保渡田二子山古墳(ほどたふたごやまこふん) ― 2021/05/02 16:05
ふるさと群馬にこんなにたくさん前方後円墳があるとは・・・・
高崎市保渡田町にある保渡田古墳群は5世紀後半に築かれました
二子山⇒八幡塚⇒薬師塚と三基の前方後円墳が築かれました
保渡田二子山古墳
高崎市保渡田町にある保渡田古墳群は5世紀後半に築かれました
二子山⇒八幡塚⇒薬師塚と三基の前方後円墳が築かれました
保渡田二子山古墳
一番目に築かれた墳丘全長108メートルの前方後円墳
後円部へ真っ直ぐ登る(西へ向う)
竪穴式古墳であり後円に船形石棺が埋められていた
棺から出土した品々
前方部に向けて下り右に下りる
前方後円墳の周りに内堀と外堀がめぐらされていて内堀には祭祀場と考えられている円形の中島が四つある
晴天に恵まれ墳丘から眺めた赤城山、榛名山、浅間山、妙義山、荒船山などが連なるパノラマが美しかった
撮影 令和3年4月30日
群馬県 保渡田古墳群 (令和3年5月1日)
碓氷郡 霧積温泉 ― 2020/08/21 16:43
東京に住んでいた頃の昭和46年の話から始める.
その頃 詩人や画家を目指した友がいた.
彼は碓氷郡出身の男性でペンネームが「碓氷久幸」であった.
私と彼は新宿の詩学の会の例会に通ったことがあった。
嵯峨信之氏や石原吉郎氏など現代詩人を代表する先生方が主催していた。
萩原朔太郎や室生犀星、立原道造、石川啄木などを読んでいた私にとって
現代詩を詠むのには未熟過ぎたと言える。
彼は「浄土」という詩集を自費出版した。
私はその詩集の巻頭に「君の詩を読むと妙義の山から流れ出る碓氷川を思い出さずにはいられない。僕はその流れの清い旋律に心うたれる。(1971.9.12)」と記した。
私と彼は詩学の会をぬけた
彼は会社も辞め画家をめざしウラジオストックからシベリア鉄道でパリへ向った。ローマから届いた一通の絵葉書が最後の音信となった。千葉で暮しているとの風の便りに聞いたことがあるが、その後彼の消息は不明である。
霧積温泉の名前を初めて聴いたのは碓氷久幸君からであるから昭和46年頃ではないかと思っている。その後人間の証明で脚光をあびた頃、霧積に行ってみたいとの思いが高まった。その頃は群馬県碓氷郡松井田町坂本という地名であったのではなかろうか?平成の合併により碓氷郡の地名が消滅して今は群馬県安中市坂本である。明治の昔繁盛した上野国碓氷郡(ごおり)碓氷温泉のUSUIGORI(碓氷郡)の地名は奪われているのだ。
中山道17番目の宿場 坂本宿から国道を離れ県道を霧積川を遡ると終点に金湯館の駐車場がある。そこは霧積館のあった場所である。霧積館のあった場所には建物はなく熊野神社と鼻曲山への道標が残るのみである。
その頃 詩人や画家を目指した友がいた.
彼は碓氷郡出身の男性でペンネームが「碓氷久幸」であった.
