27ふるさと春②ケロちゃんいらっしゃい!!2015/05/07 17:35

春がやってくるのがいつもより早かった
しかし我が家の水場にケロちゃんが登場したは5月に入ってからでした
もう咲き終えた沈丁花の葉っぱの上でうずくまるケロちゃんを発見
横顔がもっともかわいいね!!
鳥や蛇に食べられないように油断してはだめよ!!
27年のケロチャン

    群馬県 吾妻郡 中之条町  (2015年5月7日)

27ふるさと春③オブジェの昇華2015/05/08 09:30

2015年5月8日
最後の朝が来た
オブジェの昇華


あたりは明るくなったが来て見上げるものはいなかった
オブジェの昇華

雲だけが雨を落とそうとしていた
オブジェの昇華

この朝、息をしていた大木はこころのオブジェとして幽閉された        

           群馬県 中之条町   (2015年5月8日)


ポルトガル①天正遣欧使節の足跡が残るエボラ2015/05/15 21:21

エボラはローマ時代の城壁や神殿など遺跡が残る世界遺産に指定された街です

街の中心にあるジラルド広場
ポルトガル エボラ

ローマ時代の遺跡ディアナ神殿
ポルトガル エボラ


1385年(天正13年)天正遣欧使節が滞在したカテドラル
ポルトガル エボラ

カテドラル内陣
見上げると伊藤マンショと千々石ミゲルが演奏したと伝えられるパイプオルガンが
ポルトガル エボラ

1584年(天正12年)リスボンに上陸した天正遣欧使節はフェリベ2世に謁見して翌年この町を経由してローマに向いました。それから430年の時間を経て日本人としての自分がこの町に到着することができたことに心躍りました
      ポルトガル共和国 エボラ  (2015年3月)

ポルトガル②雨のリスボン2015/05/17 10:28

ユーラシア大陸の最西端の国ポルトガル共和国
大航海時代の先陣をきった国の首都リスボン
起伏の多い港町は雨に濡れていた

テージョ川の河畔に立つ 河畔というよりは河口というか
リスボン湾といってもよいここはそんな地形だ
15世紀末この地からインド航路に旅立ったバスコ・ダ・ガマはカリカットへ到達した
リスボン テージョ川

リスボン港を守る要塞ベレンの塔が建造された16世紀
ポルトガルの勢力はゴア、マラッカ、セイロン、マカオと伸長した
リスボン ベレンの塔

パトロンとして海洋探検の援助・支援したエンリケ王子の没500年後
船出の地に大航海時代を称えるモニュメントが建てられた
リスボン 発見のモニュメント

インド航路を伸長してポルトガル人が種子島に漂着して鉄砲を伝えたのは
天文12(1543)年と日本史で学んだ
リスボンの発見のモニュメントの前の広場に描かれた世界地図では
日本到達は1541年と記されている
リスボン 発見のモニュメント

漂着したポルトガル人はポルトガルの船ではなく中国人の頭目が操る
倭寇船に乗っていたとのことである
2年の記述の差の理由を追及することはしないが、もしポルトガル船で漂着したならば
ポルトガル人は鉄砲を種子島人に教えたであろうか?中国人が間に入ったことで
言葉の障壁も取り払われ種子島人は鉄砲を手に入れることができたのではなかろうか
その後のフランシスコ・ザビエル(イスパニア)、ルイス・フロイス(ポルトガル)など
によるキリスト教の伝道より早く鉄砲が伝来したこと
我々の先人がその価値を認め兵器として強兵を計ったこと
日本が先進諸国の植民地に落とされなかったひとつの理由であったと思う


バスコ・ダ・ガマの遠征で得た富を費やして建造されたマヌエル様式の
ジェロニモス修道院にはバスコ・ダ・ガマと詩人カモンェスの石棺が祀られている
リスボン ジェロニモス修道院

ベレン地区からバイシャ地区へ移動する
小雨のなかバイシャ地区を散歩する

コメルシオ広場に立つ
大西洋にそそぐテージョ川は海のように広かった
ポルトガル リスボン

コメルシオ広場から歩行者優先のアウグスタ通りを歩く
土産物屋に入りポルトガルと刺繍の入ったキャップを買った
(なぜならロカ岬で日本から被っていったキャップが風で飛ばされたためだ)
バイロ・アルト地区の丘に昇るサンタ・ジュスタのエレベータは工事をしていた
ポルトガル リスボン

