チベット(6)蔵王墓 ― 2013/04/12 21:35
チベット(5)チベット仏教の礎 サムイエ寺 ― 2013/03/29 01:08
山南地区ツェタンの街から見てヤルツァンポ河側北岸に鎮座するサムイエ寺は799年に建立された仏法僧を備えた最初の僧院です
国教に仏教を選び仏法を広めたティソン・デツェン王(755~797年)
ティソン王がネパールから招聘され僧院の建立を進言した高僧シャーン・タラクシタ
土着神を鎮めるためシヤーン・タラクシタによってインドから招聘されたパドマサンバヴァ
の3名は師君三尊として敬われている
(険しい道程)
サムイエ寺はツェタンの街からヤルツァンポ河を挟んで北岸の扎囊県桑耶鎮にある
街から河を渡る橋があれば都合がよいのであるが生憎くこれがない
またフェリーもない
ヤルツァンポ河に沿って省道101号線を下ってヤルツァンポ大橋を渡るしか方法がない
しかしこの立派な橋は運悪く通行禁止であった
国教に仏教を選び仏法を広めたティソン・デツェン王(755~797年)
ティソン王がネパールから招聘され僧院の建立を進言した高僧シャーン・タラクシタ
土着神を鎮めるためシヤーン・タラクシタによってインドから招聘されたパドマサンバヴァ
の3名は師君三尊として敬われている
(険しい道程)
サムイエ寺はツェタンの街からヤルツァンポ河を挟んで北岸の扎囊県桑耶鎮にある
街から河を渡る橋があれば都合がよいのであるが生憎くこれがない
またフェリーもない
ヤルツァンポ河に沿って省道101号線を下ってヤルツァンポ大橋を渡るしか方法がない
しかしこの立派な橋は運悪く通行禁止であった
(往路通行禁止、復路はバスを下車して歩いて渡った)
従ってさらに隣の県まで下ってようやくヤルツァンポ河を渡って折り返して対岸の県道をツェタンの対岸方向へ戻るように走った
対岸の県道は舗装もなく悪路でパスは揺れがひどくて速度を上げられないけれども十分すぎるほど砂埃を巻き上げた
従ってさらに隣の県まで下ってようやくヤルツァンポ河を渡って折り返して対岸の県道をツェタンの対岸方向へ戻るように走った
対岸の県道は舗装もなく悪路でパスは揺れがひどくて速度を上げられないけれども十分すぎるほど砂埃を巻き上げた
おまけに道路わき集落から餌場に出勤する羊の群れに行く手をふさがれバスは停車して群れが通り過ぎるをのを待つしかない
(餌場へ誘導される羊たち)
この付近のヤルツァンポ河の両岸は砂漠が広がっているのには驚いた
まさか羊や山羊が草を食いつくして砂漠化したものでもあるまい
青い空とヤルヴァンポの流れ、雪を頂く峰々と砂漠原とあまり遭遇することのない風景の組み合わせだ
風が吹くと砂が舞いあがり砂塵は対岸の山々の姿を覆った
この付近のヤルツァンポ河の両岸は砂漠が広がっているのには驚いた
まさか羊や山羊が草を食いつくして砂漠化したものでもあるまい
青い空とヤルヴァンポの流れ、雪を頂く峰々と砂漠原とあまり遭遇することのない風景の組み合わせだ
風が吹くと砂が舞いあがり砂塵は対岸の山々の姿を覆った
(ヤルツァンポ河両岸は砂漠:何が砂漠化を進めるのか)
(サムイエ寺)
ツェタンのホテルを出発して約3時間、ようやく目的地サムイエ寺に到着した
サムイエ寺は漢字で扎囊県桑耶鎮にある
正面の建物が山門で口を東に向けて開き
白く塗られ塀は輪を作って僧院を囲んでいる
(サムイエ寺)
ツェタンのホテルを出発して約3時間、ようやく目的地サムイエ寺に到着した
サムイエ寺は漢字で扎囊県桑耶鎮にある
正面の建物が山門で口を東に向けて開き
白く塗られ塀は輪を作って僧院を囲んでいる
(山門の前で出店が開いていた)
(本堂)
山門をくぐり進むと僧院のシンボルの柱と本堂が見えてくる
(本堂)
山門をくぐり進むと僧院のシンボルの柱と本堂が見えてくる
(本堂)
本堂は左右対象の三階建の建物だ
一階がチベット様式、二階が中国様式、三階がインド様式の三様式で建てられている
入口は3条の幕が下げられ左際に赤い石碑が立っていた
本堂は左右対象の三階建の建物だ
