シチリア・セリヌンテ・ギリシャ神殿群2017/08/17 16:44

古代ギリシャの都市セリヌンテに残る神殿群を見る
セリヌンテ ギリシャ神殿 ヘラ神殿
          E神殿の華麗な姿

東のギリシャ神殿群
        再建されたドーリア式のヘラ神殿(E神殿)
        正面(東側)
セリヌンテ ギリシャ神殿 ヘラ神殿

        中に入って奥に向って進む
セリヌンテ ギリシャ神殿 ヘラ神殿
               犬が寝そべっている
               最奥は神像を祀る聖像安置室か

        南側の列柱群
セリヌンテ ギリシャ神殿 ヘラ神殿
 
          列柱のシルエットの向うに大空の地中海の煌めき

       奥まで進んで振り返る
セリヌンテ ギリシャ神殿 ヘラ神殿
            再建された神殿の中に入れて大満足

コットーネと呼ばれる溝を挟んで丘の上にアクロポリスがある
セリヌンテ アクロポリス

        アクロポリスの神殿群の一つC神殿
セリヌンテ アクロポリス D神殿


        カルタゴ人の住居跡
セリヌンテ アクロポリス カルタゴ人住居跡
        
          古代ギリシャ都市はカルタゴによって滅ぼされた

最後にセリヌンテギリシャ神殿の配置図
セリヌンテ遺跡 マップ
          E神殿とC神殿の位置が把握できます
        イタリア シチリア セリヌンテ (2017年2月)

シチリア・アグリジェント・コンコルディア神殿2017/06/04 15:39

ギリシャの植民都市アグリジェントに平和の女神コンコルディアを祀る神殿が建てられたのは紀元前440年だという
建物は2450年もの間一度も崩壊することなく当時の構造の原形を留めた

         神殿正面(東側)
アグリジェント・コンコルディア神殿
                 イカロスのブロンズ像が横たわる

         北側から横の形はこちら
アグリジェント・コンコルディア神殿
              内陣の壁はアーチ状に穴が開けられていう

あの大地震によってもこの神殿が崩壊しなかった理由は??

ヒントはシラクーサのオルティージャ島にある大聖堂の写真です

         シラクーサ オルティージャ島の大聖堂
シラクーサオルティージャ島の大聖堂
         大聖堂内部
シラクーサオルティージャ島の大聖堂

シラクーサの大聖堂は紀元前5世紀のアテナ神殿を利用したものです 柱と柱の間は壁で埋められ一方内陣の壁はアーチ状にくりぬかれているのが写真からでも解ります
アグリジェントのコンコルディア神殿は6世紀ビザンチン時代に教会として利用するためシラクーサの大聖堂のように改築されました 柱と柱の間を壁で埋めることで建物の強度が増して後の大地震に倒壊を免れた想像できます
壁が壊され元の神殿の姿に戻されたのは18世紀になってからです

       イタリア シチリア アグリジェント  (2017年2月19日)

西夏王国の幻影を訪ねる②額済納旗「カラホト」2016/07/28 21:38

NHKシルクロードのカラホトを見てから行きたいと願っていた
そのあこがれし「カラホト(黒水城)」へ2014年6月22日午前11時到着することができた

NHKの取材陣はエチナからラクダをしたてカラホトをめざしたが、我々は四人乗りの四輪駆動車(トヨタと三菱)を用いた

外国人観光客の入域が制限されているからなのか人影がまったくない
入場入口も無人で入場は素通りだった
エチナ旗 カラホト

入場してカラホトの西の城壁を捉えた感動の瞬間
エチナ旗 カラホト

西北角の保塞上にシンボルの仏塔が見え
        大小5基並んだラマ教の仏塔並ぶ
エチナ旗 カラホト

その保塞の外側の下に供養塔が並んだ塔林遺跡がある
エチナ旗 カラホト 塔林遺跡
NHKの取材ではこのなかの一つの供養塔からコマのような型押しの仏がこぼれ出ていると報告されていたが、コマようなものはどこにでも発見することができなかった
        泥擦擦と説明書きがある(エチナ博物館所蔵)
エチナ カラホト 供え仏


