ゴーヤとケロちゃん2021/08/07 13:35

ことしは我が庭の季節の劇場にケロちゃんの出演が少ない
飛んでくる鳥や草むらに潜んでいる蛇の餌食になってしまったのかと心配していた

と ベランダの日除けのゴーヤとフウセンカズラのネットをふと見ると
ケロちゃんのシルエットが・・・
2021年8月ケロちゃん1

ご主人さまよく見つけましたね・・・
今年はこの庭では仲間が少ないんだよ
だからベランダまで這いあがって避難するケロは少ないのさ
2021年8月ケロちゃん2

そうなのか・・・
この庭には餌を求めて飛来する小鳥の群れが多いんだ
多いということは餌が多いということなんだろうな・・・
庭を眺めている分にはここは楽園だと感じるけどケロちゃんにとって油断できない
危険地帯なんだな・・・
カマキリだって建物に寄り添って外敵を避けて生れて成長しているんだ
ゴーヤの葉っぱとネットでここでは外敵をシャットアウト・・・
ここはケロちゃんの安全地帯さ   お元気で・・・・

           群馬県 吾妻郡   (令和3年8月7日)

太田天神山・女体山古墳2021/08/15 15:25

群馬県東部の古墳太田天神山古墳と女体山古墳を見に出かけました

天神山古墳
五世紀中期の前方後円墳で全長210メートルと規模が大きい
墳丘は樹木に覆われ外形は前方後円墳の形をなしていない
         左が前方部             右が後円部
太田天神山古墳 全景

廻りは二重の周堀で囲まれていた
         手前が後援部            向うが前方部
太田天神山古墳 前方後円墳と周堀

墳丘への登り口は東側の墳丘のくびれ部と北東側の後円墳部の2カ所にある
後円墳部より墳丘に登った
太田天神山古墳 墳丘への登り口

後円墳部の坂を登っていくと足元に葺石が残っていた 墳丘は葺石されていたことが容易に想像できる
太田天神山古墳 円墳部葺き石

後円部の頂には三等三角点が打たれていた
太田天神山古墳 後円部三角点

後円部からくびれ部から前方部を見下ろす くびれ部の左側には神社の祠が建っていた
太田天神山古墳 後円墳より見下ろす

くびれ部へ下ると一面に花が咲いていた
太田天神山古墳に咲いた花

朝の光が射しこむ前方部へ進む
太田天神山古墳 前方部方向

くびれ部まで戻って祠の横を下り後円部の縁を廻って登り口に戻り東側に隣接する女体山古墳へ向った

女体山古墳
天神山古墳の東側にある古墳で天神山古墳と同時期に造られたものであるとのこと
全長約106メートルの帆立貝形古墳とあるが、造り出し付き円墳であるとも
貝柱又は造り出し部分に説明板が見える
太田女体山古墳

墳丘を巡る周掘は水が溢れ参道は水没していて進めなかった
葺石したという墳丘は水を湛えた周堀の外から眺めるだけであった
太田女体山古墳 墳丘の形

太田市の天神山と女体山の両古墳の姿にふれることができた 
埋葬施設の形状や土器や埴輪などの出土品については別途調べが必要である
九州、近畿、上野のもろもろを比較して上野の古墳時代が描ければいいんだが・・・
ちょっと無理だな
太田女体山古墳まえで

撮影:令和3年8月11日

         群馬県 太田市   (令和3年8月15日)

太田金山城址散歩2021/08/22 10:24

万葉集で「新田山(にいたやま」と詠まれた太田市の金山
その頂標高239メートルの本丸跡に新田義貞を祀る新田神社がある

この山城は新田一族の岩松家純により分明元年(1469)に築城されたという
その後岩松氏から横瀬(由良)氏へ実権が移り、天正12年(1584)城は北条氏の手に落ち、秀吉の北条討伐により北条氏滅亡の結果、天正18年(1590)この堅固な山城は廃城となった
復元されている虎口の石垣はこの城の最終期の姿を現しているのではなかろうか

