横尾の地侍割田下総の古今稀なる振舞い2024/05/13 21:16

中之条町横尾の地侍割田下総について
加沢記に割田下総を我妻の住人割田下総守とて勇猛の兵あり、力万人に勝れ第一忍の上手古今無双也と称えている。
3月11日 中之条町横尾(旧横尾村)に残る割田下総守重勝の墓をお参りした。
割田下総の墓

割田下総の働きについて
加沢記巻之五「割田下総馬乗捕亊」に次のように記されている。
 天正13年酉9月北条氏直は沼田倉内城を攻めるため白井の原に小屋をかけた。その白井の原へ物見に忍び入ったことを割田は傍輩に面白く語った。 
 拙者(割田)は馬大豆売りに変装して馬大豆は如何と寄せ手の小屋小屋を巡って行くと、北条家の家老松田尾張守の小屋の前でニ三十人の若侍が名馬を取出し庭乗り遊びをしていたので足を止めて物珍しそうに見物したのさ。
 ひとりの若侍が近づいてきてお前は馬がわかるのかと尋ねたので、拙者はちょっと博労をやったことがあると答えると、若侍はこんな山の中ではこんな立派な馬は見たことはあるまい寄って見参しなと笑って言った。
 拙者は黒の馬に金幅輪の鞍を置いたこの名馬は松田尾張守のめし馬に相違ない、この馬を取ってやろうと思い馬に寄って見事な鞍を確認してから少しこの馬に乗って見たいと若侍と申し入れたら
 若侍は是を聞いて拙者(割田)を馬に乗せて鞭を打って迷惑させ小田原への土産話しにしようと思い付き、乗るのは恐ろしやと偽った拙者を無理やりうち乗せると仲間共が走り寄て一度に鞭を打ったもんだから、馬は聞こえる暴れ馬は向う見ずに走り出したもんだ。
 拙者はこのまま乗っ取り盗人と言われて口惜しいを思い、馬を乗り戻し変装を解き馬大豆を取り捨て「我を誰と思うらん、真田房州の御内なる割田下総守重勝なり」と名乗りあげて馬に捨て鞭をうち追いかける追手を振り切って片品川を渡り静かに倉内城内へ帰ったのさ。

 加沢記ではこの割田下総が振る舞いは古今稀なる事也と称えている。

吾妻記では
割田下総の働きを以下のように記している。
 天正11年頃か、中山の城へ忍び入ったところ、夜盗が入ったと騒ぎ立てられ追い出されたが、無念に思い追手の者より先に城内へ忍び入った。人がしずまってから馬に鞍を乗せ門を開いて馬に打ち乗り、大声を上げて「横尾村より割田下総参したしるしに御馬を頂いた、このお礼には重ねて参り城を攻め落とさんと」申して不動峠を越え須川から大道峠を経て宿へ帰ったと記している。
 また天正18年の松井田合戦では吾妻住人横尾村割田下総という大剛のもの一人竹束をかたげ城に向けて歩み寄り難なく竹束をつけた。しずしずとひいて鎧をふるったら鉄炮玉七つばかりあった。大将昌幸は大変喜び御褒美として御感状に備前長則の御刀を相添え下された。

また割田下総の最後を以下のように記している。
 高鳥死して良弓かくるとかや、爰に割田下総と申す者武道専らと稼ぎ武辺忍びの名人なり。去るにより信州河中嶋合戦の時越後の長尾謙信秘蔵の刀を盗み取り、子息下総に譲りける時移りける世静かになり、昔の剣は鍬鎌となり武道の奉公入れざれば知行にわかれ妻子共身命つぐべき便りなし。おちこち馳せめぐり少々宛の盗みを月日を送りける。
元和4年9月下旬、盗みの次第を家人により郡奉行出浦対馬守に訴えられ追手の鹿野和泉の手にかかり命を落とした。
 この一件を出浦が真田信之に報告すると「割田の盗みは割田にあらず、我より致せたものなり」と弥弥不憫に思し召し涙を流したと記されている。

 真田麾下で幾つかの手柄を上げた割田下総は何故か戦友であった唐沢玄蕃のように知行地宛行状の発給を受けた記録はない。加沢記、吾妻記では戦国の世で華々しく活躍した地侍割田下総の末路まで明らかに記されているのである。

唐沢玄蕃の墓とその活躍については次に掲載することとしたい。

       群馬県 吾妻郡 中之条町  令和6年5月13日

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