西南に続く城壁は馬面と馬面の間が最も砂に埋もれその先の角の外側に小さなモスクが見える
エチナ旗 カラホト 西の城塞
シルクロードの要衝であったカラホトにモスクがあっても不思議ではない
エチナ旗 カラホト モスク


長さ370メートルの西の城壁の真ん中に西門が口を開く いよいよここから入城する
エチナ旗  カラホト 西門

西門をカギ形に曲がって城内へ入っていく
エチナ旗  カラホト 西門内

城の中も城壁に向って砂が吹き溜まっている(西北方面)
エチナ旗  カラホト 城内西南方面

反対側も同じだ(西南方面)
エチナ旗  カラホト 西南方面

カラホトは西夏の時代に築城されたが、元代に拡張され現在の規模になった
西夏の城は東北(右下)の角の部分である
        (エチナ博物館展示)
エチナ旗 カラホト(模型)

まずはカラホトのシンボルの仏塔に向う
この仏塔は元の時代に建てられたものである
        チベット式の仏塔を見上げる
エチナ旗  カラホト 仏塔

城内の北側ではあちこちに多種多様な陶器の破片が散らばっている
エチナ旗 カラホト 陶器の破片

陶器は墳墓に陪葬されるほどの貴重な品物であるがこれが無造作に打ち捨てられているのだ
貴重な壷を持ちだすことなく人々が消えたのは何故か?明の攻撃が急であったのか??
        (エチナ博物館展示)
エチナ旗 カラホト 陶器の壺

城内には官署街、諸王住居、寺院、商業街、手工業街、住宅などが配置されていた
エチナ旗  カラホト 城内の遺跡

西夏の遺跡として明らかなものは仏塔跡だ
        (西夏仏塔)
エチナ旗 カラホト 西夏仏塔

城内を直進すると砂を被った東門がある
西門より砂の堆積が厚い
エチナ旗 カラホト 東門

東門より南方向に建物の残骸が並ぶ キャラバンサライの跡であろうか?
エチナ旗 カラホト 城内陶器の破片

門を抜け場外に出ると外側は砂の堆積が少なく厚みのある頑丈な門の造りに圧倒された
エチナ旗 カラホト 東門

カラホトで発掘された絵画としては仏頂尊勝曼荼羅、金剛亥母曼荼羅、阿弥陀来迎図などの宗教絵画が知られているが、それらは皆ロシアのエルミタージュ博物館に所蔵されている
        (銀川 寧夏博物館)
西夏 曼荼羅


2時間ほどカラホトを歩き回った 堆積した砂に足を取られても靴の中に砂が入ることはなかった 
エチナ旗 カラホト

    中国 内モンゴル自治区 エチナ旗 カラホト (2016年6月22日)

西夏王国の幻影を訪ねる①西夏王陵2016/07/09 14:42

2016年6月、西夏王国の幻影を訪ねて旅に出ました
チベット系タングート族が興した西夏王国の都は寧夏回族自治区の銀川である
銀川は黄河の恵みを受けて予想より緑の多い豊かな土地であった
西夏王国は元朝に睨まれ国史が編纂されることがなく約200年の歴史は明らかではない 幻影を訪ねるとは正に的を得た表現であるのかも知れない

まずは銀川郊外の平原に展開する西夏王の墓を訪ねた

建設当初の王陵はこのような建物が建てられて配置されていた
西夏王陵の過っての姿
いちばん手前が外城で両側に闕台や碑亭を配置
その次が月城で石獣が並び参拝者を出迎える
月城先の南門をくぐると各台と土塀で囲まれた内城に入る
内城には献殿、墓道、陵塔が配置される

では実際に王陵に足を運ぶ
小雨が落ちていたがかえって空気中の埃を落とし風景が蘇っていた
   三号陵正面
西夏王陵3号陵

外城⇒月城⇒内城へと進む

内城の奥に陵塔が鎮座する
墳墓は土饅頭形であるものが多く見られるが西夏墓はこれに楼閣をかぶせた痕跡が残されている
西夏王陵3号陵 陵台

電気自動車に乗って1号陵2号陵へ
   1号陵の闕台の右に1号陵の陵塔と2号陵の陵塔が並んで見える
西夏王陵1号陵2号陵

王陵は8基あるというが具体的にどの陵がどの王のものなのか確認されたものは少ないらしい。これも国史が編纂されなかったためなのではなかろうか

もう一つの疑問は陵塔の位置が内城の中心から左にずれている点である 左右対象の設定する空間を敢えて外したその意味は何であるのだろうか??




