榛名湖畔竹久夢二の歌碑(令和2年)2020/07/26 11:22

榛名湖は上毛三山の一つ榛名山の火口湖である。
榛名の景色を愛した竹久夢二の歌碑が湖畔にある。
建てられたのは夢二の死後一周忌の昭和10年9月、あれから90年もの歳月が過ぎた。
今では高さ3.3メートル、幅1.3メートルの自然石に刻まれた文字は読めない。
榛名湖畔竹久夢二の歌碑(令和2年)
歌碑表
         さためなく鳥やゆくらむ青山の
         青のさひした かきりなけれは 夢
 

  裏   竹久夢二明治十七年九月十六日生 昭和九年九月一日歿己知未知の友より

夢二が榛名山麓の伊香保を歌った歌
      伊香保呂の谷間のさくらさかりすぎかそけくいまか散りやゆくらむ

(参考文献)
株式会社煥乎堂(昭和44年11月25日)発行「上州の文学紀行」
同      (昭和47年 2月25日)発行「上州の文学」 


        群馬県 榛名湖湖畔    (令和2年7月26日)

カリラヤ戦没者慰霊碑(平成31年3月8日)2019/03/16 19:12

CALLRAYA JAPANESE  GARDEN
日本人戦没者慰霊園
日本人戦没者慰霊碑
カリラヤ戦没者慰霊碑

カリラヤ戦没者慰霊碑

カリラヤ戦没者慰霊碑

                    黙禱

(戦没者51万8千名)
      フィリピン ラグナ州 カリラヤ   (2019年3月8日)

牧水像を早くけえしてくれ!!2016/07/22 09:19

暮坂峠の歌碑の上に立つ若山牧水の像が盗まれてから10日余り過ぎた
まだ盗まれた像の足取りはつかめない
牧水像を失った石碑は変わり果てた姿をさらしている
暮坂峠 牧水歌碑など

在りし日の牧水像 これでこそ暮坂峠の牧水歌碑
若山牧水歌碑 暮坂峠

この像が無残にも足元から切り取られ
若山牧水歌碑

足首と台座を残して持ち去られてしまった
暮坂峠 牧水歌碑

若山牧水のすばらしい詩歌を生んだ豊かな自然と人々の営みはふるさとの誇りだ
その誇りをうつくしく詠んで広めてくれた牧水は地元のたいせつな遺産である

私も目を覚まして叫ぶ
       早く地元に返してくれろ!!!
若山牧水像

       群馬県 中之条町  暮坂峠発   (2016年7月22日)
 



 みなかみ紀行 抄

起きて見れば案外な上天気である。大喜びで草鞋を穿く。
  九十九折りけはしき坂を下り来れば橋ありてかかる峡の深みに
         牧水が白砂川を渡った橋が架けられた岩
中之条 六合 小雨 吾嬬橋

  おもはぬに村ありて名のやさしかる小雨の里といふにぞありける
二人は路から降り、そのさし出でた木の真下の川原に坐って昼飯を食べた。
  枯れし葉とおもふもみち”のふくみたるこの紅ゐをなんと申さむ
其處を立つと野原にかかった。眼につくは立枯の木の木立である。
  木々の根の皮剥ぎとりて木々をみな枯木とはしつ枯野とはしつ
小さな道標が立ててある。曰く、右沢渡温泉道、左花敷温泉道。立枯の楢がつづき、をりをり栗の木も混じって毬と共に笑みわれたその実を根がたに落してゐた。
  この枯野猪も出でぬか猿もゐぬか栗美しう落ちたまりたり
引沼村に小学校あり。
  先生の一途なるさまもなみだなれ家十ばかりなる村の学校に
(花敷の宿にて)
  真裸體なるとはしつつ覚束なき此處の温泉(いでゆ)に屋根の無ければ
  折からや風吹きたちてはらはらと紅葉は散り来いで湯のなかに
庭さきの瀬々のひびき、枕もとの洋燈の灯影もたえずまたたいて、眠り難い一夜であった。
  ひと夜寝てわが立ち出づる山かげのいで湯の村に雪降りにけり
やがてひろびろとした枯芒の原、立枯の楢の打ち続いた暮坂峠の大きな澤に出た。峠を越えて約三里、正午近く澤渡温泉に着き、正栄館というのの三階に上がった。無色無臭、温度もよく、いい湯であった。此の儘泊らうか、もう三四里を歩いて四萬温泉へ廻らうか、それとも直ぐ中之條へ出て伊香保まで延ばさうかと二人でいろいろに迷ったが、終に四萬へ行くことにきめて、昼飯を終るとすぐまた草鞋を穿いた。