私と彼は新宿の詩学の会の例会に通ったことがあった。
嵯峨信之氏や石原吉郎氏など現代詩人を代表する先生方が主催していた。
萩原朔太郎や室生犀星、立原道造、石川啄木などを読んでいた私にとって
現代詩を詠むのには未熟過ぎたと言える。
彼は「浄土」という詩集を自費出版した。
私はその詩集の巻頭に「君の詩を読むと妙義の山から流れ出る碓氷川を思い出さずにはいられない。僕はその流れの清い旋律に心うたれる。(1971.9.12)」と記した。
私と彼は詩学の会をぬけた
彼は会社も辞め画家をめざしウラジオストックからシベリア鉄道でパリへ向った。ローマから届いた一通の絵葉書が最後の音信となった。千葉で暮しているとの風の便りに聞いたことがあるが、その後彼の消息は不明である。
霧積温泉の名前を初めて聴いたのは碓氷久幸君からであるから昭和46年頃ではないかと思っている。その後人間の証明で脚光をあびた頃、霧積に行ってみたいとの思いが高まった。その頃は群馬県碓氷郡松井田町坂本という地名であったのではなかろうか?平成の合併により碓氷郡の地名が消滅して今は群馬県安中市坂本である。明治の昔繁盛した上野国碓氷郡(ごおり)碓氷温泉のUSUIGORI(碓氷郡)の地名は奪われているのだ。
中山道17番目の宿場 坂本宿から国道を離れ県道を霧積川を遡ると終点に金湯館の駐車場がある。そこは霧積館のあった場所である。霧積館のあった場所には建物はなく熊野神社と鼻曲山への道標が残るのみである。
駐車場からホイホイ坂を登ると一軒宿の金湯館に辿り着くが、あらかじめ若女将のメールでの案内に従い県道に入る地点で電話をかけ迎えの車を依頼した。駐車場に到着するより早くマスクをした若旦那がワゴン車で迎えに到着していた。
ここから送迎車は右に左にカーヴしながら専用の林道をあえぎながら谷を登っていく。車窓から谷間を眺めると谷は深く怖さを起させた。帽子を渓谷に落とすことなくようやく車は道端に停まった。車を降り渓谷を見下ろすと朱色の屋根の旅館の建物が見えた。覚束ない足取りでくの字に坂を下ると朱に塗った木橋を渡ると金湯館の玄関である。
玄関でスリッパに履き替える。秘湯の温泉場らしい玄関である。帳場で若女将が「お風呂が近い部屋がいいですか、トイレが近い方がいいですか?」と女房に訊いた。女房は困ったような顔をして僕に回答を託した。「おまえさんの古稀の記念に泊りにきたのに自分で決めれば」と心の中でころに思ったが「お風呂の近い方にお願いします。」と声をやや荒げて応答した。
南棟の一階の南側の角部屋に案内された。部屋に妙義山を描いた油絵が飾ってあり窓から水車が見えた。水車は15秒間水をためるとコトっと一言音をたててぐるりと一回転を繰り返していた。
南棟の一階の南側の角部屋に案内された。部屋に妙義山を描いた油絵が飾ってあり窓から水車が見えた。水車は15秒間水をためるとコトっと一言音をたててぐるりと一回転を繰り返していた。
玄関を出て庭を散策する。
霧積川の渓流れは急である。渓流の底の固い地盤が浸食を防ぎ旅館を守っているように思えた。長い樋は渓流の水を流している。樋は水車まで敷かれていて何がしかに利用された水は終いには水車を回して渓流に戻っていくのだ。
玄関脇に石碑がひっそりと立っている。勝海舟揮毫の書の石碑であるという。明治20年頃、即ち上野国北碓氷郡碓氷温泉の時代、皮膚病で湯治に来ていた勝海舟が矢島揖子の依頼により筆を執ったという。内容は聖書の一節であるようだ。
我があたふる水を飲む者は永
遠かわく事なし且わが予ふる
水は其中にて泉となり湧出て
永生に至るべし 約翰伝四章十四節
西条八十の「麦わら帽子」の詩と森村誠一の「人間の照明」もここの温泉とのかかわりがより有名である。玄関の広間のパネルで西条八十と森村誠一が大きく紹介されているが、私にとって玄関の表から見えた麦わら帽子が象徴的であった。
源泉かけ流しの風呂に入る。
地名は霧積温泉、源泉名は入之湯という。泉温は38.9℃。