      中国 寧夏回族自治区 銀川 (2016年6月20日)

メキシコの空⑥ドクロ2016/03/28 15:53

死を意識する
 それが身近にだんだんなりつつある歳になった そんな私でも 髭を剃るとき歯磨きをして指で歯ぐきを点検するときなど鏡に写る自分の顔を見つめて自分のどくろを想像することは皆無である  顔⇒ドクロ⇒死を意識することが身近にはないのだ

しかし メキシコではドクロはどうであろう
街の市場や観光地の出店のほとんどでドクロの民芸品が並べられている またハロウィンの翌日から死者の日という家族で故人の霊をお迎えし偲ぶという日本でいえばお盆のようなお祭りがある 街にはドクロのコスプレを楽しむひとがあふれるとか
ドクロには死を意味するだけでなく生きることに活力を与えるなにかが古代から培われたと思わざるを得ない

①ドクロ
 神々に捧げられた生贄たちの首(しるし)
        ドクロ  (アステカ)
 
ドクロ アステカ
 
        
        ドクロの台 (アステカ)
 
ドクロの基壇 アステカ

           
         骸骨の壁(ツオンパントリ)
         新チチエン・イツァ (後期マヤ)
骸骨の壁 チチエン・イツァ

②いけにえ儀式の現場
 ①神の前で生贄の心臓を供えたチャックモール
        トルテカ
チャックモール トルテカ

        アステカ
チャックモール アステカ

        後期マヤ 新チチェン・イツァ
チャックモール 後期マヤ

      
 ③生贄を捧げられた神々
  ①太陽神を現すというドクロ
        太陽の円盤           (テオティワカン)
太陽の円盤 テオティワカン
 

  ②夜の神ジャガーと昼の神ワシ
        ジャガー(オセロトル・クアウイシカリ)(アステカ)
オセロトル・クアウイシカリ(じゃがー) アステカ
 

        ワシ(クアウトリ)          (アステカ)
クアウトリ(ワシ) アステカ

        捧げられた心臓を食べるジャガーとワシ
         ジャガーとワシの台座 (新チチェン・イツァ)
ジャガーとワシの台座 チチエン・イツァ

 

  ③地母神 コアトリクエ (アステカ)
   全身が蛇の地母神 骸骨のベルトを締め生贄の心臓から流れ落ちる血潮
コアトリクエの巨像 アステカ ミュゼ
 

  ④これも地母神?  アステカ
ドクロの神像 アステカ

 ④競技の勝利者も生贄に   (新チチェン・イツァ)
       広い球戯施設があり
球戯場 新テオティワカン

       球技は宗教儀式だった
球戯 

       その勝者は首を跳ねられた神に捧げられた
球戯場のレリーフ 後期チチエン・イツァ

       球戯場の側壁に残るレリーフ
        首から飛び散る血潮は蛇に変身する
球戯場のレリーフ 後期チチエン・イツァ

ドクロは怖いものという認識は子供の頃見た見た三日月童子や月光仮面などの映画に登場したドクロは死の恐怖と悪の象徴を植えつけた
アステカ社会で生贄となった人は死を恐れず生まれ変わりを信じて命を捧げたのであろうかあろうか??
膨大な心臓をエグリとられる生贄や首をはねられる球技メンバーは戦争の俘虜があてられたという
ドクロが死と回生を象徴するとの思いは生贄になる人の感情から発したものではなさそうだ
    メキシコ合衆国  ドクロと生贄  (2016年2月)

