私のポーランド9(discover poland) ― 2018/09/15 20:09
私のポーランド8(ザリピエのタマちゃん) ― 2018/08/27 13:37
ペインティングアートの村「ザリピエ」はクラクフから東へ約70キロの地点にあります。
ザリピエ模様の呼ばれるカラフルな花柄模様が民家の壁などに描かれています。
花柄は想像の花模様で120年の歴史があるそうです。コンテストも開催されるそうです。
ザリピエは豊かな自然に囲まれた小さな村です
ザリピエ模様の呼ばれるカラフルな花柄模様が民家の壁などに描かれています。
花柄は想像の花模様で120年の歴史があるそうです。コンテストも開催されるそうです。
ザリピエは豊かな自然に囲まれた小さな村です
小鳥が囀り沼では白鳥が泳ぐ
ザリピエ模様を描いた民家
農家の庭ではニワトリやアヒルが放し飼いになっています
家の壁だけではなく
小さなショップの部屋の中も隙間なく花柄が満開でした
ミシンにもこのとおり
ところでここでもっとも取り上げたいのはペインティングアートのことではありません。書きたいのはショップで私を出迎えてくれたぶち猫のタマちゃんのことです。
ショップの庭で私を出迎えるタマ じっとわたしを見つめる
「こんにちは!!旦那は何処から来たのかい?」
(日本だよ こんにちは!)
ショップの中まで私を案内したタマ
「旦那そこの椅子に腰かけて休んでください」
(ありがとう)
椅子に座った私の膝に乗ってスキンシップをねだるタマ
「旦那の膝は心地良さそうだから乗っちゃおっと」
(いいよ どうぞ どうぞ)
何かを欲しがっていたのかな?(私の膝の上でタマ)
「楽ちん楽ちん・・・なにか食べ物くれないのかな?」
(アァ残念ポシェットに仁丹しかないや!!)
間もなく膝を降りて横長椅子に移動くつろぐタマ
「それじゃあしょうがないね 毛並みをきれいきれいしようかな」
(きれいだね)
おみやげも買ってショップを去る私を見送るタマ
「アッ・・もう日本へ帰っちゃうのか 日本の猫はどんな猫」
(二本の猫もタマちゃんみたいに可愛いよ)
「さよなら日本の旦那さん」
(拙者は君に会えてとても楽しかったよ!!)
(サラバジャ!!ザリピエのタマ!!ちゃん幾久しく達者でな・・・)
「にゃん!!」
私が子供頃飼った猫は雌の白黒のぶちで名前は「タマ」でした。とても私に懐いて可愛がりました。だから白黒のぶちはどこでも見かけても「タマ」と呼ぶのです。
ポーランド ザリピエ村 (2018年5月18日)
私のポーランド7(アウシュヴィッツ) ― 2018/08/26 10:52
私が旅行先にポーランドを選んだ理由は
①なぜポーランドはいとも簡単に隣国から侵略されてしまったのか?
