高崎市観音塚古墳 訪問記2020/08/03 11:51

令和2年7月28日 高崎市観音塚古墳を見学してきました。

全長105メートル、高さ12メートルの前方後円墳で六世紀末に造られた群馬県内最後の前方後円墳と言われている。
高崎市観音塚古墳
 

掲示板
高崎市観音塚古墳 掲示板

前方部が後円部を凌ぐ形は前方後円墳の末期の特徴であるとの説明がある
高崎市観音塚古墳 前方部

後円部には全長15.3メートル、玄室長7.1メートル、同幅3.4メートル、同高2.8メートルの巨石石室がある。(観音塚考古資料館)
高崎市観音塚古墳 石室模型


横穴式石室の入口から入る
高崎市観音塚古墳 石室入口

羨道を進む
     羨道両側に巨大な石が2個づつ並ぶ、玄室の入口上部に巨石の梁がある
高崎市観音塚古墳  羨道

玄室に入る
       玄室の正面奥部 1個の巨石が行く手を阻む
高崎市観音塚古墳  玄室奥

       玄室の右側の石壁 巨石が2個並ぶ
高崎市観音塚古墳  玄室右石壁

       玄室の左側の石壁 巨石が3個並ぶ
高崎市観音塚古墳  玄室左側の石壁

       玄室 天井の巨石
高崎市観音塚古墳  玄室の天井の巨石

       玄室 壁石の文字のような模様
高崎市観音塚古墳  玄室 石の模様

石室を出ていく
高崎市観音塚古墳 玄室~要道~出口


玄室と羨道の境 天井と梁石に隙間あり
高崎市観音塚古墳  玄室と羨道境梁石の隙間

古墳の近くにある観音塚考古資料館へ行き出土した副葬品を見る
(観音塚考古資料館のレプリカ)
 銅氶台付蓋碗
観音塚考古資料館 銅承台付蓋碗

 銀装鶏冠頭太刀 柄頭
観音塚考古資料館 銀鶏冠頭柄頭

古墳の大きさに比べ横穴式石室が立派なのには感心しました。群馬の古墳は全国的に見ても見劣りするものではないと思います。古墳と資料館がセットになっていて見学しやすいでした。中央と群馬、渡来人と群馬いろいろ想像の翼が羽ばたきます。

        資料館の入場料は65歳以上の私は無料でした。
   (注意)石室には照明がありません。懐中電燈の用意が必要です。


        群馬県 高崎市 観音塚古墳  (令和2年8月3日)

コレヒドール島の石2020/08/06 16:21

海に埋もれた鎮魂歌
コレヒドールのサースビーチに血の色をした石があるという
その話を聴いて砂浜を探したら
赤くそまった石を見つけた
この島で命を落とした男たちの若き血潮で染まったといって
75年過ぎても言い伝えをやめない男が居る
コレヒドールの石

赤く染まった石は色を落とそうとしない
今でもこの海で今の先を危ぶんで
鎮魂することはできないと叫んでいるのだ
コレヒドール島サースドック

2019年3月10日撮影

         フィリピン コレヒドール島  (2020年8月6日)