メキシコの空⑤農耕神ケツァルコアトル2016/03/15 15:08

アステカ神話の農耕神ケツァルコアトルはマヤではククルカンと呼ばれ
蛇の頭と鳥の羽との組み合わせた神である

蛇の頭
蛇頭ン ミュゼ

鳥の羽
(雨をもたらすケツァール鳥の尾羽)
ケツァール鳥 雨をもたらす

両者を組み合わせケツァルコアトルの姿が出来上がる
テオティワカンのケツァルコアトル
(羽はどこか??首を巻くたてがみのような形が羽にあたるのか?)
(それは水しぶきなのか??)
ケツァルコアトル ミュゼ

①テオティワカンのケツァルコアトル
 時間がなく実物は見られなかったテオティワカン神殿のケツァルコアトル
 (人類博物館のレプリカ)
 隣の丸い目の像は雨と豊穣の神トラロック
kツアルコアトルの神殿 ミュゼ

②チチェン・イツァ遺跡のククルカン
 旧チチェン・イツァで大司教の墓の階段のククルカン
大司教の墓 旧チチェン・イツァ
 

 新チチェン・イツァではカステージョのククルカン
カスティージョ 新チチェン・イツァ
 その蛇頭の部分
カステージョ 新チチェン・イツァ

 そのほか球戯場の四方に配置されたククルカン
球戯場 新チチェン・イツァ
 その胴体には羽のような模様がある(これが羽毛の部分か?)
球戯場 新チチェン・イツァ

大司教の墓とカスージョのククルカンの羽の模様はどこにどのようにあったのか見ただけでは分からない
テオティワカンのケツァルコアトルは神様という感じがするがマヤのククルカンは建物の長い部分の造作(飾り)として付けたような感じがする

③カカシュトラ遺跡の壁画に描かれたケツァルコアトル
納得がきくケツァルコアトルの姿は人類学博物館で展示されたカカシュトラ遺跡の壁画で確認できた
カカシュトラ遺跡の壁画 人類学博物館


    メキシコ合衆国 ケツァルコアトルとククルカンの姿  (2016年2月)

メキシコの空④雨の神チャーク2016/03/12 22:18

マヤ遺跡の建造物には夥しいチャークの像が掲げられている
その夥しい数から如何に雨がマヤにとって重要であったかが窺える
雨の神チャークはこのような姿であっるそうだ
雨の神チャーク
だが建物にあるチャークはこのようなものだ(国立人類博物館)
雨の神チャーク

①ウシマル遺跡のチャーク
 占い師のピラミッドのチャークは正面階段に連なっている
占い師のピラミッド ウシマル遺跡
 また頂上の神殿もチャークに見たてている
占い師のピラミッド
 尼僧院の壁のチャーク(北に位置する建物)
尼僧院 ウシマル遺跡
   同(東側の建物)
尼僧院 ウシマル遺跡
    同(西側の建物)家の屋根の上にもチャークが
尼僧院 ウシマル遺跡
 大ピラミッド頂上の神殿のチャーク
大ピラミッド神殿のチャーク

②カバー遺跡のチャーク
 仮面の神殿コズ・ポープの壁一面にチャーク像が並ぶ
コズ・ポープ カバー遺跡

 その数は全体で260体(神聖暦ツオルキンの周期と同じ))あるという
コズ・ポープ カバー遺跡

③チチェン・イツァ遺跡のチャーク
 旧チチェン・イツァの地区にある尼僧院と教会にあるチャーク像はトルテカの影響を受ける前の純粋なマヤンデザインであるそうだ
尼僧院と教会 チチェン・イツァ遺跡

風が吹くと雲を呼び大地に雨をもたらす ホラ貝は風、○は水、□は大地など図形で意味を象徴している これらを組み合わせてチャークが形どられているのだろうか
     メキシコ合衆国  マヤ遺跡   (2016年2月)

メキシコの空③ピラミッド(チチェン・イツァ)2016/03/12 09:08

白い街と言われるメリダから黄色い街のイサマルを経てマヤの遺跡チチェン・イツァへ
チチェン・イツァはマヤ文化の最高傑作と言われ美しくきれいだ
チチェン・イツァは旧と新地区に区分され有名なピレミッドのカスティージョは新チチェン・イツァの地区の中心に鎮座する

