小川城址 ― 2021/10/01 14:57
上州利根郡みなかみ町にある小川城址を見て来ました。
天和元年(1681年)沼田藩主真田信直は両国橋用材請負の不手際(用材の遅延)などのために改易になった。その信直が小川城の三郭の陣屋で18年間居住したという説がある。その小川城がどんなものであったのか実際に確認したくて出掛けることにした
小川城址は上越新幹線上毛高原駅のすぐ近くにあった。城跡は新幹線工事により造られた国道291号バイパスで分断されている
国道291号と小川城址

まず初めにみなかみ町作成のパンフレット「小川城址」の地形図を確認しよう
本郭、二郭、三郭、ささ郭で構成されていたようである
国道291号の路肩から堀切挟んですぐに本廓跡がある

堀切に下りて登って本廓に登る
小川城は利根川の河岸段丘に流れ落ちる北側の古城沢、南側の八幡沢と二本の沢にはさまれた天然の要害となっていた
本廓の北側の古城沢側には土塁が残っている
北側の古城沢の断崖は竹藪で覆われていて谷底は確認できない
本廓の先は一段下がってささ郭がある
そしてささ郭の先この写真の右側は50メートルの断崖となって落ちているのだ
ささ郭をめぐって八幡沢側に行くと
南側八幡沢の断崖は崩れやすい土壌が剝き出しになって崩れている
そのため土塁があったと思われるがその姿は今はない
本郭までもどり鍵型に折れた堀切を見てみよう
北側に続く堀切
そして反対側南側の堀切
この南側堀切を先端の八幡沢まで行って振り返って鍵の形を確認
そしてその堀切の上を見上げると今は稲荷が祀られているがそこには櫓があったという
国道に戻って二の丸跡方面を見てみよう
上毛高原駅建設の残土で二つの沢をうめたため昔とは地形が変わってしまったようだ
二の丸方面と見張台?があったとされる見城山の景色
伊賀守陣屋址まで確認したかったが二の丸も三の丸も私有地であるので入っていくのは遠慮した
掲示板に掲示されていた図面を見ておさらいして城跡を後にした
上図で国道から下側の沢の部分は埋め立てられて昔を留めていない
一国一城令により多くの戦国の城は破却の運命を辿った。小川城がどのような運命を辿ったのだろうか。みなかみ町のパンフレットの小川城年表によれば明暦3年(1657年)信直が五代沼田城主となり沼田へ移り廃城になったとあり、これによれは明暦3年まで小川城は破却を免れていたことになる。信直は沼田領のうち小川村5000石を分知されこの地を治めた。その時はすでに本郭の建物はなく二の丸に残った陣屋に居住してこの地を収めたのかもしれないと私の想像である。(または江戸に居住して現地には代官を置いて治めたのか?分地の身分で江戸に屋敷をもてたのかな?)疑問が膨らむ・・・別途調べるか
撮影:令和3年9月24日
群馬県 利根郡 みなかみ町 (令和3年10月1日)
秋の足音(斑尾高原) ― 2021/10/15 08:00
カマキリの秋 ― 2021/10/20 21:46
早朝ベランダのフーセンカズラの日除けねっとを見ると
このネットの上で数日姿が見られたカマキリが何かを口に銜えていた
よく見るとカマキリの羽と腹部が銜えられていた
どうやらメスがオスを食べているようである すでに上半身は食べられて無い
1時間ほどするともう腹部しか残っていない
腹部がおいしいところなのだろうか メスはむしゃぶりついて食べている
その日の午後食べ尽くしたメスは何事もなかったように網にとまっていた
オスはメスと結ばれた代償にメスに食べられて本望であったろうか
やがてこのメスもこんなふうに卵を産んでからオスの後を追うのだろう
命をつなぐ使命を忠実に果たす背負わされたプログラムはとても厳しいものだ
撮影;令和3年10月18日
群馬県 吾妻郡 (令和3年10月20日)
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