名知らず鳥がやって来た2020/08/11 09:41

この夏のある日の夕方 見たこともない鳥がやって来た
令和2年夏名知らず鳥

それも二羽でやって来た
令和2年夏の名知らず鳥

ケロちゃんあの鳥なんちゅうのか知ってるかい
令和2年夏のケロちゃん

ここの庭では見たことないなァ・・・
頭は小さめ嘴が長い毛並みは目立たないくらいきれいじゃあないな
令和2年夏の名知らず鳥


いつものヒヨドリとも違うし鳴き声もキィキィとけっこううるさいな
けっこう獰猛のようだからケロちゃん警戒を怠らないようにね

了解!!迎撃ミサイルはいつでも発射準備OKだよ 敵地攻撃能力も準備中さ・・
令和2年夏のケロちゃん



とある朝、前の家の屋根の上でその名知らず鳥が騒がしいのだ
令和2年夏の名知らず鳥

よく見ると蝉をくわえて食べようと奮闘中であった
令和2年夏の名知らず鳥

蝉を丸のみするほど名知らず鳥の口が大きくない そのまま鵜呑みするのは無理である
令和2年夏の名知らず鳥

我が庭では毎年蝉の抜け殻が見つかる。ここで毎年いくつかの蝉が羽化しているようだ
名知らず鳥の嘴に加えられた蝉は悲鳴をあげ羽ばたいて逃れようとしているわけでもない
おそらく名知らず鳥は使命を終え息絶えた蝉の亡骸を見つけたに違いない

蝉の身体をばらばらにして食べようと奮闘しているようだ 誠に残酷な光景だ
令和2年夏の名知らず鳥

しまいには蝉の亡骸を屋根から落としてしまったようだ その後どうなったかは不明である

はたしてこの鳥はなんという砦であろうか
狭い我家の庭でも・・・ 自然の営みが平和とは距離のあるものであることを思い知らされる  ひとは涙すること言葉を話すこと何のためにその能力を得たのであろうか・・・

写真 令和2年8月6日、20日撮影


        群馬県 吾妻郡   (令和2年8月11日)


箕輪城址2020/08/17 08:31

箕 輪 城 跡          

 榛名山の東南麓に広がる丘陵に1500年頃上野国の守護代長野氏により築城された。

 北 榛名山方面の展望

箕輪城跡 榛名山方面の展望

東 赤城山方面の展望

箕輪城跡 赤城山方面展望


箕輪城構成図

  箕輪城跡の標高は約270メートル、面積は47ヘクタール(東西500メートル、南北1,100メートル)に及ぶ丘城(一部平城)である。西は榛名白川の断崖に臨み、南は椿名沼、東と北は水掘を回し守りを固めている。

箕輪城跡 配置図


搦手口

  東側の搦手口より城内に入る。左手は搦手馬出がある。

箕輪城跡 搦手口


二の丸

  坂道を登り上げると縦横各約80メートルの二の丸に着く。ここは出撃用の拠点で四方に出撃できる位置にある。

箕輪城跡 二の丸跡


本丸南掘

  右に折れ本丸に進むと左手に本丸と二の丸を隔てる幅30メートル深さ10メートルの空掘がある。

箕輪城跡 本丸南掘


本丸南虎口・馬出

  更に進むと右手に本丸門馬出しがある。
  (振り返って撮った写真)

箕輪城跡 本丸南虎口 馬出


本丸

  本丸跡には箕輪城の歴史と構造を記した石碑が建てられている。

箕輪城跡 本丸跡


    (やぶ蚊に悩まされながら)本丸跡に立つ

箕輪城跡  本丸に立つ


本丸

  南北約100メートル、東西約70メートル、東側に高い土手が  築かれ外からの視界を遮っている。

箕輪城跡  本丸跡


御前曲輪

 本丸の一部であったと考えられている。南西の隅に物見櫓が建てられていた。

箕輪城跡  御前曲輪跡

落城の際に長野業守以下が自刃した持佛堂があったと伝えられている。昭和に発見された井戸の中より多数の五輪塔の墓石が発見された。昭和21年に箕輪城将士慰霊碑が建てられた。

箕輪城跡  御前曲輪跡


本丸・御前曲輪間掘

 この空堀は東部が浅く西部が深くなっており、西の空堀に降りる通路となっていた。

箕輪城跡 本丸・御前曲輪館空堀


本丸掘

  本丸の西側の掘である。初期の空堀は全て通路壕であったが、後に掘り下げられてその働きを失っていった。

箕輪城跡  本丸掘


本丸西虎口門・橋台

  蔵屋敷から本丸に架かっていた木橋を渡ったところに門跡が確認された。ここに一階建ての高麗門があったと推定されている。

箕輪城跡  本丸西虎口・橋台


三の丸

  発掘調査によると長野期頃は屋敷地、北条期頃には鍛冶場、井伊期頃に三の丸と造り替えたことが判明した。

箕輪城跡  三之丸跡


大堀切・土橋・郭馬出

  大堀切によって城は南北に区切られ土橋ひとつで連結されている。一城別郭の城である。先にみえるのが郭馬出である。

箕輪城跡  大堀切・土橋


郭馬出・大掘切・土橋

  郭馬出は城の南側に出撃する拠点として備えられた。

(郭馬出より大堀切と土橋、二の丸方面を振り返って見る)

