西夏王国の幻影を訪ねる①西夏王陵 ― 2016/07/09 14:42
チベット系タングート族が興した西夏王国の都は寧夏回族自治区の銀川である
銀川は黄河の恵みを受けて予想より緑の多い豊かな土地であった
西夏王国は元朝に睨まれ国史が編纂されることがなく約200年の歴史は明らかではない 幻影を訪ねるとは正に的を得た表現であるのかも知れない
まずは銀川郊外の平原に展開する西夏王の墓を訪ねた
建設当初の王陵はこのような建物が建てられて配置されていた
その次が月城で石獣が並び参拝者を出迎える
月城先の南門をくぐると各台と土塀で囲まれた内城に入る
内城には献殿、墓道、陵塔が配置される
では実際に王陵に足を運ぶ
小雨が落ちていたがかえって空気中の埃を落とし風景が蘇っていた
三号陵正面
外城⇒月城⇒内城へと進む
内城の奥に陵塔が鎮座する
墳墓は土饅頭形であるものが多く見られるが西夏墓はこれに楼閣をかぶせた痕跡が残されている
電気自動車に乗って1号陵2号陵へ
1号陵の闕台の右に1号陵の陵塔と2号陵の陵塔が並んで見える
王陵は8基あるというが具体的にどの陵がどの王のものなのか確認されたものは少ないらしい。これも国史が編纂されなかったためなのではなかろうか
もう一つの疑問は陵塔の位置が内城の中心から左にずれている点である 左右対象の設定する空間を敢えて外したその意味は何であるのだろうか??
中国 寧夏回族自治区 銀川 (2016年6月20日)
2009年6月のハルピン駅にて ― 2014/01/21 10:35
長江風景 ― 2012/09/09 17:30
三峡下り出航直前の客船
晩重慶出航
翌朝靄を下る
小船は航路を示す標識船
追い越していく客船を見る
石宝にて停泊
下船上陸
石宝賽を登る
門に書かれた175の数字
175は長江ダムの満水時の水位(標高)を意味する
堤防がないとここから下は水没してしまうのだ
石宝出発
夕刻武陵通過
停船しないと流れの速さが実感できない
夜万州の夜景を見る
万州というネオンで地名を確認
花火もあがり綺麗な夜景
翌朝
奉節にて下船
彩雲白帝城へ登る
白帝城過ぎ
船は夔門(瞿塘峡)をぬける
朝辞白帝彩雲間
千里江陵一日還
両岸猿声啼不住
軽舟已過万重山
航行する船に注目する
小型貨物船
石炭運搬
コンテナ船
カバーをかけた貨物船
砂利の運搬
機関故障で横向きになった貨物船
高速客船も行く
昼巫峡に入る
両岸に聳える巫山十二峰
女神峰
巴水流若茲
巫峡去りがたし
恩施土族苗族自治州
巴東にて
停泊
客船に横着けする観光船
(長江に沈み土地を失った少数民族は生活の糧を観光業へ)
神農峡の手漕ぎ舟(土地の人は豌豆舟と呼ぶ)
水は澄んできれいだ
(土族の船頭さん)
身体で稼ぐたくましさ・男の背中の美しさ
夜秭歸(シキ)港に停泊
翌朝下船
ダムの下流は危険が増しているので客船はここが終点
緑色の箱はケーブルカーである
秭歸の地名は「屈原の姉が帰る」との意味合いで呼ばれたのか?
