より慰霊した
メモリアルマニラ1945

                  黙禱

         MEMORIARE-MANILA 1945
 THIS MEMORIAL IS DEDICATED TO ALL THOSE INNOCENT VICTIMS OF WAR. MANY OF WHOM WENT MAMELESS AND UNKNOWN TO A COMMON GRAVE,OR NEVER EVEN KNEW A GRAVE AT ALL,THEIR BODIES HAVING BEEN CONSUMED BY FIRE OR CRUSHED TO DUST BENEATH THE RUBBLE OF RUINS.

 LET THIS MONUMENT BE THE GRAVESTONE FOR EACH AND EVERY ONE OF THE OVER 100,000 MEN,WOMEN,CHILDREN AND INFANTS KILLED IN MANILA DURING ITS BATTLE OF LIBERATION,February 3-march 3,1945. WE HAVE NOT FORGOTTEN THEM,NOR SHALL WE EVER FORGET.
 
 

 MAY THEY REST IN PEACE AS PART NOW OF THE SACRED GROUND OF THIS CITY:
THE MANILA OF OUR AFFECTIONS.

                   FEBRUARY 18,1995


        フィリピン マニラ  (2019年3月7日)


マニラ米軍メモリアル墓地(平成31年3月11日)2019/03/26 17:19

MANIRA AMERICAN CEMETRY AND MEMORIAL
マニラ米軍メモリアル墓地
マニラ米軍記念墓地

マニラ米軍記念墓地

マニラ米軍記念墓地

マニラ米軍記念墓地

マニラ米軍記念墓地

マニラ米軍記念墓地
             TO THEIR MEMORY
           THEIR COUNTRY BRINGS
 ITS GRATITUDE AS FLOWER FOREVER LIVING
マニラ米軍記念墓地
   
 

                   黙禱
         フィリピン マニラ  (2019年3月11日)

コレヒドール島 ノースドック(平成31年3月10日)2019/03/25 14:21

Corregidor Island
North Dock
コレヒドール島

ノースドック
コレヒドール島 ノースドック

目の前にバターン半島
コレヒドール島 ノースドック

震洋隊リスト
震洋隊のリスト
          (コレヒドール島 日本平和庭園掲示)

        コレヒドール島 震洋隊配備
       第7震洋隊 山崎部隊 109名  第9震洋隊 中島部隊 244名 
       第10震洋隊 石川部隊 138名  第11震洋隊 中島部隊 123名
       第12震洋隊 松枝部隊 131名


第12震洋特別攻撃隊 松枝部隊
震洋特別攻撃隊 松枝部隊
          (コレヒドール島 太平洋戦争記念館掲示)
12.SHINYOTAI SPECIAL ATTAKER MATUE FORCE
FEBRULARY 1945 ATTACKED OUT FROM NORTH DOCK CORREGIDOR ISLAND BUT 131 ALL DEAD。

           第12震洋特別攻撃隊 松枝部隊
      1945年2月 コレヒドール島ノースドックより出撃全員戦死

        海軍特別攻撃隊 震洋艇 Ⅰ型 装備 250K爆装 
               (愛称アマガエル)

コレヒドール島 ノースドック
コレヒドール島 ノースドック

                  合掌

PHILIPPINE SHINYOU-TAI FALLEN SOLDIERS 1,144 OUT OF 1,700.
TOTAL SHINYOU-TAI 114 FORCES,FALLEN SOLDIERS WERE 2,557.
SO,PHILIPPINE SHINYOU-TAI HAD 45% DIED OF TOTAL OVERALL SHINYOU-TAI.

         フィリピン コレヒドール島  (2019年3月10日)

コレヒドール島 マリンタ・トンネル(平成31年3月10日)2019/03/24 15:25

Corregidor Island
Malinta Tunnel

コレヒドール島

Tailside Area
コレヒドール島東部エリア
コレヒドール島東部


Malinta Tunnel 
地下要塞 (桜隧道)
コレヒドール島 マリンタ・トンネル
         

East Entrance
東口
コレヒドール島 マリンタ・トンネル

Main Tunnel
中央トンネル(長さ925ft幅25ft)
コレヒドール島 マリンタ・トンネル
                  合掌


Lateral Tunnel
横穴
コレヒドール島 マリンタ・トンネル


MACARTHUR AT MALINTA TUNNEL
MARCH 2,1945
コレヒドール島 マリンタ・トンネル
GENERAL DOUGLAS MACARTHUR AND HIS STAFF PREPARE TO INSPECT MALINTA TUNNEL WHILE INFANTRY MEN ARE ON GUARD FOR ANY JAPANESE TROOPS THAT MAY STILL BE INSIDE.
(太平洋戦争記念館展示)

昭和20年2月25日、山頂の敵を山もろとも爆破するため海軍隧道に爆薬庫の爆薬を充填し隧道を封鎖、夜半爆薬に点火、爆発の衝撃は固い岩盤の山を爆破するには至らなかった。しかし封鎖されたはずの南口通路より爆破の噴煙がトンネル内に逆ふん入して激しい噴煙と熱気とガスにより一瞬にして日本将兵3,000名の命が失われた。
(ツアー現地ガイドスズキ氏の説明要約)

        フィリピン コレヒドール島(2019年3月10日)