28ふるさと初夏①ケロちゃんこんにちは! ― 2016/05/06 16:57
てくてく高間山1341.7メートル ― 2016/05/15 07:59
長野原町、東吾妻町、中之条町六合地区にまたがる1341.7メートルの高間山に登った。最近の山行はここ数回雨にたたられていたが、本日は空がぬけるような素晴らしい快晴に恵まれました。
駐車場から見上げた高間山
駐車場から見上げた高間山
国道145号を松谷から川中温泉方面に入り林道吾嬬山線を通り登山口に行くプランに沿って車を進めたところ人家が無くなって間もなく全面通行止めの柵に行く手を遮られてしまった。やむなく東方面からのアクセスを諦めUターンして国道145号まで戻り長野原方面に車を進めた。
長野原町で中之条町六合地区方面へ右折し292号に入り広池という集落から林道を高間山登山口に向けて登った。
道票がおぼつかない山道を進みようやく登山口にある駐車場に到着、この先で林道の全面通行止めだと案内板が立てられていた。
登山口にある駐車場
6時10分登山開始
朝日を受けまぶしい登山口
ミズナラや赤松が林立 クマザサをぬった登山道を登る
6府25分 中間点に到着
傾斜がゆるくなり一息つく中間点
中間点を過ぎると登山道は斜度を増す
曲がりのない登山道は思ったより険しい
6時43分 高間山山頂到着
ほぼコースタイムで頂上到着
頂上には町別に立てた標識と国土地理院の二等三角点がある
林立する樹木により展望が遮られている山頂
吾嬬山方面の展望
短い道中であるが曲がりのない登山道は老足に堪えた
7時00分 下山開始
7時16分 中間地点通過
7時28分 駐車場到着下山完了
若葉の山山に囲まれ快晴の山行きに満足
林道吾嬬山線は途中で通行止めになっているので車で行かれる方は注意して下さい。
群馬県 吾妻郡 高間山 (2016年5月12日)
海野長門守幸光の墓と羽根尾城址 ― 2016/05/22 17:17
長野原町羽根尾の○○山の麓に吾妻郡の戦国武将の墓がある
その武将の名は海野長門守幸光
羽尾治部入道道雲の二男海野長門守幸光三男海野能登守輝幸とて無双の勇士と加沢記に記される
その武将の名は海野長門守幸光
羽尾治部入道道雲の二男海野長門守幸光三男海野能登守輝幸とて無双の勇士と加沢記に記される
その墓はいちばん右側筐印塔の形を留めている
掲示板があり墓の説明と吾妻の戦国武将海野兄弟の辿った略歴が記されている
斎藤越前守の家臣であったが真田に寝返り功名を立て岩櫃城代に昇り詰めるがその後逆心ありとて真田によって七十五歳を最後として岩櫃の露と消えた
墓碑は塔身の部分がやや違うがほぼ宝筐印塔の形をしている
正面は「雲林院殿前長州洞雲全龍居士」と海野長門守幸光の戒名を記し
右方の側面には「上野州我妻郡羽根尾城主海野長門守同舎弟能登守従往者雖有遺跡没為水災故改之」と墓碑を改めた理由が記され
左方の側面には「干時元文三年戌午七月朔日宗泉五世月心叟再興之」と墓碑を再興した言われが記されている (1732年この土地の宗泉寺の住職月心叟が再興したことが記されている)
ここから水音が鳴る木陰の山麓道を辿り
落ち葉が降り積もった階段を330段ほどほぼ直線で登りきったところに羽根尾城本丸址がある
尾根にそって二の丸や堀切などがあるということであるが表示もなくよく分からない
海野長門守の墓に建てられた掲示板で羽根尾城の略歴を見ておこう
本丸跡からの羽根尾の集落を見下ろす現在の展望である 戦国の世もこの城山がこのように立木で覆われていたとするならばこの城の展望は寄せ来る軍勢をどれくらい察知できたのであろうか(あまり遠くまできかなかったのではなかろうか)
長野原町の中心に1263年創建された雲林寺がある
火災だ亡失していたこの寺の伽藍を再建したのがこの海野長門守である
長野原町雲林寺
海野長門守幸光舎弟能登守輝光や羽根尾城などの経緯などを詳しく知りたければ「加沢記」を一読することをお勧めしたい
加沢記 巻之一 鎌原と羽根尾合戦之事
長野原合戦之事
斎藤入道没落並沼田勢加勢之事
巻之二 海野長門守同能登守吾妻郡代
巻之三 海野兄弟御成敗矢沢頼綱無二心事
海野兄弟迦葉とむらい玉ふ事
群馬県長野原町 羽根尾 (2016年5月12日)
城址を訪ねる⑤長野原城 ― 2016/05/29 11:10
吾妻にある城を「加沢記」の表現で見てみよう
○○城との表現は岩櫃城がある
○○の城とあるのは手子丸の城、尻高の城、中山の城、武山の城、折田の城、仙蔵の城など
○○の要害とあるのは武山、折田、仙蔵、山田、長野原、長野原、鎌原など
武山、折田、仙蔵は~の城と~の要害と二通りの表現が用いられている
長野原町にある長野原城は加沢記では長野原の要害と記されている
十二坂を登る
○○城との表現は岩櫃城がある
○○の城とあるのは手子丸の城、尻高の城、中山の城、武山の城、折田の城、仙蔵の城など
○○の要害とあるのは武山、折田、仙蔵、山田、長野原、長野原、鎌原など
武山、折田、仙蔵は~の城と~の要害と二通りの表現が用いられている
長野原町にある長野原城は加沢記では長野原の要害と記されている
十二坂を登る
十二坂を登りきって長野原城址との立札の矢印に従って小道を進む
小道の分岐点を左に登る
まず虎口(出入り口)がある
土塁や空堀で防御を固め
さらに大堀切で城郭を南北に隔てる
その先に本丸がある
本丸の先端に櫓台状の小区画があり城址碑が立つ
そこでは北東~南東方面に尾根が走りその南北両面は断崖である
本丸の北西側に段築状に曲輪が重なる
南東方向尾根に沿って出丸や物見に下る道がある
秋葉山出丸跡には武者溜りと秋葉神社跡の石碑がある
さらに下ると三角点
尾根道の終点は物見台?
ここは箱岩という岩の頂上になるのかどうか??
これ以上は危険で行けそうもない
長野原城はどんな城であったか?
加沢記の長野原合戦のでは長野原の要害として斎藤越前勢と戦った真田幸隆の舎弟常田新六郎が羽尾に討たれるまでの顛末が語られている
長野原の要害のイメージ
北条氏が滅び吾妻を真田氏が領有するところとなって、吾妻の城は岩櫃城を残して全て破却廃城となった
群馬県 吾妻郡 長野原町 (2016年5月12日)
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