三峡ダムの五段式シップロック
・・・不運
三峡ダムの婦人
三峡ダムサイトを眺めてお仕舞い
(船旅紀終り)
①多雨の時期の長江は水量が豊富であるが流れ込む土砂で壁土色に濁り多量のごみが漂っていた。
②山の斜面に建てられた高層ビルの街並みは色に乏しく虚しそうに霞んで見えた。
③大型客船就航により船内は過ごしやすくなったが船外の風景は昔の良さが失われてしまったようだ。
④三峡ダム建設後の長江沿岸を見て中国の指導部はここまでやるのかと思うとともに土地を離れ生活を変えた大勢の人々に敬愛の念を起こさせた。
中国 重慶~湖北省宣昌市 (2012年7月14日~17日)
大足宝頂山石窟 ― 2012/09/04 01:53
重慶 ― 2012/08/20 03:59
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クチャ川を挟んで東西に寺院跡が残る。過って昭怙厘大寺と称された寺院跡である。この寺院は紀元3世紀に創建され唐安西都護府がクチャに西侵した7世紀中葉ごろ最盛を極めていたという。
(西寺中塔跡から眺めたクチャ河と東寺跡)
東寺は仏堂、僧堂、北中南配置された三塔で組成され、西寺は東寺より建物が多く、北中南の三塔に加え南部に寺院が建てられていたという。
20世紀初頭日本の大谷探検隊が仏舎利容器を発見したのは西寺である。西寺の北塔には仏洞が分布し内に壁画と亀茲文題記が残存している。1978年中塔基礎部から一体の女の骨組みと嬰児の骸骨が発見され亀茲博物館に収容されている。
(西寺中塔跡)
貞観2年(628年)唐の高僧玄奘がインドに向う途中2カ月余り滞在した仏事興隆、晨鐘暮鼓、燔火不絶を誇った昭怙厘大寺も9世紀戦火に見舞われ、やがて13~14世紀ごろ廃棄された。
中国 新疆ウイグル (2011年10月)
新疆ウイグル(19) 水 ― 2012/05/08 23:51
新疆ウイグル(18) 売る ― 2012/05/05 16:17
新疆ウイグル(17) キジル石窟 ― 2012/05/03 09:42
亀茲石窟のなかで中心的な石窟がキジル石窟です。キジルとはウイグル語のクズル赤いという言葉に由来する。確認されている石窟の数は235窟とも言われるが実際はもっと多かったと考えられている。
(キジル石窟)一番大きな窟は第47窟の大仏窟です。
第38窟は
中心柱窟で主室は天井に天相図・海中図、菱形枠に描かれた本生図、側壁に28体の演奏演舞している男女伎楽天(この窟が音楽洞と呼ばれる由縁)、前壁(入口上部)に交脚の弥勒説法図が描かれている。後室の正壁には弟子や供養者に囲まれた釈迦の涅槃像の壁画がある。
第34窟は
中心柱窟で主室の天井に天相図が描かれている。後室は涅槃台が残り仏舎利や経典をしまった穴が残る。
第32窟は
中心柱窟で指のような形でかたどった菱形格子に描かれた因縁図などが残る。手の指の形は須弥山を現わしたものである。
第8窟は
中心窟で主室は天井に天相図(蛇を口に加えたガルダ、鉄腕アトムの髪形をした風神)、入り口右上に五絃琵琶を奏でる伎楽天、4人×4か所=16人の剣を持った供養者(亀茲王侯貴族)の像が並んでいる(この窟が十六帯剣者窟と呼ばれる由縁)。後室は涅槃台のみ残っているが、ここには舎利争奪の壁画があったようだ。
第10窟は
方形窟の僧坊窟である。キジル石窟の発掘に貢献した黒龍江省朝鮮族の韓楽然先生の写真、資料などが展示されている。
第27窟は
中心柱窟で多龕窟と呼ばれる。主室の天井は碁盤の目の格子天井、前壁に弥勒説法図、正面には天蓋の絵が残り釈迦像が安置されていた。また壁に60もの小仏龕が残っている。後室には鮮明ではないが火葬図、舎利争奪などが描かれている。
このキジル石窟で印象に残ったのは
①第38窟の天相図と海中の図(白鳥が舞う太陽神と月神は特に印象的だ)及び伎楽天
②第8窟の十六帯剣者と5絃琵琶を鳴らし舞う飛天
③菱形格子に描かれた本生図や因縁図
④弥勒説法図
少々残念であったのはここで亀茲人をイメージできる壁画が少なかったことである。敦煌莫高窟に描かれた回鶻王供養図のようなものが見られれば亀茲人のイメージが掴めたと思われる。
今回行ったクズルガハ石窟も、キジル石窟も見た石窟は亀茲国時代のものであった。亀茲国は西暦645年唐により滅ぼされ姿を消した。その後石窟の形は唐風色(例えばアエ石窟のような)へと変化していくのである。
中国 新疆ウイグル (2011年10月)
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