私はゆったりと湯につかり日常の疲れをとる。やがて肌にサイダーの泡粒のような泡が無数に付く。掌で肌を擦ると泡粒は皮膚を離れ湯面に浮かび音を立てて消える。これを繰り返して子供のような気分を味わった。
風呂からあがり夕食までの時間木の長椅子に腰を下ろし、長椅子で休んでいた大女将と話を交わした。電気や電話がなかったときの話、ふいにたくさんの客が来て廊下でも良いとそのようにして山小屋のようであったこと、湯治客のお話、一代で終いになった霧積館の話など霧積ことを拝聴することができた。
部屋食の夕食は心がこもっていてとても美味しかった。
夕食後まだ外は明るかった。谷間に静かに白い霧が降り積もってきた。
唐 十郎はこの宿に「湯煙りの中に消ちまいたい・・・」と色紙を残している。
私は「湯煙りと霧の中に消えちまいたい・・・・」と洒落て心の中に色紙を書き置いた。
消息不明の碓氷の詩人碓氷久幸のこと、消えちまった碓氷郡(USUIGORI)のこと、森林と渓谷の霧積のこと、若夫婦に引き継がれていく秘湯金湯館のこと、古稀に至った女房への思いなど様々な思いを思った霧積であった。
湯につかりながら二度上峠から鼻曲山に登り霧積に下り金湯館に泊るとの考えが浮かんだ。しかし古稀を過ぎた二人の体力では実行は無理であろう。しかし折を見て二人で鼻曲山まで登り山頂から碓氷を眺めて見たいとの思いが現実味を帯びた。
写真:令和2年7月23日撮影
群馬県 安中市 霧積温泉 (令和2年8月21日)
箕輪城址 ― 2020/08/17 08:31
箕 輪 城 跡
榛名山の東南麓に広がる丘陵に1500年頃上野国の守護代長野氏により築城された。
北 榛名山方面の展望
東 赤城山方面の展望
箕輪城構成図
箕輪城跡の標高は約270メートル、面積は47ヘクタール(東西500メートル、南北1,100メートル)に及ぶ丘城(一部平城)である。西は榛名白川の断崖に臨み、南は椿名沼、東と北は水掘を回し守りを固めている。
搦手口
東側の搦手口より城内に入る。左手は搦手馬出がある。
二の丸
坂道を登り上げると縦横各約80メートルの二の丸に着く。ここは出撃用の拠点で四方に出撃できる位置にある。
本丸
南北約100メートル、東西約70メートル、東側に高い土手が 築かれ外からの視界を遮っている。
本丸掘
本丸の西側の掘である。初期の空堀は全て通路壕であったが、後に掘り下げられてその働きを失っていった。
慶長3年(1598)井伊直政は城を高崎に移し箕輪城は廃城になった。
記事:各々の説明文は城内の掲示板や観光パンフレットを参考に
しました。
群馬県 高崎市箕郷町 箕輪城跡 (令和2年8月17日)
高崎市観音塚古墳 訪問記 ― 2020/08/03 11:51
令和2年7月28日 高崎市観音塚古墳を見学してきました。
全長105メートル、高さ12メートルの前方後円墳で六世紀末に造られた群馬県内最後の前方後円墳と言われている。
全長105メートル、高さ12メートルの前方後円墳で六世紀末に造られた群馬県内最後の前方後円墳と言われている。
掲示板
前方部が後円部を凌ぐ形は前方後円墳の末期の特徴であるとの説明がある
後円部には全長15.3メートル、玄室長7.1メートル、同幅3.4メートル、同高2.8メートルの巨石石室がある。(観音塚考古資料館)
羨道を進む
羨道両側に巨大な石が2個づつ並ぶ、玄室の入口上部に巨石の梁がある
玄室に入る
玄室の正面奥部 1個の巨石が行く手を阻む
玄室の右側の石壁 巨石が2個並ぶ
玄室の左側の石壁 巨石が3個並ぶ
玄室 天井の巨石
玄室 壁石の文字のような模様
石室を出ていく
玄室と羨道の境 天井と梁石に隙間あり
古墳の近くにある観音塚考古資料館へ行き出土した副葬品を見る
(観音塚考古資料館のレプリカ)
銅氶台付蓋碗
銀装鶏冠頭太刀 柄頭
古墳の大きさに比べ横穴式石室が立派なのには感心しました。群馬の古墳は全国的に見ても見劣りするものではないと思います。古墳と資料館がセットになっていて見学しやすいでした。中央と群馬、渡来人と群馬いろいろ想像の翼が羽ばたきます。
資料館の入場料は65歳以上の私は無料でした。
(注意)石室には照明がありません。懐中電燈の用意が必要です。
