碓氷郡 霧積温泉2020/08/21 16:43

東京に住んでいた頃の昭和46年の話から始める.
その頃 詩人や画家を目指した友がいた.
彼は碓氷郡出身の男性でペンネームが「碓氷久幸」であった.
私と彼は新宿の詩学の会の例会に通ったことがあった。
嵯峨信之氏や石原吉郎氏など現代詩人を代表する先生方が主催していた。
萩原朔太郎や室生犀星、立原道造、石川啄木などを読んでいた私にとって
現代詩を詠むのには未熟過ぎたと言える。
彼は「浄土」という詩集を自費出版した。
私はその詩集の巻頭に「君の詩を読むと妙義の山から流れ出る碓氷川を思い出さずにはいられない。僕はその流れの清い旋律に心うたれる。(1971.9.12)」と記した。
私と彼は詩学の会をぬけた 
彼は会社も辞め画家をめざしウラジオストックからシベリア鉄道でパリへ向った。ローマから届いた一通の絵葉書が最後の音信となった。千葉で暮しているとの風の便りに聞いたことがあるが、その後彼の消息は不明である。
霧積温泉の名前を初めて聴いたのは碓氷久幸君からであるから昭和46年頃ではないかと思っている。その後人間の証明で脚光をあびた頃、霧積に行ってみたいとの思いが高まった。その頃は群馬県碓氷郡松井田町坂本という地名であったのではなかろうか?平成の合併により碓氷郡の地名が消滅して今は群馬県安中市坂本である。明治の昔繁盛した上野国碓氷郡(ごおり)碓氷温泉のUSUIGORI(碓氷郡)の地名は奪われているのだ。

中山道17番目の宿場 坂本宿から国道を離れ県道を霧積川を遡ると終点に金湯館の駐車場がある。そこは霧積館のあった場所である。霧積館のあった場所には建物はなく熊野神社と鼻曲山への道標が残るのみである。
霧積温泉 霧積館跡

駐車場からホイホイ坂を登ると一軒宿の金湯館に辿り着くが、あらかじめ若女将のメールでの案内に従い県道に入る地点で電話をかけ迎えの車を依頼した。駐車場に到着するより早くマスクをした若旦那がワゴン車で迎えに到着していた。
霧積温泉 ほいほい坂

ここから送迎車は右に左にカーヴしながら専用の林道をあえぎながら谷を登っていく。車窓から谷間を眺めると谷は深く怖さを起させた。帽子を渓谷に落とすことなくようやく車は道端に停まった。車を降り渓谷を見下ろすと朱色の屋根の旅館の建物が見えた。覚束ない足取りでくの字に坂を下ると朱に塗った木橋を渡ると金湯館の玄関である。
霧積温泉 金湯館 玄関
玄関でスリッパに履き替える。秘湯の温泉場らしい玄関である。帳場で若女将が「お風呂が近い部屋がいいですか、トイレが近い方がいいですか?」と女房に訊いた。女房は困ったような顔をして僕に回答を託した。「おまえさんの古稀の記念に泊りにきたのに自分で決めれば」と心の中でころに思ったが「お風呂の近い方にお願いします。」と声をやや荒げて応答した。
南棟の一階の南側の角部屋に案内された。部屋に妙義山を描いた油絵が飾ってあり窓から水車が見えた。水車は15秒間水をためるとコトっと一言音をたててぐるりと一回転を繰り返していた。
霧積温泉 金湯館の水車

玄関を出て庭を散策する。
霧積川の渓流れは急である。渓流の底の固い地盤が浸食を防ぎ旅館を守っているように思えた。長い樋は渓流の水を流している。樋は水車まで敷かれていて何がしかに利用された水は終いには水車を回して渓流に戻っていくのだ。
霧積温泉 金湯館 霧積川

玄関脇に石碑がひっそりと立っている。勝海舟揮毫の書の石碑であるという。明治20年頃、即ち上野国北碓氷郡碓氷温泉の時代、皮膚病で湯治に来ていた勝海舟が矢島揖子の依頼により筆を執ったという。内容は聖書の一節であるようだ。

       我があたふる水を飲む者は永
       遠かわく事なし且わが予ふる
       水は其中にて泉となり湧出て
       永生に至るべし   約翰伝四章十四節
霧積温泉 金湯館 勝海舟石碑

西条八十の「麦わら帽子」の詩と森村誠一の「人間の照明」もここの温泉とのかかわりがより有名である。玄関の広間のパネルで西条八十と森村誠一が大きく紹介されているが、私にとって玄関の表から見えた麦わら帽子が象徴的であった。
霧積温泉  金湯館

源泉かけ流しの風呂に入る。
地名は霧積温泉、源泉名は入之湯という。泉温は38.9℃。
私はゆったりと湯につかり日常の疲れをとる。やがて肌にサイダーの泡粒のような泡が無数に付く。掌で肌を擦ると泡粒は皮膚を離れ湯面に浮かび音を立てて消える。これを繰り返して子供のような気分を味わった。

風呂からあがり夕食までの時間木の長椅子に腰を下ろし、長椅子で休んでいた大女将と話を交わした。電気や電話がなかったときの話、ふいにたくさんの客が来て廊下でも良いとそのようにして山小屋のようであったこと、湯治客のお話、一代で終いになった霧積館の話など霧積ことを拝聴することができた。

部屋食の夕食は心がこもっていてとても美味しかった。

夕食後まだ外は明るかった。谷間に静かに白い霧が降り積もってきた。
霧積温泉  金湯館 霧

霧積温泉 金湯館 霧


唐 十郎はこの宿に「湯煙りの中に消ちまいたい・・・」と色紙を残している。
霧積温泉  金湯館 色紙

私は「湯煙りと霧の中に消えちまいたい・・・・」と洒落て心の中に色紙を書き置いた。

消息不明の碓氷の詩人碓氷久幸のこと、消えちまった碓氷郡(USUIGORI)のこと、森林と渓谷の霧積のこと、若夫婦に引き継がれていく秘湯金湯館のこと、古稀に至った女房への思いなど様々な思いを思った霧積であった。
湯につかりながら二度上峠から鼻曲山に登り霧積に下り金湯館に泊るとの考えが浮かんだ。しかし古稀を過ぎた二人の体力では実行は無理であろう。しかし折を見て二人で鼻曲山まで登り山頂から碓氷を眺めて見たいとの思いが現実味を帯びた。



写真:令和2年7月23日撮影

       群馬県 安中市 霧積温泉   (令和2年8月21日)