②ナチスによる大量殺戮の直接の現場を見ておきたい
ということでした
まず始めに第二アウシュヴィッツ・ビルケナウ強制収容所へ
①有刺鉄線に囲まれた広大な敷地(175ヘクタール)
②正面入口のあった中央監視棟の建物
③貨車から降ろされユダヤ人がSS医師により選別された荷降ろし場と引き込み線路
④労働可能と選別された人々が収容された木造のバラック
などが記憶に残りました
大量虐殺の直接的施設であるガス室と焼却炉跡は証拠隠滅のため破壊されその残骸が残っているが敷地の一番奥にあるため行く時間がなく見られませんでした。
ビルケナウを見てから第一アウシュヴィッツ強制収容所へ
①大量殺戮の重犯罪を行った場所、処刑場、ガス室、焼却炉を直接見ました。
②処刑場としては銃殺を行った「死の壁」、餓死刑を行った11ブロック地下の監房、点呼広場の片隅にある集団絞首台を見ました。
③アウシュヴィッツにおける殺戮の恐ろしさを直に感じたのは第4ブロック、第5ブロックで見た登録もされないで抹殺された人々の遺品の山でした。
1947年、ポーランド国会下院は現存していた2つの強制収容所後に、ポーランド国立アウシュヴィッツ・ビルケナウ博物館を設立を制定した
アウシュヴィッツはナチス・ドイツの最も大きな収容所で死のキャンプであった。1940年~1945年の間にに少なくとも1,300,000人の人々がナチスによってアウシュヴィッツへ追放された。
1,100,000人・・・・ユダヤ人
140,000人・・・・ポーランド人
23,000人・・・・ロマ(ジプシー)
15,000人・・・・ソビエト兵捕虜
25,000人・・・・その他人種
アウシュヴィッツで1,100,000人の人々が命を失った。その約90%の犠牲者がユダヤ人である。SSは彼らの大多数をガス室で惨殺した。
アウシュヴィッツに送られたユダヤ人の概算の人数は以下の通りである。
430,000人・・・・ハンガリーから
300,000人・・・・ポーランドから
69,000人・・・・フランスから
60,000人・・・・オランダから
55,000人・・・・ギリシャから
46,000人・・・・保護領のボヘミアとモラビアから
27,000人・・・・スロバキアから
25,000人・・・。ベルギーから
23,000人・・・・オーストリアとドイツから
10,000人・・・・ユーゴスラビアから
7,500人・・・・イタリアから
690人・・・・ノルウェーから
加えること凡そ34,000人のユダヤ人が他の収容所から個別に移送された。
第二アウシュビィッツ・ビルケナウ強制収容所
まず大規模な絶滅収容所として建設されたを第二収容所を見た
施設は雨で濡れていた
見取り図
左からBⅠ、BⅡ、BⅢと3つのブロックで構成
①なぜポーランドはいとも簡単に隣国から侵略されてしまったのか?
②ナチスによる大量殺戮の直接の現場を見ておきたい
ということでした
まず始めに第二アウシュヴィッツ・ビルケナウ強制収容所へ
①有刺鉄線に囲まれた広大な敷地(175ヘクタール)
②正面入口のあった中央監視棟の建物
③貨車から降ろされユダヤ人がSS医師により選別された荷降ろし場と引き込み線路
④労働可能と選別された人々が収容された木造のバラック
などが記憶に残りました
大量虐殺の直接的施設であるガス室と焼却炉跡は証拠隠滅のため破壊されその残骸が残っているが敷地の一番奥にあるため行く時間がなく見られませんでした。
ビルケナウを見てから第一アウシュヴィッツ強制収容所へ
①大量殺戮の重犯罪を行った場所、処刑場、ガス室、焼却炉を直接見ました。
②処刑場としては銃殺を行った「死の壁」、餓死刑を行った11ブロック地下の監房、点呼広場の片隅にある集団絞首台を見ました。
③アウシュヴィッツにおける殺戮の恐ろしさを直に感じたのは第4ブロック、第5ブロックで見た登録もされないで抹殺された人々の遺品の山でした。
1947年、ポーランド国会下院は現存していた2つの強制収容所後に、ポーランド国立アウシュヴィッツ・ビルケナウ博物館を設立を制定した
アウシュヴィッツはナチス・ドイツの最も大きな収容所で死のキャンプであった。1940年~1945年の間にに少なくとも1,300,000人の人々がナチスによってアウシュヴィッツへ追放された。