群馬県 高崎市 観音塚古墳 (令和2年8月3日)
榛名湖畔竹久夢二の歌碑(令和2年) ― 2020/07/26 11:22
榛名湖は上毛三山の一つ榛名山の火口湖である。
榛名の景色を愛した竹久夢二の歌碑が湖畔にある。
建てられたのは夢二の死後一周忌の昭和10年9月、あれから90年もの歳月が過ぎた。
今では高さ3.3メートル、幅1.3メートルの自然石に刻まれた文字は読めない。
榛名の景色を愛した竹久夢二の歌碑が湖畔にある。
建てられたのは夢二の死後一周忌の昭和10年9月、あれから90年もの歳月が過ぎた。
今では高さ3.3メートル、幅1.3メートルの自然石に刻まれた文字は読めない。
歌碑表
さためなく鳥やゆくらむ青山の
青のさひした かきりなけれは 夢
裏 竹久夢二明治十七年九月十六日生 昭和九年九月一日歿己知未知の友より
夢二が榛名山麓の伊香保を歌った歌
伊香保呂の谷間のさくらさかりすぎかそけくいまか散りやゆくらむ
(参考文献)
株式会社煥乎堂(昭和44年11月25日)発行「上州の文学紀行」
同 (昭和47年 2月25日)発行「上州の文学」
群馬県 榛名湖湖畔 (令和2年7月26日)
さためなく鳥やゆくらむ青山の
青のさひした かきりなけれは 夢
裏 竹久夢二明治十七年九月十六日生 昭和九年九月一日歿己知未知の友より
夢二が榛名山麓の伊香保を歌った歌
伊香保呂の谷間のさくらさかりすぎかそけくいまか散りやゆくらむ
(参考文献)
株式会社煥乎堂(昭和44年11月25日)発行「上州の文学紀行」
同 (昭和47年 2月25日)発行「上州の文学」
群馬県 榛名湖湖畔 (令和2年7月26日)
令和2年夏のケロちゃん ― 2020/07/23 12:59
おーい 今年は梅雨がなかなか明けないなあ・・太陽の光が恋しい
だから野菜の育ちが悪い トマトは赤くならないし キュウリの育ちも悪いんだ
(ことしは種まきからゴーヤも育てている・・まだ実は小さいのだ)
けどアジサイは森のように大きくなっておいらの隠れ家としては最高さ
雨粒が直接当たることもなくて快適な隠れ場だよ・・・
キュウリの棚は隠れられなくても安全さ 張ってある網が鳥や蛇を防いでくれる
だから ねむねむ ねむたいのさ ああぁ 欠伸がでちゃいそう
(支柱はへびの攻撃を受けないか・・・心配)
そうだアジサイの隠れ家はヘビが登ってくるおそれがあるなぁ・・ 心配だ
(へびの匂いを感知する機能かあればいいのだけど・・しかたないかもね)
どちらにしても新型コロナウイルスには感染しないよう注意・・マスクをつけようね
畑の中でのケロすけ同士の三蜜も避けようね
ところでこのブログの著者はことしゃ七十三のとしよりだよ
コロナに感染したらいちころかもしれないよ
毎年畑を作ってぼくらの棲み処を整えてくれるおじいさんは大切なひとだ
コロナにかからないよう祈ってあげようね・・・そうだね・・・お祈りしかできないもん
(・・・ありがとう)
群馬県 吾妻郡 (2020年7月23日)
コロナに感染したらいちころかもしれないよ
毎年畑を作ってぼくらの棲み処を整えてくれるおじいさんは大切なひとだ
コロナにかからないよう祈ってあげようね・・・そうだね・・・お祈りしかできないもん
(・・・ありがとう)
群馬県 吾妻郡 (2020年7月23日)
てくてく榛名富士1391メートル ― 2020/07/18 14:12
Xとはバツではなくアマチュア無線の世界ではマイ・奥さんである
私のXが今月で古稀を迎える
その記念のお祝いとしてまだ登れるだろうと思われる榛名富士1391メートルに挑戦した
昨日までうっとうしい雨天続き 今日7月16日はなんとか奇跡的に晴れました
県立榛名公園のビジターセンター駐車場に駐車して榛名富士1391メートルの頂上をめざしました
朝霧がかかる榛名富士
私のXが今月で古稀を迎える
その記念のお祝いとしてまだ登れるだろうと思われる榛名富士1391メートルに挑戦した
昨日までうっとうしい雨天続き 今日7月16日はなんとか奇跡的に晴れました
