カンフォンドスナップ四「城隍閣(ソンファンガク)」2019/06/25 14:33

チョンソンのアラリ村で朝鮮時代の住居を見ることになっていた。今回朝鮮の住居について特に興味があったのは仏壇や神棚といったものがあるのか?またあるのであればどのようになっているのかということであった
ガイドにこの旨質問したところ「家の外にある」というだけの説明であった。そこでアラリ村内を探しまわったところ目立ちにくい藪の中で一宇の御堂が目にとまった

木陰にソナン(城隍)堂と説明がある

チョンソン アラリ村 ソナン堂

ソナン堂という御堂の入口には「しめ縄」を張って神域を囲っている

チョンソン アラリ村 ソナン堂

堂の中には なにやら 二体の神様が祀られていた

チョンソン アラリ村 ソナン堂

これはどうもソッチョの新興寺の三聖閣に祀られていた神様と同じようだ

チョンソン アラリ村 ソナン堂

供養机に城隍神 神位」と書かれた神札がお札立てにおさめられている

チョンソン アラリ村 ソナン堂

こりゃ祀る神が異なるが祀り方は自分の家の神棚と同じではないか

次に行ったピョンチャンの月精寺のモミの森の参道では偶然にも「城隍閣(ソンファンガク)」という御堂を発見した

チョンチャン 月精寺 城隍閣(ソンファンガク)

しめ縄はなく一体の神様が祀られていた

ピョンチャン 月精寺 城隍閣 神位

堂の脇の掲示板に曰
「地域の土俗神を祀る場所で仏教が定着に併せて仏教に収容されました。全ての思想や信仰を収容するという仏教の包容力を伺わせます。国師堂、国師壇、伽藍堂、城隍堂とも呼ばれています。」

ピョンチャン 月精寺 城隍閣 ガイド

寺院内に祀られる三聖閣と参道にある城隍閣にどのような関係があるのか?
三聖閣の祀る神様は国単位で共通する神様で城隍閣で祀る神様は地域や家単位の個別の神様を祀るものなのか?(三聖閣と城隍閣の関係は町の神社と家庭の神棚の関係とようなものではないかと勝手に推測しました)

  韓国 江原道 旌善(チョンソン) 平昌(ピョンチャン) (2019年6月11日)

カンウォンドスナップ三「仏教寺院(新興寺と月精寺)」2019年6月2019/06/24 11:42

カンウォンドにある2つの仏教寺院を訪ねました
一つは束草(ソッチョ)にある新興寺(シヌンサ)と
もう一つは平昌(ピョンチャン)にある月精寺(ウオルジョンサ)です

それぞれ新羅の善徳女王(ソンドッヨワン)の時代の創建で1300年以上の歴史を持つ古刹でありす
朝鮮王朝第3代王太宗により廃寺になったり朝鮮戦争による焼失など幾度かの災難を克服して現在に至っている
本尊は釈迦如来のようで日本でいえば曹洞宗と同じ本尊を祀る禅宗の寺である

○束草(ソッチョ)にある新興寺(シヌンサ)

一番高台に三聖閣という御堂がある

束草 新興寺 三聖閣

中を覗くと三つの聖人が祀られている どうも仏教の仏様ではない

束草 新興寺 三聖閣の神様

その一段下が釈迦如来を祀る本殿の極楽賓殿だ

束草 新興寺 本殿

本殿内の釈迦如来像

束草 新興寺 釈迦如来

本殿前の中庭

束草 新興寺 本殿前庭

創建以来残るものは本殿前の石段の手摺(ガードストーン)だけかも

束草 新興寺 本殿石段

本堂と同じレベルに鐘楼があり

束草 新興寺 鐘堂

中庭の一段下に幅広の普済楼がある

束草 新興寺 普済楼

普済楼は参拝者を仏前に導く入口であるようだ

束草 新興寺 普済楼

普済楼の先に四天王門がありここを抜け渓流に架かる橋を越えると

束草 新興寺

1989年建立されたという統一仏(トインプル)が鎮座している。
民族統一の願いを負託されたこの仏は弥勒菩薩だそうです
弥勒菩薩は56億7千万年後に仏となりこの世に現われ人々を救済するという未来仏で現在須弥山の上空にある兜卒天という天界で修行をしているそうです
なるべく早く民族統一の願いが叶うようにと仏前で祈りました