1,100,000人・・・・ユダヤ人
140,000人・・・・ポーランド人
23,000人・・・・ロマ(ジプシー)
15,000人・・・・ソビエト兵捕虜
25,000人・・・・その他人種
アウシュヴィッツで1,100,000人の人々が命を失った。その約90%の犠牲者がユダヤ人である。SSは彼らの大多数をガス室で惨殺した。
アウシュヴィッツに送られたユダヤ人の概算の人数は以下の通りである。
430,000人・・・・ハンガリーから
300,000人・・・・ポーランドから
69,000人・・・・フランスから
60,000人・・・・オランダから
55,000人・・・・ギリシャから
46,000人・・・・保護領のボヘミアとモラビアから
27,000人・・・・スロバキアから
25,000人・・・。ベルギーから
23,000人・・・・オーストリアとドイツから
10,000人・・・・ユーゴスラビアから
7,500人・・・・イタリアから
690人・・・・ノルウェーから
加えること凡そ34,000人のユダヤ人が他の収容所から個別に移送された。
第二アウシュビィッツ・ビルケナウ強制収容所
まず大規模な絶滅収容所として建設されたを第二収容所を見た
施設は雨で濡れていた
見取り図
左からBⅠ、BⅡ、BⅢと3つのブロックで構成
中央監視棟
囚人たちが「死の門」と呼んでいた中央門
有刺鉄線の外に配置された監視塔
鉄道用荷降ろし場
貨車から降ろされた人々がSSの医師により選別された現場
このレールの先に大規模な焼却場(ガス室と焼却炉)がありった
降ろされたユダヤ人の70~75%ここからガス室へ送り込まれたとの記録もある
1944年の現場の写真
焼却場(クレマトリウム)
ガス室と焼却炉をクレマトリウムと云う
1943年から稼働した
当時はこの写真の正面にその煙突が見えたであろう
証拠隠滅のため破壊されたためその姿は見えない
今は残骸が残るが一番奥にあるため見に行く時間はなかった
収容施設
労働可能として選別された者が収容施設に入れられました。
175ヘクタールの敷地内に約300棟のバラックが建てられた
BⅡブロック方面の木造のバラック群
現存する木造バラックは22棟
BⅠブロックには45棟のレンガ造りのバラックが残っている
木造バラックの内部
52頭馬小屋を改造して約400人収容できた
ベットは3段ベット、1段に5人が寝かされた
中央にレンガ造りの暖房用の排気装置がある
バラックの床
不揃いなレンガ張りの床 土で固めただけの床もあった
トイレがあるバラック内部
第一アウシュヴィッツ強制収容所
最初に建設された強制収容施設
見取り図
最初に建設された強制収容施設
見取り図
収容所正門
Arbeit macht Frei(働けば自由になる)
二重に囲った有刺鉄線
電流が流された鉄条網による囲いは全長2キロメートル
暴力的抑圧に耐えられず感電自殺を選ぶ囚人もいた
中央広場(点呼広場)
長い時間整列させられ点呼をとらされた広場
広場の一角に集団絞首刑台がありSSはここで公開処刑を行った
絞首刑台は学校の鉄棒施設のようでもあり不気味な気持になった
第4ブロック、第5ブロック
このブロックの部屋に展示されているうず高く積まれて何千もの靴や服、ブラシ、メガネ、名前や住所が書かれたトランクなどの遺品の山をを見て虐殺の凄まじさを身に直に伝わった。
その他壁に掲げられた入所時に撮られた囚人たちの写真など遺品の山を含めて写真を撮る気持ちにはなれなかった。唯一撮ったのはチクロンBの空き缶である。
チクロンBの空き缶
第10ブロック、第11ブロック(死の家)とその間の死の壁
左側の建物10ブロックでカール・クラウベルグやヨゼフ・メレンゲが人体実験を
行った
右側の建物11ブロックが死の家と呼ばれた中央刑務所
地下にマクシミリアン・コベル神父が餓死刑に処せられた監房がある
正面中央に死の壁と呼ばれる銃殺を行った壁
主にポーランド人が銃殺された
クレマトリウム(ガス室と焼却炉)
第一強制収容所のクレマトリウムは1943年に稼働を開始した第二アウシュヴィッツ・ビルケナウ収容所の大規模な焼却場へ役目を引き継いだ