地元ガイドより説明があったマヤ文化の特徴についてまとめてみた
①山と川のない土地に興り栄える
 生活には適さない土地なのに栄えた
②数字に優れていた
 ゼロの概念が使われていた
 点と線と貝殻で数字を表わす
 20進法を用い神の横顔を数字に割り当てた
 意味ある数字は
 9(悪)・13(良い)・18(1年は18カ月)・20(1カ月は20日)・
 52(農業・神暦の還暦)・260(神暦)・365(農暦)など
③天文学が発達
 太陽・月・金星の動きから365日農業の暦や260日宗教の神暦をあみだす
 1カ月は20日×18カ月+5日(暗黒の日:7月10日~14日)=365日
 365日の農業の暦と260日の神暦の両循環は52年周期で一致をみる
 これは日本でいえば60年周期の還暦のようなもの
 ウシマル遺跡の魔法使いのピラミッドはこのように増築されたと言われている
魔法使いのピラミッド ウシマル遺跡
 どのようなタイミングで増改築工事を行ったのか?
 52年の還暦もその理由の一つになっていたと想像してもおかしくないなと思う

 暦のことをもう少し書くとする
 マヤ暦の起点は紀元前3114年8月13日である
 マヤ暦はこの起点日からの経過日数を表わす
 その周期は13バクトゥン187万2000日である
 周期の終わりが2012年12月や2015年9月などとの説が話題になった
 いずれにしても最近新たな187万2千日の周期に入っているようだ
 農作業の起点として乾期雨期で二分する土地では春分と秋分の日が重要である

チチェン・イツァのピラミッドは「ククルカンの神殿」と呼ばれるカスティージョだ
カスティージョ チチェン・イツァ
一辺が56メートル高さ24メートルのピラミッドで階段は四方向にある そして何故か北と東側の階段にククルカンが配されている
カスティージョ チチェン・イツァ
ククルカンは羽毛の生えた蛇を表わし農耕神である テオティワカン遺跡のケツァルコアトルの神殿にレリーフされたククルカンの像が見受けられるそうだ マヤ文化も独自なものではなく遠く離れたメキシコ高原などとつながっていることを物語る証である
テオティワカンではこの農耕神ククルカンのことをケツァルコアトルと呼ぶ
雨をもたらすという大きく輝いた尾を持つケツァール鳥はケツァルコアトルの使いである
ケツァール鳥 雨をもたらす

ピラミッド(カスティージョ)に隠れる数字と暦の関係
①四方の階段の数と神殿に登る1段で365段を数え太陽暦の365日と一致する
カスティージョ チチェン・イツァ

②春分と秋分の日に北階段の西面斜壁に羽のような影ができて蛇頭につながる現象が生じる
カスティージョ チチェン・イツァ
実際は日照と日没の位置を頂上神殿の東と西の窓で確認することで春分と秋分を認識したのかもしれない
写真で示す作業員がいる北西角の斜面の段々の影が北階段の西側斜壁に影を落とすためであることが納得できる
西方向からこの角の段々斜面をとおして北の階段の斜壁を見るとこの現象をシュミレーションすることができる

とにかくこの美しい正四角錐のピラミッドがたくさんの観光客を吸い寄せている
カスティージョ チチェン・イツァ
しかし四方向に階段を設けたのは何故なのか? ウシマルでは二方向でなかったか
ピラミッドの造作とマヤの数字と天体と暦そして農業の諸神の出現など私の壊れつつある脳細胞を刺激活性化してくれる

    メキシコ合衆国  チチェン・イツァ  (2016年2月25日)

メキシコの空②ピラミッド(ウシマル)2016/03/09 22:34

ユカタン州の州都メリダはスペイン占領前はテイホと呼ばれていた
このテイホから車で1時間半ほどのジャングルにウシマル遺跡がある
ウシマルはマヤ後古典期(AC900~1500年)の古代都市であった

①占い師のピラミッド
遺跡入り口の真正面にあるピラミッドが占い師のピラミッドだ
118段の急な階段が東西両方向に設けられていて高さは35メートルある
西側の階段の両側には雨神のチャークの顔が下から上まで連なっていてその上にチャークに見たてた神殿が乗っている いうまでもなくこのピラミッドは西側が正面である
ウシマル遺跡 占い師のピラミッド
裏の東側より見ると錐形の角が丸く造られていて楕円錐形をしていることがよく解る また見た目この方向から見た姿の方が正面方向より雄大に見えた
積み重ねられた石のむき出しの模様は「とうもろこし」を想像させた
ウシマル遺跡 占い師のピラミッド
階段が正面のほか裏側の方向にもある理由は何なのだろうか 裏は降りる専用の階段であったのか はたまた神事によっては東側から登ることがあったのか??