アウグスタ通りはロシオ広場(ペドロ4世広場)に突き当る
銅像に噴水は西洋の広場の必需のオブジェだ
地面の波模様は大航海時代を誇示しているように大きくうねっている
ポルトガル リスボン

模様を形つくる敷き石は大きさがまちまちだ
先程までの降雨により水溜りができる
なぜか鳩が集まる
ポルトガル リスボン

グロリア線のケーブルカーでサン・ペドロ・デ・アルカンタラ展望台へ昇る
乗客のほとんどは観光客だった
(写真はグロリア線でなくビカのケーブルカーだ)
ポルトガル リスボン

サン・ペドロ・デ・アルカンタラ展望台のリスボンの展望
ポルトガル リスボン

サン・ジョルジェ城やカテドラルまで歩く予定であったが・・・
リスボン アルカンタラ展望台

展望台よりサン・ペドロ・デ・アルカンタラ通りを下ると
天正12年(1585)天正遣欧使節が滞在したサン・ロケ教会がある
ポルトガル リスボン

サン・ロケ教会の内陣
雛段飾りの使徒群像は珍しいのでパチリ
ポルトガル リスボン

さらに通りを下るとカモンイス広場がある
その先のガレット通りの道端でフェルナンド・ペソアが椅子に坐る
リスボン カモンイス広場

旅行ガイドにあったブラジレイラというカフェでひと休み
地下のトイレでは鍵番の姉さんとひともんちゃくあり
ジェスチャーでなんとか事が通じて鍵をあけてもらった
ポルトガル リスボン

ガレット通りをくだるとアルマゼン・ド・シアードというショッピングセンタがある
エスカレータを使えば楽にバイシャ地区まで下ることができる
空きスペースには芸術作品も展示されている
リスボン ショッピングセンターの展示作品

フィゲラ広場から12番のトラムに乗ってカテドラルやサン・ジョルジュ城まで
足を伸ばそうとしたが夕闇が迫り雨足が強まったことから断念せざるを得なかった
カモメ線に飛び乗ってホテルまで帰った
(ああ 変わりばいのない体験記なってしまった)

ポルトガルの建築・芸術様式でマヌエル様式というもの
それは海藻やロープ、鎖、貝殻、天球儀などが装飾のデザインに取り入れられたもので
ジェロニモス修道院で確認できた
リスボン マヌエル様式

もうひとつはエッグ・タルトの店で見たアズレージョという装飾タイルだ
リスボン アズレージョ

リスボンの町の十分とは言えない散歩体験でした


  ポルトガル共和国  リスボン  (2015年3月)

てくてく伊吹山1377メートル2015/05/24 20:40

伊吹山は関西方面へ出張や旅行で新幹線や観光バスの車窓から度々眺め
いつかはこの頂きに登ってみたいと思っていた
こっち方面でもうひとつ北陸の白山も同じ思いがある
体力的にみてそろそろ急登のある山行きは限界が近いと感じ
涼しいこの時期に挑戦することにした

天気予報通り現地の夜は大雨だった
登山できるか心配したが朝になったら雲や霧が深く立ち込めていたが
雨があがったので予定通り決行した

         伊吹山 案内図
ibukiyama

6時00分  伊吹山登山口
ibukiyama

6時45分  一合目
       標高420メートル
伊吹山 二合目

7時10分  二合目
       一合目から笹を刈った道を登る
       霧が晴れてきて麓の景色も浮かんで見えた
伊吹山 一合目~二合目

7時55分  三合目
       標高720メートル
       ここまでで約2時間を費やす 思ったよりきつかった
       標高が高くなるにつれ霧が立ちこめ小雨が混じる
       天気が悪化 いちど脱いだ雨着を再度着る
伊吹山 三合目

               オドリコソウ
伊吹山 三合目

8時15分  四合目
       標高は800メートル

8時35分  五合目
       五合目の手前の山小屋で相棒が脱落 小屋前のベンチで待機
       吾は単独頂上をめざす
伊吹山 五合目

       スズシロソウ
伊吹山 五合目~六合目

9時05分  六合目
       五合目を過ぎると傾斜がきつくなる
       じくざくのガレ道を黙々と登る
       右手に避難小屋を確認 乳白色の霧は依然晴れない
伊吹山 六合目

        見通しの悪い山行は足元の花だけがなぐさめだ
        ヤマガラシ
伊吹山 六合目~七合目

9時25分  七合目
       標高1000メートルを超える
       霧に加え風が出てきた ポンチョの裾が風で舞い上がり
       足元が見えず危険だ
       ミヤマスミレ
伊吹山 七合目~八合目