見取り図
2棟併設されていた
第一強制収容所のクレマトリウムは1943年に稼働を開始した第二アウシュヴィッツ・ビルケナウ収容所の大規模な焼却場へ役目を引き継いだ
見取り図
2棟併設されていた
外観
ガス室
一度に数百人殺戮したというガス室
天井にチクロンガスを噴射した穴が黒い口
焼却炉
一昼夜で340体焼却できたという
1941年秋ラインハルト作戦と呼ばれる絶滅計画
・ヘウジェツ、ソビボル、トレブリンカに絶滅収容所を建設
・ゲットーからユダヤ人を収容所へ強制移送、ゲットーの解体(ワルシャワを除く)
・1943年11月3収容所消滅、これらの収容所で約170万人のユダヤ人が殺害されたいう。
1942年1月20日ヴァンゼー会議
・ドイツからユダヤ人を排除する方法が国外移住の促進から移送と強制収容と強制労働と計画的殺害に変更された。
・1942年春アウシュヴィッツ・ビルケナウを絶滅収容所に指定、アウシュヴィッツでは 約110万人のユダヤ人が殺害されという。
1941年6月開始された独ソ戦は独軍の敗退により東への領土の拡張の野望が断たれたことも悲惨な殺戮を実行を促進した一因であるのかも知れない。
アウシュヴィッツに展示された犠牲者が残した遺品の山を目の前に見て殺戮の恐ろしさが直に伝わった。ナチスの国家犯罪の傷痕を現実に見て思うことは人間というそのものと国家権力の恐ろしさである。このような惨劇の再発防止策としてはナチスのような凶悪な指導者やグループに簡単に国家権力を奪われないようにすること、すなわちナチスが国家権力を握ったプロセスに注目して現状では国内的にそのような問題がないか絶えずチェックしていくことではないかと思う。
二次大戦では無差別爆撃、原爆投下などによる大量に人命が虫けらのように失われた。この惨劇は今も何処かで起こっていて止むことはない。ピカソが生きているとすればゲルニカを何枚も描かないといけないだろう。あるいはもう描く意欲を失ってしまっているかも知れない。
労働できると選定され強制収容所に収容された人々も重労働により消耗し、劣悪環境のなかで力尽き命を落とし灰となり有刺鉄線の囲いの中から再び出ることはなかった。南方の戦場で補給路を断たれ弾薬も食糧も尽き自決や餓死を被ったた兵士たちの遺骨は見えない有刺鉄線の囲みの中で今でも風雨にさらされている。
ポーランド (2018年5月14日~21日)
私のポーランド6(ゲットー) ― 2018/07/31 14:31
UNDER NAZI OCCUPATION 1939-1945
ゲットー
16世紀以降ユダヤ教徒をギリスト教徒から隔離するため都市に造られたという
ここで記すゲットーは20世紀ナチス・ドイツによってユダヤ人を強制的に収容した居住区域である。
ワルシャワ・ゲットー(1940年11月~1943年5月)
11万人のポーランド人住民が強制退去させられた区域に44万人ものユダヤ人が強制収容されたという
ゲットー
16世紀以降ユダヤ教徒をギリスト教徒から隔離するため都市に造られたという
ここで記すゲットーは20世紀ナチス・ドイツによってユダヤ人を強制的に収容した居住区域である。
ワルシャワ・ゲットー(1940年11月~1943年5月)
11万人のポーランド人住民が強制退去させられた区域に44万人ものユダヤ人が強制収容されたという
ゲットーを囲んだ高さ3メートルを超える壁の一部は今も残っている
ゲットーウォールの案内板(ズウォタ通り)
それは集合住宅の中に点在していた
A part of the Ghetto wall
掲示が読めないのが残念
1942年7月ゲットー住民トレブリンカ収容所へ移送開始 9月30万人を移送、7万人が残る
1942年7月ユダヤ人戦闘組織発足
1943年4月19日住民移送のドイツ軍と警察に対し武装蜂起(ワルシャワ・ゲットー蜂起)
ゲットー地区破壊 5月蜂起鎮圧 ゲットー解体
ポーランド・ユダヤ人の歴史博物館に展示してある
ワルシャワ・ゲットー蜂起の写真
博物館の前庭に建てられたワルシャワ・ゲットーの英雄記念碑
クラクフ・ゲットー(1941年3月~1943年12月)