②大ピラミッド
占い師のピラミッドから尼僧院を見て球戯場跡を南に進むと高さ32メートルの大ピラミッドがある ここも占い師のピラミッドのように頂上に雨神チャークの神殿が鎮座している
ウシマル遺跡 大ピラミッド
このピラミッドは階段の幅が広いのが印象的だ なぜこんなに広くする必要があったのか?段数は64段を数えた
この方向は北方向であり占い師のピラミッドとは正面の方向が異なる ジャングルで覆われた残り3方向の姿は確認できないがもしかすると反対側(南側)にも階段があるのかも知れない

神殿の右側の角の壁にチャーク像が重ねられているが その右に太陽神の化身にあたるコンゴウインコの特徴あるレリーフを見つけることができた
ウシマル遺跡 大ピラミッド
このレリーフがあらわす鳥の形はどこかで見たような錯覚を記憶の海に呼び覚ました 

ピラミッドを登って頂上の神殿まで確認できたのは唯一ウシマルの大ピラミッドだけでした


      メキシコ合衆国  ウシマル遺跡  (2016年2月24日)



メキシコの空①ピラミッド(テオティワカン)2016/03/08 09:13

BC100~AC600年メキシコ高原に興ったテオティワカン文明、その広大な敷地の遺跡に二つの大きなピラミッドがある。これらは古代社会の祭儀と生贄の儀式の舞台であったという

①月のピラミッド
遺跡の北にあるのが月のピラミッド、底辺が168×149メートル高さ45メートルある
テオティワカン遺跡 月のピラミッド
南側に急な階段があり一番目のテラスまで登ることができる
ちなみに階段を登りながら48段を数えた
テオティワカン遺跡 月のピラミッド
一番目のテラスでなにやら儀式を行う女性のグループあり
月をたたえる踊りであるのか??
テオティワカン遺跡 月のピラミッド

これ以上登ることはできない頂上になにが祀られていたのか??

②太陽のピラミッド
月のピラミッドの広場から南側を眺望すると左手に太陽のピラミッドが見える
テオティワカン遺跡

底辺が224メートル四方、高さは64メートルあるという月のピラミッドより大きい
テラスは5段ほどあり頂上まで39+67+51+20+48段と合計約200段の階段があった
テオティワカン遺跡 太陽のピラミッド
このピラミッドの階段もとても急である 何故急なのかという答えの一説に古代人は荷物を運ぶとき背中にカゴを背負ってカゴの紐を額にかけていた その方法で物を運び上げるのにこの急な角度がちょうどよいというのだ

頂上は石がごろごろ積まれていて何があったのか不明なり
この遺跡の最高点からの眺望はすばらしい(頂上にて月のピラミッドを望む)
テオティワカン遺跡 太陽のピラミッド

頂上ではなにやら女性のグループがおまじないのポーズをとっていた
太陽のパワーを身体に取り込む儀式なのか
  女性はなんでも取り込んでしまう 強く恐ろしいものか?
テオティワカン遺跡 太陽のピラミッド

発掘によればこれらのピラミッドは増築が繰り返されだんだん規模が大きくなり現在の姿になっているという
ある周期で増設が行われていたようでありその周期の意味合いは日本でいえば伊勢神宮のような式年遷宮と同じような意味合いがあるのかもしれないと思った

AC600年テオティワカンの人々は広大な遺跡を残し忽然と姿を消してしまったという これがまだ解明されていない不思議なのである

     メキシコ合衆国 テオティワカン遺跡  (2016年2月23日)