束草 新興寺 統一仏



○もう一つは平昌(ピョンチャン)にある月精寺(ウオルジョンサ)です
 月精寺は新興寺を同じような五台山国立公園ないの山深い閑静かな森の中にあります

一柱門から天王門までは渓流に沿った自然味豊かな道がつづきます

平昌 月精寺 一柱門

モミの森は行くひとにグリーシャワーを浴びせリラックスさせます
さすがに五台山国立公園の中にあるだけあります

平昌 月精寺 グリーンシャワー

足元を愛くるしいリスが走り回りこころを癒してくれます

平昌 月精寺 リス

グリーンシャワーの森は聖域を守る四天王が立ち並ぶ天王門へとつづきます

平昌 月精寺 天王門

天王門を入るとここでもリスが参道の岩のうえで夢中で餌を食んでいました
私がカメラを向けて近づいても逃げ出しません

平昌 月精寺 金剛門 りす

その次に金剛楼がありその先に石段がありここを登ると本殿のある中庭に入ります
近くに金剛橋という橋がありこの建物とセットで「金剛」という仏の教えを諭すものだろう

平昌 月精寺 金剛門

金剛楼の上には色鮮やかな八角の回転する??がある
この形は須弥山や兜卒天といった曼荼羅の世界を現しているものなのか??
水平に出ている棒をつかんで右回りで一回転させた

平昌 月精寺 金剛楼

金剛門の階段を登り切ると本殿の中庭へ入る

平昌 月精寺 中庭

本殿の正面に太鼓、鐘、魚鼓、??の鳴り物が四つ並んだ鐘鼓楼がある 
それらの鳴り物はどのように使われていのだろうか?
北京や西安では鐘で開門、太鼓で閉門を知らせたというが

平昌 月精寺 鐘鼓楼

鐘鼓楼の右隣に聞きなれない沸乳閣という真水が滾々と涌き出す水場がある
生活用水を供給する井戸なのか身を清める場所なのか??

平昌 月精寺 沸乳閣

中庭の真ん中に高さ15メートルほどの高麗時代の石造りの八角九重の塔が聳え「寂光殿」と額を掲げた本殿がある
寺院の建物は朝鮮戦争で全滅、この石塔だけが残ったそうである

平昌 月精寺 寂光殿

本殿のなかでは真新しい釈迦如来が鎮座する

平昌 月精寺 本尊釈迦如来像

新興寺と同じようにここ月精寺にも最上段に三聖閣があった
閣の中を覗き見ることができなかったが、新興寺と同じように三聖人が並んで祀られているいるのに相違ないだろうと思っている

平昌 月精寺 三聖閣

寺の造りは色彩がとても鮮やかである
仏塔は石造りがきわだっている
敷地内に墓所が見えない
仏様も神様も同じ場所に祀られている(神仏習合)

 
       韓国 江原道 束草 平昌  (2019年6月10~11日)

カンウォンドスナップ二「南怡(ナミソム)」2019.6.102019/06/22 11:09


冬ソナがあってのナミソムは今でも観光客の姿は絶たない

6月10日今日も雨であった
ナミサムは北漢江の中洲にある鳩サブレのような形をした島である
北漢江は京畿道加平郡と江原道春川市が相対する岸を流れ中洲のナミサムはどちらに属するのか?どちらでもないナミサムはNaminara Repubulicという独立国なのである
ナミナラ共和国へ入出国する方法は二つある
それは水面を船で渡る方法と空中をジップワイヤーで滑って越える方法である
ナミナラ共和国

船着き場でアンニョンハセヨ ナミソムイムニダ Welcomeと一対の雪だるまの人形が歓迎する
ナミナラ共和国

提灯を吊るした五葉松の道を進むと
ナミナラ共和国

冬ソナの雪だるまさんが   雨ですっかり濡れているなあ
ナミナラ共和国

冬ソナのファーストキッスの場所の設定なのだ
ナミナラ共和国

なんとしてもここだけは見ておかないとと雨の中ネタェコイアの道へ
ナミナラ共和国

ここでも冬ソナ(恋歌)像がありました
ナミナラ共和国 恋歌像

ナミナラ共和国にはなくてはならない冬ソナのドラマ
俳優たちは今でもみなさんのこころの中で甦り生き続けています
ナミナラ共和国

ナミナラ共和国

「冬のソナタ」は心の奥のスクリーンを灯しつづけていくことでしょう

        


