赤城山南麓渋川市赤城町 勝保沢城址 ― 2023/06/25 16:54
旧赤城村に長井坂城、三原田城、勝保沢城、津久田城、猫城など戦国の城址が残る。
渋川市赤城歴史資料館に立ち寄った際に偶然出会った勝保沢城址を紹介します。
所在地 旧赤城村大字勝保沢字寺内
勝保沢城址
1973年赤城村文化財関係資料集第三集より
空堀に囲まれた本丸
本丸たと思われる場所を一周した。
本丸
この曲輪はこの城の中心、本丸というべきか
図面左側から撮影しました
空堀A
下側の空堀は深さがありません
右手上部が本丸、左手奥は資料館の広い駐車場です
空堀B
上側の空堀を左側に向けた写真です
堀の右側は山の斜面を切れ落ちています
空堀C
空堀と切れ落ちた斜面との間にある武者走りのような辻を進む
振り返って撮影、写真Bの先を反対から見たものです
急坂D 搦手??
空堀の詰りに山の斜面を下っていく急坂の道があります
搦手であったろうか?
空堀E
堀の一番深い所から登り上げると博物館に戻る
空堀F
下側の堀を廻って堀から下る堀切を撮影
堀は宗玄寺へ方面へ延び下る
城址の主だったところは草が刈られていて探索しやすかったです。
勝保沢城址について
築城年代は不明であるが、宗玄寺開基の斎藤加賀守真氏(安清)が、天正十八年落城後、自分の居館跡の方一町を寄進し寺を建立したと古記録にあるから、他の赤城山西麓の城郭と同様戦国時代の頃の築城と思われる。
城主は前記の斎藤加賀守真氏であったと考えられる。因みに斎藤加賀守の墓は宗玄寺の墓所にある。この城はその地形から、あるいは前記の古記録から考えて城というよりは居館であったとも考えられる。
斎藤加賀守は北条氏幕下の勇猛をうたわれた武士で、史書に散見するが、その居館(城)であったとすれば、戦国期には戦乱の嵐に巻き込まれたことは想像に難くなく、加沢記によれば天正八年の真田氏の南方大侵攻の際攻略を受けている。
天正十八年白井城とともに赤城山西麓の諸城が、前田利家、上杉景勝の軍に攻略され、この城も他と共に落城した。
文献等
赤城村教育委員会 1973年赤城村文化財関係資料集第三集
加沢記
令和5年4月21日 撮影
群馬県 渋川市赤城町 (令和5年6月25日)
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