金山城址見取り図
 金山の尾根筋に沿って諸施設が築かれている
太田金山城址見取り図


本丸跡
 新田神社
金山城址本丸新田神社
 本丸と二の丸の堀切を回ると当時の石垣が残っている
 残存石垣
金山城址本丸残存石垣
 樹齢800年の大ケヤキの樹形はみごとである
 大ケヤキ
金山城址 大ケヤキ


南曲輪
 本丸を下ると南曲輪が開ける ここは中島記念公園として整備されていて
 中島和久平の銅像や休憩所などがある。

 日ノ池 
 水を湛えた日ノ池と井戸跡があり城の貴重な水源とたっていたと思われる
金山城址三の丸した日ノ池
 


大手虎口
 石畳の道を下っていくと両側に石垣を積んだ通路に変わる
 石垣の両上段に段状に曲輪があり通路は真っ直ぐに本丸虎口に至る
 立派は石垣は北条氏の築城技術を示しているのではなかろうか
金山城址大手虎口

 麓の金山城跡ガイダンス施設にはこの部分の再現模型が展示されている
 大手虎口再現模型
金山城址大手虎口再現模型

馬場曲輪
 大手虎口まで下って登っていくと二つ目の池、月ノ池があり大堀切を通り
 坂を登り上がると虎口を守る兵が集結するための曲輪がある
金山城址 馬場曲輪

物見台
  馬場曲輪から主稜線に沿って進むと、道は分岐となり真っ直ぐ進むと展望のよい
 物見台に行き着く ここからの展望はすばらしい
 榛名山、吾妻方面(小野子山、子持山の左)、赤城山方面の展望
金山城址物見台から展望

竪堀と木橋
 先程の分岐~尾根を下り進むと竪堀があり木橋を渡って物見台の下の通路が続く
金山城址 木橋と竪堀

物見台下虎口
 物見台下の通路を進むと石垣を積んだ虎口に出る
物見台下虎口

物見台下堀切
 虎口を出ると物見台下堀切がありこの堀切を土橋で渡る
金山城跡物見台下堀切

 物見台下堀切を越えると西矢倉台下通路がある(見学者は通れない)
 見学者は見学通路を進む

西矢倉台下堀切
 見学通路を行くと西矢倉台下堀切と西矢倉台西堀切を左手に見える 
金山城址 西矢倉台下堀切

西矢倉台西堀切
 西矢倉台下の通路はこの堀切の下へつづきこの堀切を登って通路は続いていたようだ
金山城址西矢倉台

総合案内板
 西矢倉台西堀切を下ると見学通路の総合案内板に至る
 ここから西は西城エリアになる 

西城エリア
 西城後は西城跡と見付出丸がある

見付出丸
 見付出丸堀切を過ぎ尾根道を進むと見付出丸に至る
 ここには大手堀切などの堀切が走り虎口の跡も残されている
金山城址 見付出丸

太田市街展望
 展望台駐車場からの太田市街のながめ
金山城址 太田市街展望



金山城主の菩提寺の金隆寺
 金山城主由良氏の菩提寺である金龍寺に立ち寄った
 新田義貞の菩提を弔うため岩松氏が応永年間に開基した
 天正18年(1590)金山城の廃城、由良氏の牛久移封により寺は荒廃
 その後館林城主榊原康政はこれを惜しみ寺を再興し今日に至る