        韓国 ナミナラ共和国   (2019年6月10日)

カンウォンドスナップ一「春川明洞通り」2019.6.92019/06/21 08:48

冬のソナタのドラマの舞台となったチュンチョンのミョンドン通りのスナップです

6月9日チュンチョンは雪でなく雨でした
チュンチョン ミョンドン通り

街のプレートの足タッチするのが私の訪問のあかし
チュンチョン ミョンドン通り

あれから20年近くが過ぎ二人の姿はあの時のままです。像はあのドラマの記憶を今のものとして甦らせる力を持っているのである
チュンチョン ミョンドン通り

通りの二階のお店で食べた鶏カルビ(dakgalbi)はご当地グルメです
チュンチョン ミョンドン通り

冬ソナの銅像のほか癒しのキャラクターも並んでいます
家族を大切にする韓国人ならではの像ですね
チュンチョン ミョンドン通り

最後は市民ホールの広場のチュンチョンの子どもたちの顔壁画です
チュンチョンの子どもたちの元気度が漲っていました
チュンチョン 子どもたちの壁画

韓国は4度目の訪問です。訪れる回数を重ねるほど外国に行ってしまったとの感じがどの国より薄いと感じます。

            韓国 江原道 春川  (2019年6月)

文禄・慶長の役の城址をたどる2017/11/11 12:25

九州から対馬へさらに韓国へと対馬・朝鮮海峡と二つの海峡を船で渡ってみたいと前々より思っていた
それが今回実現できた

羽田⇒JL307⇒福岡
福岡⇒名護屋城跡⇒博多港
博多港⇒対馬海峡⇒対馬厳原港(泊)
(対馬)清水山城・金石城・万松院・桟原館
比田勝港⇒朝鮮海峡⇒釜山(泊)
(釜山)釜山子城・亀浦城・機張城
(蔚山広域市)蔚山城・西生浦城
釜山(泊)
釜山⇒鉄道⇒ソウル
(ソウル)漢陽都城・(昌徳宮・宗廟・徳寿宮)
ソウル(泊)
水原華城・南漢山城
インチョン⇒KE001⇒成田

肥前名護屋城
             天正19年大明への出兵(唐入り)の前線基地とするため秀吉の命により築城
     それは当時として大阪城に次ぐ規模の桃山様式の本格的な城郭であったという
     城普請ははじめ九州諸大名が行い第一陣が朝鮮へ出兵したあとは東国の大名が 
     引き継いで行ったようである
     
肥前名護屋城

 
      天守台には五層七階の天守閣が聳えていたという
肥前名護屋城跡
       
      城の周囲には160にも及ぶ大名が集結し陣屋を構え20万人ともいわれる
      大規模な城下町が形成されたようである
      真田昌幸の陣屋は陣屋位置を列記した古記録によると?ワク町下中尾と
      記録されている
肥前名護屋城
      この巨大な城はこの地に突然出現し忽然と消えた 天守や多くの御殿など
      建物は残っていない 
      玄界灘を見渡す本丸に「太閤が睨みし海のかすみ哉」と青木月斗の句碑が
      たっている
対馬海峡
博多港よりジェットフォイルに乗船対馬海峡を渡る
天気は曇りなれど波は穏やかだった
海が荒れなければそう大きくない船でも容易に渡れると感じた
対馬海峡

対馬
    清水山城
      肥前名護屋城~壱岐の勝本城~対馬の清水山城~朝鮮の釜山城と結ぶ
      中継ぎの城 
      尾根に沿って下から三ノ丸、二ノ丸、一ノ丸と曲輪が階段状に造られ
      各曲輪は登り石垣で結ばれている
対馬 清水山城

      三ノ丸
            眼下に厳原の街が広がる
清水山城三ノ丸

      一ノ丸
      標高206メートルの頂に本丸が
清水山城一の丸

      一ノ丸から見た厳原の街と厳原港
対馬 清水山城一ノ丸

    金石城
      対州宗氏の金石館を朝鮮の役のため改修秀吉の御座所に指定された
      平成2年に復元された大手の櫓門は寛文9年(1669年)21代義真が築いたもの
対馬 金石城