      群馬県 吾妻郡 中之条町 六合~四万 (2016年7月23日)


  

吾妻郡パラオ諸島戦歿者慰霊碑2012/10/17 20:08

当郡よりパラオ諸島に従軍したひと205名のうち
昭和十九年九月からの戦闘で実に144名の方々が帰らぬひとになってしまいました
この石碑は生還したひとたちが戦歿者慰霊のため建碑したものである

吾妻郡パラオ諸島戦歿者慰霊碑
 

碑文
満洲事変日中戦争と続き昭和十六年
(一九四一)十二月米英両国に対し宣戦を
布告第二次世界大戦となった当時郷
土部隊第十四師団は関東軍の精鋭
として満洲に駐屯していた戦線の拡
大に伴ない本土防衛のため部隊を再
編成して船団を組み移動途中米軍艦
隊に遭遇など難関を切りぬけ昭和十九
年四月無事にパラオ諸島に到着した
その後島にいた守備隊の包含と移住者
の召集等により部隊の強化をはかり
「太平洋の防波堤」となることを合言葉
に守備に万全を期していた同年九月
突如ペリリュウ島に米軍が大挙来襲し
た戦闘は激烈を極めた然し衆寡敵せ
ず玉砕となったまた食糧難と病摩は多
くの若い命を奪った同二十年終戦、生
存者は戦歿者の遺志を胸に国家の再建
を誓い復員した戦後の混乱を経て漸く
経済的に立ち直った昭和四十三年郡内生還
者が集まり吾妻パラオ会を組織墓参等
慰霊を行ってきた会の結成二十周年を記
念し関係者協力のもと建碑を企画した
現在の日本の発展は戦歿者の犠牲の上に
実現されたことを肝に銘じ慰霊の誠を
捧げると共に戦争の悲惨な事実を世
に訴えここに永遠の平和を祈念して碑文
とする
  平成元年四月吉日
         吾妻パラオ会

平成24年10月14日関係者が石碑の前に集まり戦歿者慰霊祭が行われた
パラオの戦いからすでに68年が過ぎる
生還された61名のうち現在生存者は6名になってしまった

同町内には先の戦争に関して「おろかもの之碑」の石碑がある
碑文を対比すると感じることうんぬんである
「慰霊の誠を捧げる」との文章がこころに響いた

     群馬県 吾妻郡   (2012年10月14日)

おろかもの之碑2012/09/22 08:59

林昌寺山門の外左側にアジサイの藪に隠れるように
石碑が建っている  その名は「おろかもの之碑」
当時郡内の指導者であったひとたちによって昭和
36年12月8日に建立されたものである
おろかもの之碑
(裏面の書付)
昭和十二年七月七日ノ支那事変ハツイ
ニ昭和十六年十二月八日大東亜戦争ト
ナル日本ノ運命ヲ決スル危機ニ際シ我
々ハ当時ノ職務上或イハ一方的委嘱状
ニヨッテ一律ニソレゾレ大政翼賛会翼
賛壮年団在郷軍人分会ノ郡町村責任者
トナッタガ敗戦後占領政策ニヨリ其ノ
職ニ在ツタモノハスベテ戦争犯罪人ト
シテ昭和二十二年二月ヨリ一切ノ公職
カラ追放サレタ本意ナキ罪人ハ互イニ
ソノ愚直ヲ笑い合ツタ昭和二十六年八
月全員解除サレルヤあづま会ヲ設立シ
テ今日モナオ旧交ヲ持シ郷土吾妻ノタ
メニ聊ノ報恩ヲ期シテイル創立十周年
ニ際シおろかものノ実在ヲ後世ニ伝エ
再ビコノ過チヲ犯スコトナキヲ願イ卑
名ヲ下記ニ列ネテ碑ヲ建テル
 昭和三十六年十二月八日
           あづま会建之

この碑が建てられて50年が過ぎ今まさに時代が変わろうと
している 

     群馬県 中之条町   (2012年9月21日)