一階がチベット様式、二階が中国様式、三階がインド様式の三様式で建てられている
入口は3条の幕が下げられ左際に赤い石碑が立っていた
(三様式で建てられた本堂)
(興佛盟誓碑)
(興佛盟誓碑)
碑の名前は「興佛盟誓碑」といい寺の創建時に建てられたという
仏法の教えに背いてはいけない
寺院に必要なる資材などの供養は惜しんで減少させたり欠乏させてはいけない
末代までもツェンポ(王)父子(ティソン・デツェンとその父ティデ・ツクツェン)の盟誓に従い変更してはいけない
などが刻まれている
仏法の教えに背いてはいけない
寺院に必要なる資材などの供養は惜しんで減少させたり欠乏させてはいけない
末代までもツェンポ(王)父子(ティソン・デツェンとその父ティデ・ツクツェン)の盟誓に従い変更してはいけない
などが刻まれている

(本堂前の碑文)
本堂の一階は中庭を回廊が廻り壁には壁画が描かれ回廊の中央にはマニ車が並んでいる
本堂の一階は中庭を回廊が廻り壁には壁画が描かれ回廊の中央にはマニ車が並んでいる
(本殿1階の回廊)
(本堂1階の壁画)
この寺の壁画は有名である
(本堂1階の壁画)
この寺の壁画は有名である
(如来坐像)
(極楽浄土で寛ぐ王族の姿?)
(釈迦の入滅の場面か?)
このほか画題としてはサムイエ寺の史記やパドマサンバヴアの伝記などもあるそうだ
(4色の仏塔)
本堂を中心にして四方に4座4色(白、赤、黒、緑)の仏塔が立っている
それぞれ両眼が描かれ四方を見渡している
(左手前の白い仏塔)
(右手前の緑の仏塔)
(タンカ虹のベール)
山全体を覆ったタンカは鷲が虹色の羽を広げているようである
仏法の御利益を平易に万人に知らしめている
(タンカ虹のベール)
山全体を覆ったタンカは鷲が虹色の羽を広げているようである
仏法の御利益を平易に万人に知らしめている
(タンカが頂きに虹のベールを掛ける)
(仏教発展の礎)
この僧院でサンスクリット仏典の翻訳や僧侶の教育がなされチベット仏教の飛躍的発展の礎となった
チベット 山南地区 サムィエ寺 (2010年10月)
(仏教発展の礎)
この僧院でサンスクリット仏典の翻訳や僧侶の教育がなされチベット仏教の飛躍的発展の礎となった
チベット 山南地区 サムィエ寺 (2010年10月)
チベット(4)唐蕃会盟碑 ― 2013/03/23 20:10
ジョカン寺の前に建っている碑文の話である
吐蕃と唐が攻防するなかで両国が会盟した回数は10回にもなるそうだ
この石碑はその最終10回目のもので821年~822年に相方で会盟した結果を
碑文に刻み823年にジョカン寺の前に建てたものである
吐蕃と唐が攻防するなかで両国が会盟した回数は10回にもなるそうだ
この石碑はその最終10回目のもので821年~822年に相方で会盟した結果を
碑文に刻み823年にジョカン寺の前に建てたものである
西は大蕃、東は巨唐と記し吐蕃を唐に比肩した対等国として表現するとともに両国の関係を舅甥関係に擬して両国の親善の強さを強調している
会盟の内容は国境の劃定と国境侵犯の禁止などで国境地点には境界碑を建てた
吐蕃は西安を落としても中原に進出して王朝を拡大することはなかった
モンゴルや満洲から興った征服王朝の元や清とはその点が異なっている
その疑問は別にして
相手の力が弱いとみれば力で征服(解決)してしまう唐が会盟(外交)で話しをつけたのは
大唐をしても吐蕃の力が侮れなかったからにほからなない
チベット ラサ 唐蕃会盟碑 (2010年10月)
吐蕃は西安を落としても中原に進出して王朝を拡大することはなかった
モンゴルや満洲から興った征服王朝の元や清とはその点が異なっている
その疑問は別にして
相手の力が弱いとみれば力で征服(解決)してしまう唐が会盟(外交)で話しをつけたのは
大唐をしても吐蕃の力が侮れなかったからにほからなない
チベット ラサ 唐蕃会盟碑 (2010年10月)
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