 由良氏五輪塔並びに新田義貞供養塔
 手前に由良氏の五輪塔が九基並ぶ
哉城城主菩提寺金龍寺

 新田義貞供養塔
 由良の五輪塔を分けて登ると新田義貞の供養塔が立つ
 本堂には義貞公の木像が安置されているという
金龍寺 新田義貞供養塔

 由良氏五輪塔
 義貞の供養塔より由良氏の墓石群を見下ろす
金龍寺 由良家五輪塔

天空の城と観光の目玉になっている竹田城も金山城と同じ山城である。しかし山城であるが立派な石垣が組まれている。竹田城も金山城と同じ時期に築城されたが、石垣が組まれたのは天正13年(1585)赤松広秀の時代であるという。金山城の石垣がいつ組まれたものなのかどうか、残存石垣の掲示板には石垣で築いた関東では珍しい城とあるが、組まれた時期についての明確な記述はない。しかし、由良氏は北条氏の軍門に下ったことから北条氏の築城技術が影響している考えても的外れな想像ではないように思える。

展望台の駐車場に車を停めて城址を回った。老人の足でも問題なかった。
物見台から吾妻方面が展望できるのは感動した。


撮影;令和3年8月11日

       群馬県 太田市   (令和3年8月23日)

前橋大胡城址散歩2021/08/25 11:01

どうして大胡城址へ行こうと思い立ったのか?
それは今年度古文書講座の講義が関係している
沼田記の第一次上田合戦の記述の中に、「三河先手牧野右馬允」とありこの武将は第二次上田合戦の折の失態を迫られ吾妻又は白井に蟄居を命じられたとコメントがあった。どこに蟄居したのかは史料の発掘を待たねばならないが、その前に康成とは何者か?? と
調べてみるとこの牧野右馬允は大胡城主牧野康成であることをつきとめ大胡城址と牧野家菩提寺の養林寺へも行くことにした

大胡城址 散歩マップ
大胡城址散歩ルート

本丸
 南曲輪があったという大胡支所で城跡への道順を確認して出発
 城跡へ上るトンネルを抜け右手の堤を登ると本丸が開ける
 本丸は2段構えとなっていたようで、その境に僅かに石垣が残っている
 本丸上段は歩きずらいほど伸びきった草で覆われていた
大胡城址 本丸

 本丸下段に下ると本丸を囲む空堀との境は土塁が築かれている。
 その上になにがあったのか?
 板塀でもあったのだろうか?
大胡城址 本丸下段

空堀
 本丸を囲む空堀は深くて見応えがある
大胡城址本丸空堀

 堀を土橋(土橋であったのか定かではないが・・・)を下り空堀を渡ると二の丸へ出る
大胡城址 本丸~二の丸土橋?

二の丸
 二の丸は空掘りを境として本丸を半分ほど取り巻いている
 ここも8月の草深い広場となっている
大胡城址 二の丸

水の手門址
 二の丸の南下手に三の丸があったようで三の丸へ向う門であったという
 水の手とあるのは二の丸と三の丸間に水路があったのだろうか?
大胡城址水の手門跡

枡形門跡
 さらに東の突き当りに枡形門跡がある
大胡城址 枡形門跡

 石垣を積んだ形は枡形の虎口であったことを思わせる
 しかし、この門の先はすぐ崖になっていてどこへつづいていたのか想像もできなかった
 この城を描いた史料があればいいのですが・・・(発見されていないのか??)
大胡城址枡形門跡の残存石垣

ここまでで本丸、二の丸と一回りしたので入口まで戻り養林寺へ向う
荒砥川に沿って北上し交差点を西に行くと養林寺だ

養林寺
 
 牧野家御廟所
 養林寺は大胡城主牧野家の御廟所がある
 
養林寺 牧野家御廟所

 真ん中に並ぶ二つの背の高い宝筺印塔右が牧野康成とその母のものである
 父より母の石塔がなぜ高いのかは母の出来を調べないと
養林寺 牧野家御廟所 墓誌

 この寺には牧野家が建立したという徳川将軍の供養塔が並んでいる。
 蟄居させられた康成であるが将軍家に対する思いの深さを感じさせる遺跡である

その後、牧野家は越後の長岡へ転封となり、康成の墓所は長岡にもあると聞く


撮影:令和3年8月11日

       群馬県 前橋市 大胡町  (令和3年8月29日)