    万松院
      金石城の堀に沿って進むと対馬藩主宗家の菩提寺がある
      宗家一族の墓所である御霊屋に墓石が立ち並ぶ      
      朝鮮の役で重要な役割を果たした20代藩主宗義智の墓は宝篋印塔であった
満松院

朝鮮海峡
上対馬の比田勝港にて出国ジェットフォイルにて朝鮮海峡を渡る
ここも想像に反し海は穏やかだった


韓国
釜山広域市
    釜山子城台倭城
      文禄の役に築く
      釜山子城台倭城は釜山母城とともに倭城群の本拠地と言える
      丘陵全体が公園となっていて石垣が周囲を取り巻く
      
釜山子台倭城

      
      乱後も釜山鎮僉使営として利用され現在頂上に鎮南門や千万里将軍の
      記念碑などが建てられている
      また麓には朝鮮通信使を出航せしめた五色に彩られた永嘉台がある
釜山子城倭城

    亀浦倭城
      文禄の役に築く
      洛東江により船舶の停泊が可能であった
      対岸の金海竹島城と対で補給路の確保を目的とした
      標高76メートルの小高い丘の上に石垣が残り周りには空掘り跡が
      残る
      
亀浦倭城
      本丸は土饅頭の墓や畑がある私有地となっている
       
機張倭城
      

      洛東江対岸の金海竹島城の方面
釜山 亀浦城

 

    機張倭城
      文禄の役に築く
      釜山倭城~西生浦倭城~蔚山倭城と東海岸線を北に連結する中間の
      要地に位置する 兵を長期間軍を駐屯するため海岸の要衝地に位置
      して築かれ多数の船舶が収容可能であった
機張倭城

      登り石垣に沿って直線的な階段を登ると道は草ぼうぼうとなりその先に
      雑草に覆われた石垣が現われる
機張倭城
 

      本丸からの眺め
機張倭城


蔚山広域市
    蔚山倭城
      
      慶長の役(慶長2年)に築いた城で完成まじかにして明・朝鮮の大軍勢
      に取り囲まれ壮絶な籠城戦が行われた場所である
      

      城跡は公園となっていて市民の憩いの場所である 当時の遺構は石垣が
      若干残っているが多くは崩落したりはらみ出してして状態は良くない
蔚山倭城
      

    西生浦倭城
       文禄の役に築く
       釜山より東海岸線を北に60キロの地点、標高133メートルの丘陵に
       加藤清正が指揮して築城した大規模な城であった
       この城址は当時の遺構が多く残されているがこれは文禄・慶長の役後
       300年にわたり朝鮮水軍の同儉節制使営として利用されいたためと想像した   
西生浦倭城

       登り石垣
西生浦倭城

      大手口?から見た海岸リゾート
西生浦倭城

      本丸曲輪
      喰い違い虎口を通りぬけると本丸が開ける
西生浦倭城

      天守台を右に見てもう一方の喰い違い虎口を通ると最奥の馬出し
      曲輪に行き着く
西生浦倭城


      馬出し曲輪には出入口が塞がれた目隠し虎口が2か所造られている
西生浦倭城


ソウル
    漢陽都城
      内四山、北岳山、駱山、南山、仁王山をつなぐ城壁で漢陽を囲む
      花崗岩の城壁は高さ7~8メートル総長18.6キロメートルに及ぶ

      彰義門
                 この門から入る
漢陽都城

      北岳山の頂きに続く城壁
ソウル 漢陽都城
      


対馬海峡と朝鮮海峡をはさんで両国に展在する城跡を訪ね、その事件が本当にあったということが実感できた。また両海峡を船で渡って白村江に渡った人々、文禄・慶長の役で朝鮮へ渡った人々、明治~昭和の時代大陸へ渡った人々が抱いたと思う渡海の感覚を実感することも出来たようだ。さて韓国は長期間の連休中でどこも休日を楽しむ人々でにぎやいでいた。地震国の日本人の感覚からするととても不安に思える都市に林立する高層マンション群、また休日を人々がこの時とばかり燃え尽きるように思う存分楽しんでいる姿にもこの国の危うさを覚えてしまうのである。

        佐賀、対馬、釜山、ソウル   (2017年10月)