文禄・慶長の役の城址をたどる2017/11/11 12:25

九州から対馬へさらに韓国へと対馬・朝鮮海峡と二つの海峡を船で渡ってみたいと前々より思っていた
それが今回実現できた

羽田⇒JL307⇒福岡
福岡⇒名護屋城跡⇒博多港
博多港⇒対馬海峡⇒対馬厳原港(泊)
(対馬)清水山城・金石城・万松院・桟原館
比田勝港⇒朝鮮海峡⇒釜山(泊)
(釜山)釜山子城・亀浦城・機張城
(蔚山広域市)蔚山城・西生浦城
釜山(泊)
釜山⇒鉄道⇒ソウル
(ソウル)漢陽都城・(昌徳宮・宗廟・徳寿宮)
ソウル(泊)
水原華城・南漢山城
インチョン⇒KE001⇒成田

肥前名護屋城
             天正19年大明への出兵(唐入り)の前線基地とするため秀吉の命により築城
     それは当時として大阪城に次ぐ規模の桃山様式の本格的な城郭であったという
     城普請ははじめ九州諸大名が行い第一陣が朝鮮へ出兵したあとは東国の大名が 
     引き継いで行ったようである
     
肥前名護屋城

 
      天守台には五層七階の天守閣が聳えていたという
肥前名護屋城跡
       
      城の周囲には160にも及ぶ大名が集結し陣屋を構え20万人ともいわれる
      大規模な城下町が形成されたようである
      真田昌幸の陣屋は陣屋位置を列記した古記録によると?ワク町下中尾と
      記録されている
肥前名護屋城
      この巨大な城はこの地に突然出現し忽然と消えた 天守や多くの御殿など
      建物は残っていない 
      玄界灘を見渡す本丸に「太閤が睨みし海のかすみ哉」と青木月斗の句碑が
      たっている
対馬海峡
博多港よりジェットフォイルに乗船対馬海峡を渡る
天気は曇りなれど波は穏やかだった
海が荒れなければそう大きくない船でも容易に渡れると感じた
対馬海峡

対馬
    清水山城
      肥前名護屋城~壱岐の勝本城~対馬の清水山城~朝鮮の釜山城と結ぶ
      中継ぎの城 
      尾根に沿って下から三ノ丸、二ノ丸、一ノ丸と曲輪が階段状に造られ
      各曲輪は登り石垣で結ばれている
対馬 清水山城

      三ノ丸
            眼下に厳原の街が広がる
清水山城三ノ丸

      一ノ丸
      標高206メートルの頂に本丸が
清水山城一の丸

      一ノ丸から見た厳原の街と厳原港
対馬 清水山城一ノ丸

    金石城
      対州宗氏の金石館を朝鮮の役のため改修秀吉の御座所に指定された
      平成2年に復元された大手の櫓門は寛文9年(1669年)21代義真が築いたもの
対馬 金石城

    万松院
      金石城の堀に沿って進むと対馬藩主宗家の菩提寺がある
      宗家一族の墓所である御霊屋に墓石が立ち並ぶ      
      朝鮮の役で重要な役割を果たした20代藩主宗義智の墓は宝篋印塔であった
満松院

朝鮮海峡
上対馬の比田勝港にて出国ジェットフォイルにて朝鮮海峡を渡る
ここも想像に反し海は穏やかだった


韓国
釜山広域市
    釜山子城台倭城
      文禄の役に築く
      釜山子城台倭城は釜山母城とともに倭城群の本拠地と言える
      丘陵全体が公園となっていて石垣が周囲を取り巻く
      
釜山子台倭城

      
      乱後も釜山鎮僉使営として利用され現在頂上に鎮南門や千万里将軍の
      記念碑などが建てられている
      また麓には朝鮮通信使を出航せしめた五色に彩られた永嘉台がある
釜山子城倭城

    亀浦倭城
      文禄の役に築く
      洛東江により船舶の停泊が可能であった
      対岸の金海竹島城と対で補給路の確保を目的とした
      標高76メートルの小高い丘の上に石垣が残り周りには空掘り跡が
      残る
      
亀浦倭城
      本丸は土饅頭の墓や畑がある私有地となっている
       
機張倭城
      

      洛東江対岸の金海竹島城の方面
釜山 亀浦城

 

    機張倭城
      文禄の役に築く
      釜山倭城~西生浦倭城~蔚山倭城と東海岸線を北に連結する中間の
      要地に位置する 兵を長期間軍を駐屯するため海岸の要衝地に位置
      して築かれ多数の船舶が収容可能であった
機張倭城

      登り石垣に沿って直線的な階段を登ると道は草ぼうぼうとなりその先に
      雑草に覆われた石垣が現われる
機張倭城
 

      本丸からの眺め
機張倭城


蔚山広域市
    蔚山倭城
      
      慶長の役(慶長2年)に築いた城で完成まじかにして明・朝鮮の大軍勢
      に取り囲まれ壮絶な籠城戦が行われた場所である
      

      城跡は公園となっていて市民の憩いの場所である 当時の遺構は石垣が
      若干残っているが多くは崩落したりはらみ出してして状態は良くない
蔚山倭城
      

    西生浦倭城
       文禄の役に築く
       釜山より東海岸線を北に60キロの地点、標高133メートルの丘陵に
       加藤清正が指揮して築城した大規模な城であった
       この城址は当時の遺構が多く残されているがこれは文禄・慶長の役後
       300年にわたり朝鮮水軍の同儉節制使営として利用されいたためと想像した   
西生浦倭城

       登り石垣
西生浦倭城

      大手口?から見た海岸リゾート
西生浦倭城

      本丸曲輪
      喰い違い虎口を通りぬけると本丸が開ける
西生浦倭城

      天守台を右に見てもう一方の喰い違い虎口を通ると最奥の馬出し
      曲輪に行き着く
西生浦倭城


      馬出し曲輪には出入口が塞がれた目隠し虎口が2か所造られている
西生浦倭城


ソウル
    漢陽都城
      内四山、北岳山、駱山、南山、仁王山をつなぐ城壁で漢陽を囲む
      花崗岩の城壁は高さ7~8メートル総長18.6キロメートルに及ぶ

      彰義門
                 この門から入る
漢陽都城

      北岳山の頂きに続く城壁
ソウル 漢陽都城
      


対馬海峡と朝鮮海峡をはさんで両国に展在する城跡を訪ね、その事件が本当にあったということが実感できた。また両海峡を船で渡って白村江に渡った人々、文禄・慶長の役で朝鮮へ渡った人々、明治~昭和の時代大陸へ渡った人々が抱いたと思う渡海の感覚を実感することも出来たようだ。さて韓国は長期間の連休中でどこも休日を楽しむ人々でにぎやいでいた。地震国の日本人の感覚からするととても不安に思える都市に林立する高層マンション群、また休日を人々がこの時とばかり燃え尽きるように思う存分楽しんでいる姿にもこの国の危うさを覚えてしまうのである。

        佐賀、対馬、釜山、ソウル   (2017年10月)