カジミエシュ地区のビスワ川を挟んだポドグジェ地区に塀で囲んで造られたゲットーに当初1万5千人のユダヤ人が強制収容されたという
両地区を分け隔て流れるビスワ川
クラクフ・ゲットーの全体図
1942年6月、10月に3度にわたりユダヤ人住民を強制収容所へ移送
1943年3月4度目の移送によりゲットー解体
ユダヤ人を雇って操業したオスカー・シンドラーのエナメル工場
ナチス支配時代のゲットーは単なる民族と民族を隔離することを目的としたものではなく、民族絶滅を目的のための手段であった ゲットーに収容された住民のほとんどは絶滅収容所へ移送されていってゲットーから姿を消した
住民が移送されカラになったゲットーは残忍極まるプロセスの役割を終え解体された
世界では壁は消えることなく今でも役割を得て存在し続けている
イテオロギーによる分断
冷戦時代ベルリン市民を東西に分けた「ベルリンの壁」
宗教の派閥による分断
北アイルランドベルファストにあるカトリックとプロテスタント地区を分ける「平和の壁」
土地を分捕るための包囲
イスラエルのパレスチナ地区を囲む「鉄の壁」
現代でも生きているアンネの日記の一説を思い出す
「弱いものは狙われます。けれども強いものは生き残り、けっして負けることはないのです。」
ポーランド (2018年5月14日~21日)
私のポーランド5(侵略と抵抗) ― 2018/07/17 15:40
侵略と抵抗
1025年 ポーランド王国誕生
ポレスワフ1世
1025年 ポーランド王国誕生
ポレスワフ1世
旧王宮と大聖堂(クラクフ)
1241年 蒙古来襲
バトウ率いるモンゴル軍が進攻、3次にわたるモンゴルの侵攻によりポーラン
ドは壊滅状態に
クラクフにある聖マリア教会のヘイナウ・マリアッキと呼ばれるトランペット
の時報の演奏が中断されるのはラッパ兵がモンゴル兵により喉を射抜かれたこ
とに由来しているという
聖マリア教会(クラクフ)
街を守る城塞もしっかりしたものに
ババルカン(クラクフ)
ヤスナグラ修道院のヤスナ・グラの聖母の頬の傷はモンゴル兵の仕業である
との説もあるが?
ヤスナ・グラの聖母(チェンストホーヴァ)
1569年~1795年
ポーランド・リトアニア共和国
選挙王制へ
1596年 首都をクラクフからワルシャワへ遷都(ジグムント3世)
ジグムント3世像と王宮(ワルシャワ)
1772年 周辺諸国による侵略
ロシア、プロイセン、オーストリアによるポーランドの分割
1795年~1815年
国家消滅
第3次分割によりポーランド消滅
1807年~1815年
傀儡国家ワルシャワ公国
ナポレオンによる傀儡国家ワルシャワ公国の建国
ナポレオン没落しワルシャワ公国解体
1815年~
ロシア皇帝が国王を兼ねたポーランド立憲王国
ロシア支配からの独立を目指し大規模な蜂起 (1830年、1863年)
ポーランド人の連帯意識を強めカトリック信仰がより堅固に
「革命のエチュード」フレデリック・ショパン(1831年?)
叙事詩「パン・タデウシュ」(1834年)アダム・ミツキエヴィッチ
(クラクフ中央市場広場)
1918年 ポーランド共和国樹立
第一次大戦ドイツの敗北、ポーランド共和国独立
1939年 ドイツとソ連による侵略
ナチス・ドイツとソビエトの進攻によりポーランド消滅
ホロコースト(大量虐殺)
ワルシャワゲットー蜂起(1943年)
ワルシャワゲットーの英雄記念碑(ワルシャワ)
ワルシャワ蜂起(1944年)
ワルシャワ蜂起記念碑(ワルシャワ)
1952年~1898年
ソ連の衛星国家、ポーランド人民共和国樹立
スターリンより贈与された悪魔の宮殿のような不気味な建物
元はヨシフ・スターリン記念文化科学宮殿という名称
ワルシャワの文化科学宮殿(ワルシャワ)
反社会主義運動、民主化運動(1980年~)
1989年~
国名をポーランド共和国に変更
1999年 NATO加盟
2004年 EU加盟
ワルシャワの人々の復興のシンボル
王宮広場、旧王宮、聖アンナ教会(ワルシャワ)
ショッピングセンター(ワルシャワ)
ポーランドの壮絶な歴史をどうコメントしたらいいのだろうか?
ヨーロッパでは弱いものは強いものに潰される。これがあたりまえなのか?