箕輪城跡  郭馬出・土橋・大堀切


郭馬出西虎口門

  発掘調査の結果、郭馬出の西側虎口で門跡を確認した。城門は二階建の櫓門と推定し復元した。

箕輪城跡  郭馬出西虎口門


木俣曲輪

  郭馬出を堀で隔てた曲輪で、発掘調査の結果家臣団の屋敷地の一つと考えられている。

箕輪城跡  木俣曲輪跡


搦手口へ下る

  大堀切を左にして下り搦手口に戻る。

箕輪城跡  搦め手口へ下る


慶長3年(1598)井伊直政は城を高崎に移し箕輪城は廃城になった。
 

 

 

   写真:令和2728日撮影

 記事:各々の説明文は城内の掲示板や観光パンフレットを参考に 
        しました。

 

    


         群馬県 高崎市箕郷町 箕輪城跡 (令和2年8月17日)

碓氷郡 霧積温泉2020/08/21 16:43

東京に住んでいた頃の昭和46年の話から始める.
その頃 詩人や画家を目指した友がいた.
彼は碓氷郡出身の男性でペンネームが「碓氷久幸」であった.
私と彼は新宿の詩学の会の例会に通ったことがあった。
嵯峨信之氏や石原吉郎氏など現代詩人を代表する先生方が主催していた。
萩原朔太郎や室生犀星、立原道造、石川啄木などを読んでいた私にとって
現代詩を詠むのには未熟過ぎたと言える。
彼は「浄土」という詩集を自費出版した。
私はその詩集の巻頭に「君の詩を読むと妙義の山から流れ出る碓氷川を思い出さずにはいられない。僕はその流れの清い旋律に心うたれる。(1971.9.12)」と記した。
私と彼は詩学の会をぬけた 
彼は会社も辞め画家をめざしウラジオストックからシベリア鉄道でパリへ向った。ローマから届いた一通の絵葉書が最後の音信となった。千葉で暮しているとの風の便りに聞いたことがあるが、その後彼の消息は不明である。
霧積温泉の名前を初めて聴いたのは碓氷久幸君からであるから昭和46年頃ではないかと思っている。その後人間の証明で脚光をあびた頃、霧積に行ってみたいとの思いが高まった。その頃は群馬県碓氷郡松井田町坂本という地名であったのではなかろうか?平成の合併により碓氷郡の地名が消滅して今は群馬県安中市坂本である。明治の昔繁盛した上野国碓氷郡(ごおり)碓氷温泉のUSUIGORI(碓氷郡)の地名は奪われているのだ。

中山道17番目の宿場 坂本宿から国道を離れ県道を霧積川を遡ると終点に金湯館の駐車場がある。そこは霧積館のあった場所である。霧積館のあった場所には建物はなく熊野神社と鼻曲山への道標が残るのみである。
霧積温泉 霧積館跡

駐車場からホイホイ坂を登ると一軒宿の金湯館に辿り着くが、あらかじめ若女将のメールでの案内に従い県道に入る地点で電話をかけ迎えの車を依頼した。駐車場に到着するより早くマスクをした若旦那がワゴン車で迎えに到着していた。
霧積温泉 ほいほい坂

