前橋大胡城址散歩2021/08/25 11:01

どうして大胡城址へ行こうと思い立ったのか?
それは今年度古文書講座の講義が関係している
沼田記の第一次上田合戦の記述の中に、「三河先手牧野右馬允」とありこの武将は第二次上田合戦の折の失態を迫られ吾妻又は白井に蟄居を命じられたとコメントがあった。どこに蟄居したのかは史料の発掘を待たねばならないが、その前に康成とは何者か?? と
調べてみるとこの牧野右馬允は大胡城主牧野康成であることをつきとめ大胡城址と牧野家菩提寺の養林寺へも行くことにした

大胡城址 散歩マップ
大胡城址散歩ルート

本丸
 南曲輪があったという大胡支所で城跡への道順を確認して出発
 城跡へ上るトンネルを抜け右手の堤を登ると本丸が開ける
 本丸は2段構えとなっていたようで、その境に僅かに石垣が残っている
 本丸上段は歩きずらいほど伸びきった草で覆われていた
大胡城址 本丸

 本丸下段に下ると本丸を囲む空堀との境は土塁が築かれている。
 その上になにがあったのか?
 板塀でもあったのだろうか?
大胡城址 本丸下段

空堀
 本丸を囲む空堀は深くて見応えがある
大胡城址本丸空堀

 堀を土橋(土橋であったのか定かではないが・・・)を下り空堀を渡ると二の丸へ出る
大胡城址 本丸~二の丸土橋?

二の丸
 二の丸は空掘りを境として本丸を半分ほど取り巻いている
 ここも8月の草深い広場となっている
大胡城址 二の丸

水の手門址
 二の丸の南下手に三の丸があったようで三の丸へ向う門であったという
 水の手とあるのは二の丸と三の丸間に水路があったのだろうか?
大胡城址水の手門跡

枡形門跡
 さらに東の突き当りに枡形門跡がある
大胡城址 枡形門跡

 石垣を積んだ形は枡形の虎口であったことを思わせる
 しかし、この門の先はすぐ崖になっていてどこへつづいていたのか想像もできなかった
 この城を描いた史料があればいいのですが・・・(発見されていないのか??)
大胡城址枡形門跡の残存石垣

ここまでで本丸、二の丸と一回りしたので入口まで戻り養林寺へ向う
荒砥川に沿って北上し交差点を西に行くと養林寺だ

養林寺
 
 牧野家御廟所
 養林寺は大胡城主牧野家の御廟所がある
 
養林寺 牧野家御廟所

 真ん中に並ぶ二つの背の高い宝筺印塔右が牧野康成とその母のものである
 父より母の石塔がなぜ高いのかは母の出来を調べないと
養林寺 牧野家御廟所 墓誌

 この寺には牧野家が建立したという徳川将軍の供養塔が並んでいる。
 蟄居させられた康成であるが将軍家に対する思いの深さを感じさせる遺跡である

その後、牧野家は越後の長岡へ転封となり、康成の墓所は長岡にもあると聞く


撮影:令和3年8月11日

       群馬県 前橋市 大胡町  (令和3年8月29日)