川場村門前隠れキリシタンの墓2023/02/06 14:03

川場村門前にある隠れキリシタンの墓を訪れました。

元禄16年(1703)の古切支丹死失存命帳によれば、古切支丹の東庵、その養女しゃく、二女おま、三女まりの死失・存命等の動静が記されている。
東庵
沼田領戸神村で銀山の採掘が始まった頃の元和4年(1618)前後に下野国足尾から川場へ来て家族を持ち暮らしていたが、寛永7年(1630)頃妻子を置いて失踪した。
正保元年(1644)江戸から切支丹宗門であることが申し来たるが欠落後の行方は知らず。
二女おま
川場村の百姓八右衛門の養子になり、八右衛門の弟百姓半三郎の妻になる。正保元年(1644)、父切支丹宗門の由詮議を受け沼田において牢につながれた。延宝元年(1673)江戸で詮議を受け御赦免になり沼田へ戻り、延宝4年5月17日病死した。(投獄30年は長い)

おま夫半三郎の墓
川場村門前に残る隠れキリシタンの墓は、おまの夫半三郎のものである。半三郎は沼田城下のある家に預けられたが、明暦3年(1657)に放免されて川場に戻ったという。

川場かるたの看板が立つ
 (へ) 辺境に潜み東庵宣教す
川場隠れ切支丹の墓
墓石は個人の墓所の一番端に立っている。
隠れ切支丹の墓

延宝七季辰未年
 雲巌亮景居士(うんけいりょうけいこじ)
七月十八日 
隠れ切支丹の墓
中国語ではキリスト教は「景教」と記す。戒名に景を使ったのは隠れてキリスト教徒であったことを示すものであるのかもしれない。



明暦4年(1658)「古切支丹出申国所之覚」
沼田ヨリ宗門多出申候。東庵ト申イルマン同前ノ宗門御座候。

天和2年(1683)5月「切支丹訴人の制札」
 きりしたん宗門ハ累年御制禁たり 
 自然不審成もの有之は 申出
 へし・・・・・

 群馬県立歴史博物館撮影
古切支丹訴人の制札

令和4年11月25日撮影

      群馬県 利根郡 川場村    (令和5年2月6日)