ここから送迎車は右に左にカーヴしながら専用の林道をあえぎながら谷を登っていく。車窓から谷間を眺めると谷は深く怖さを起させた。帽子を渓谷に落とすことなくようやく車は道端に停まった。車を降り渓谷を見下ろすと朱色の屋根の旅館の建物が見えた。覚束ない足取りでくの字に坂を下ると朱に塗った木橋を渡ると金湯館の玄関である。
霧積温泉 金湯館 玄関
玄関でスリッパに履き替える。秘湯の温泉場らしい玄関である。帳場で若女将が「お風呂が近い部屋がいいですか、トイレが近い方がいいですか?」と女房に訊いた。女房は困ったような顔をして僕に回答を託した。「おまえさんの古稀の記念に泊りにきたのに自分で決めれば」と心の中でころに思ったが「お風呂の近い方にお願いします。」と声をやや荒げて応答した。
南棟の一階の南側の角部屋に案内された。部屋に妙義山を描いた油絵が飾ってあり窓から水車が見えた。水車は15秒間水をためるとコトっと一言音をたててぐるりと一回転を繰り返していた。
霧積温泉 金湯館の水車

玄関を出て庭を散策する。
霧積川の渓流れは急である。渓流の底の固い地盤が浸食を防ぎ旅館を守っているように思えた。長い樋は渓流の水を流している。樋は水車まで敷かれていて何がしかに利用された水は終いには水車を回して渓流に戻っていくのだ。
霧積温泉 金湯館 霧積川

玄関脇に石碑がひっそりと立っている。勝海舟揮毫の書の石碑であるという。明治20年頃、即ち上野国北碓氷郡碓氷温泉の時代、皮膚病で湯治に来ていた勝海舟が矢島揖子の依頼により筆を執ったという。内容は聖書の一節であるようだ。

       我があたふる水を飲む者は永
       遠かわく事なし且わが予ふる
       水は其中にて泉となり湧出て
       永生に至るべし   約翰伝四章十四節
霧積温泉 金湯館 勝海舟石碑

西条八十の「麦わら帽子」の詩と森村誠一の「人間の照明」もここの温泉とのかかわりがより有名である。玄関の広間のパネルで西条八十と森村誠一が大きく紹介されているが、私にとって玄関の表から見えた麦わら帽子が象徴的であった。
霧積温泉  金湯館

源泉かけ流しの風呂に入る。
地名は霧積温泉、源泉名は入之湯という。泉温は38.9℃。
私はゆったりと湯につかり日常の疲れをとる。やがて肌にサイダーの泡粒のような泡が無数に付く。掌で肌を擦ると泡粒は皮膚を離れ湯面に浮かび音を立てて消える。これを繰り返して子供のような気分を味わった。

風呂からあがり夕食までの時間木の長椅子に腰を下ろし、長椅子で休んでいた大女将と話を交わした。電気や電話がなかったときの話、ふいにたくさんの客が来て廊下でも良いとそのようにして山小屋のようであったこと、湯治客のお話、一代で終いになった霧積館の話など霧積ことを拝聴することができた。

部屋食の夕食は心がこもっていてとても美味しかった。

夕食後まだ外は明るかった。谷間に静かに白い霧が降り積もってきた。
霧積温泉  金湯館 霧

霧積温泉 金湯館 霧


唐 十郎はこの宿に「湯煙りの中に消ちまいたい・・・」と色紙を残している。
霧積温泉  金湯館 色紙

私は「湯煙りと霧の中に消えちまいたい・・・・」と洒落て心の中に色紙を書き置いた。

消息不明の碓氷の詩人碓氷久幸のこと、消えちまった碓氷郡(USUIGORI)のこと、森林と渓谷の霧積のこと、若夫婦に引き継がれていく秘湯金湯館のこと、古稀に至った女房への思いなど様々な思いを思った霧積であった。
湯につかりながら二度上峠から鼻曲山に登り霧積に下り金湯館に泊るとの考えが浮かんだ。しかし古稀を過ぎた二人の体力では実行は無理であろう。しかし折を見て二人で鼻曲山まで登り山頂から碓氷を眺めて見たいとの思いが現実味を帯びた。



写真:令和2年7月23日撮影

       群馬県 安中市 霧積温泉   (令和2年8月21日)