県立榛名公園のビジターセンター駐車場に駐車して榛名富士1391メートルの頂上をめざしました
朝霧がかかる榛名富士
6時10分 ビジターセンター駐車場を出発
登山口には注意喚起の立札が
ミズナラ、カシワ、コナラ、ホソバカシワの樹林帯をぬってつづら折りの
登山道が続く
行く手を巨木が登山道を立ち塞ぐ
下山してからビジターセンターで調べるとヤマハンノキという木であるようだ
下山してからビジターセンターで調べるとヤマハンノキという木であるようだ
山腹は頂上にたどりつくまで背の低い生き生きとした笹で包まれている
7時20分 榛名富士山頂駅(1366メートル)到着
展望台からの眺めがすばらしい
眼下に榛名湖が
外輪山の峰々(最高峰の相馬山など)が
前橋や高崎の街は雲海の下である
前橋や高崎の街は雲海の下である
咲いていた花々と蝶だち
ユウズゲ
シモツケと蝶
砂利に止まる蝶
7時45分 榛名富士山頂(1391メートル)
山頂に神々を祀る
富士山神社の鳥居
四大神
石長姫(いしながひめ)大神、榛名富士大神、保倉(うけもち)大神
饒速日(にぎはやひ)大神が祀られている
古稀を迎えたXの健康と長寿をお祈りしました
石長姫(いしながひめ)大神、榛名富士大神、保倉(うけもち)大神
饒速日(にぎはやひ)大神が祀られている
古稀を迎えたXの健康と長寿をお祈りしました
一等三角点と富士山神社社殿
山頂の道標(右はゆうすげ元湯へ下る登山道)
山頂からの展望(このようには見えません)
山頂からの展望(榛名の最高峰相馬山)
山頂の生き物
花
花
ウグイスが囀りが聴こえる高木
見上げると梢にウグイスの雛と思われる姿が
(ママ、ママの言いつけのとおり見つからないようにジッとしているよ)
親鳥の警戒の囀りに身動きもしないで隠れている雛
(ママ、ママの言いつけのとおり見つからないようにジッとしているよ)
親鳥の警戒の囀りに身動きもしないで隠れている雛
掲示板の上に止るトンボ(まだ夏が来ないのにもう秋の支度かい?)
8時35分 山頂駅出発(下山開始)
9時30分 ビジターセンター駐車場到着
湖畔のベンチで小休止 対岸の掃部ガ岳を眺望する
お互い古稀を過ぎたがこれくらいの山であればまだ登れるようです
Xの古稀の祝いと長寿を祈願するふるさと榛名山(榛名富士)の登山でした
湖の景色を拝みながらお互い健康で長生きして暮らせればいいなと心底思います
群馬県 榛名山 (令和2年7月16日)
梅雨の晴れ間の榛名湖 ― 2020/07/17 09:44
長雨とコロナでうんざりするうっとうしい毎日が続いている
令和2年7月16日は天気予報は曇り・・雨は降らないと予測して外に飛び出した
目的地は窓から眺められるぐんまの名山 榛名山
現地は予想より空が澄み渡りすがすがしい空気が流れる榛名湖を拝むことができた
榛名湖の湖畔
榛名富士と相馬山が湖面に映る
こころに沁みたなつかしい眺めが甦る
令和2年7月16日は天気予報は曇り・・雨は降らないと予測して外に飛び出した
目的地は窓から眺められるぐんまの名山 榛名山
現地は予想より空が澄み渡りすがすがしい空気が流れる榛名湖を拝むことができた
榛名湖の湖畔
榛名富士と相馬山が湖面に映る
こころに沁みたなつかしい眺めが甦る
湖畔の竹久夢二のアトリエ跡に足を運んだ
二階の窓から湖畔を眺める
湖畔の景色は昭和の初めとは程遠いいが湖に映る山容の曲線(カーヴ)は
夢二のこころの琴糸となって響き渡った当時と変わることはないだろう
二階の窓から湖畔を眺める
湖畔の景色は昭和の初めとは程遠いいが湖に映る山容の曲線(カーヴ)は
夢二のこころの琴糸となって響き渡った当時と変わることはないだろう
妻の古稀の祝いに55年前に登頂した榛名富士に二人で登った。
お互い健康で長生きしたいものだと頂上に鎮座する四大神に手を合わせた。
天気もよく眺めもよく気が晴々して抜群の祝いの日を手に入れることができたと思う
群馬県 榛名湖湖畔 (令和2年7月16日)
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