選挙王制が国を弱めてしまったのか?
神のお告げに忠実でありすぎたのか?(隣人を信じすぎてしまったのか?)
「アンネの日記」の記述の中にその回答のひとつがあるように思います。
「多くの時代を超えてユダヤ人は生きのびてきました。このあいだずっと苦しんでこなくてはなりませんでしたが、同時にそれによって強くなることを覚えました。弱い物は狙われます。けれども強い物は生き残り、けっして負けることはないのです。」(深町眞理子訳)
ポーランド (2018年5月14日~21日)
私のポーランド4(著名人) ― 2018/07/05 15:31
著名人たち
コペルニクス(1473年2月19日~1543年5月24日)
天文学
クラクフ
コペルニクス(1473年2月19日~1543年5月24日)
天文学
クラクフ
ワルシャワ
キュリー夫人(1867年11月7日~1934年7月4日)
物理学・化学
ワルシャワ
キュリー夫人博物館
アダム・ミツキエヴィチ(1796年12月24日~1855年11月26日)
詩人・政治活動家
クラクフ
中央市場広場
ワルシャワ
ショパン(1810年3月1日~1849年10月17日)
ジェラゾヴァ・ヴォラ村
ショパンの生家
ワルシャワ
ショパンのベンチ
ショパンのピアノコンサート
ショパンの心臓が眠る聖十字架教会
ローマ教皇 ヨハネ・パウロ2世(1920年5月18日~2005年4月2日)
ローマ教皇
クラクフ
クラクフ教区の司祭~大司教
ヴィエリチカ
岩塩坑内
ポーランド (2018年5月14日~21日)
私のポーランド3(ユダヤ人) ― 2018/07/04 11:01
ユダヤ人
カジミェシュ3世(1333年~1370年)は西ヨーロッパで迫害にあっていたユダヤ人を保護、移民も奨励したという。このためポーランドはヨーロッパの大国に成長したという。
カジミェシュ3世(1333年~1370年)は西ヨーロッパで迫害にあっていたユダヤ人を保護、移民も奨励したという。このためポーランドはヨーロッパの大国に成長したという。
ヴィエリチカ岩塩坑
坑道内のカジミェシュ3世の彫像
坑道内のカジミェシュ3世の彫像
クラクフ
クラクフ城内地区とカジミェシュ地区の都市図
(ワルシャワのポーランド・ユダヤ人の歴史博物館にて)
現在のカジミェシュ地区の地図
現在のカジミェシュ地区の地図
カジミェシュ地区 ヨセフ通り
カジミェシュ地区 スタラ・シナゴーグ
ワルシャワ
ポーランド・ユダヤ人の歴史博物館
カジミェシュ3世がユダヤ人を受け入れた理由は宗教的人道的な理由だけではないと思うが、とにかくユダヤ人はポーランドで定住地を得て自治都市を形成することができた
1897年 ワルシャワ市内人口約64万人その内ユダヤ人約22万人(34%)
1938年 クラクフ市内人口約25人その内ユダヤ人約6万4千人(25%)
ポーランド(2018年5月14日~21日)
私のポーランド2(信仰) ― 2018/06/21 17:05
カトリック信者の国ポーランド
ウオヴィッチ
古民家博物館にある田舎の木造の教会
ウオヴィッチ
古民家博物館にある田舎の木造の教会
ヴィエリチカ
岩塩坑坑道内に彫られた地下の教会
カルヴァリア・ゼブジトフスカ
ゴルゴダの丘を模した巡礼の聖地
チェンストホヴァ
ポーランドの危機を救ったヤスナ・グラの聖母への信仰
ヤスナ・グラ修道院は巡礼の聖地
煌びやかなヤスナ・グラ修道院の内部
カジミェシュ・ドルヌイ
十字架の丘
クラクフ
トランペットの音が時を告げ途絶える聖マリア教会
クラクフの大司教からローマ教皇へヨハネ・パウロ2世
ヴィエリチカ岩塩坑のヨハネ・パウロ2世の彫像
ローマ・カトリックはポーランド国民の心の柱である
ポーランド (2018年5月14日~21日)
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