       ウマノアシガタ
伊吹山 七合目~八合目 ウマノアシガタ

9時45分  八合目
       標高1,220メートル 
       霧雨が入り込みシャツもパンツが濡れてしまった
       小休憩するとかえって身体が重くなり動きが鈍った
       岩場が多く急登の登山道はとても滑りやすく危険だ
       ゆるんだ土道で危うく足元が滑りそうになり滑落の危険を感じた
       慎重に足場を確かめ登って行く(下山はもっと注意しないと)

10時15分 九合目
       標高1,300メートル
       あと10分で頂上との案内に気持ちがホッとする
伊吹山  九合目

10時25分 山頂到着
       霧と強風の山頂に到着 観光客はひとりも居なかった
       どの店も閉まっているしベンチも雨で濡れていたので
       食事をとることも出来ない
       衣類は濡れてしまったがポンチョで風を防げたので
       寒さは感じなかった

       お花畑
       案内板だけで存在を想像
伊吹山 山頂 お花畑

 
       日本武尊の像
伊吹山 山頂

       弥勒堂
       祠が二基あり各々弥勒菩薩が祀られている
伊吹山 弥勒堂

       南の弥勒堂 弥勒坐像
伊吹山 弥勒像

       一等三角点
       標高1,377メートル
       明治18年設置とあり
       設置後130年も経ているのかと驚いた
伊吹山 一等三角点

お花畑の見物は案内板で
10時55分 山 頂 下山開始
       ポンチョでは足元が不安なのでヤッケに着替え下山

11時00分 九合目

11時22分 八合目
       ようやく霧が晴れてきた
       雲間から琵琶湖が見える
伊吹山 八合目~七合目

11時42分 七合目

11時55分 六合目
       ヤマガラシの群生
       もう少し下れば相棒が待つ山小屋だ
伊吹山 六合目

12時10分 五合目(昼食・休憩20分)
       待機していた相棒と合流し昼食をとる

12時46分 四合目
12時55分 三合目
13時35分 二合目
       麓の田植えの終わった水田が美しい
伊吹山 二合目~一合目

       小鳥の囀りも聞く余裕が出来た
       ホオジロ
伊吹山 二合目~一合目

13時55分 一合目
       最後の一合目~登山口のジグザク石ころ道の下山はきつかった

14時30分 登山口
       麓の県道から山頂を見上げるとようやく雲が飛び行き
       山頂の山容をようやく確認できた
伊吹山
 

曇天で頂上からの眺望は望めなかったが強い日差しや暑さに悩まされることはなかった
名高いお花畑を鑑賞するには時期的に早すぎたそして悪天候
このためこの日行きあえた登山者は約30人と少なかった
その内自分より年上のひとは居なかったと思う
コースタイム6時間20分のところ2時間オーバの8時間30分の時間を
要してしまった でも頂上を極め大変満足している

     日本  百名山   伊吹山   (2015年5月19日)

英霊殿の桜樹齢の推測2015/05/30 09:45

英霊殿の桜の大木の樹齢について検討した
北西方向に二本の桜の古木が残っていた

最後の雄姿
英霊殿 樹齢の推測

切り株はこのような形となった
英霊殿 桜の切り株

年輪を数えようとしたがなかなか難しかった
英霊殿 桜の切り株(年輪)

大胆に年輪を数えると樹齢は多くて約150年位ではないかと考えた

町史から神社についての記述を拾ってみた

当町は市場の街として発展した
天正の頃、市場の神である天王様を祀った
当町が長岡にあった文禄4年(1595年)ごろ
天王様は長岡宿の中央に天王塚に祀られていた
この頃真田昌幸が社殿を寄進したとのことである

その後、寛永2年(1625年)街が長岡から現在の場所王子原に移転
天王様は上ノ町に安置された
       市が立つ町の街道には天王石が置かれている
       上ノ町にはこの天王石が今でも祀り残されている
寛永年間、真田家最後となった殿様真田信澄によって神殿を再建した
弘化元年(1844年)4月火災により社殿、古記録焼失
嘉永4年(1851年)4月再建
       社殿は覆殿により守られている
       2年に一度の大国魂神社の例大祭のときに戸が開かれ
       社殿を直接拝むことができる
       社殿の造りは19世紀の様式である
       再建の時にこの社殿は造られた可能性がある
(町の重要文化財に指定されている)
英霊殿 社殿

       檜造りの社殿には細密な彫刻が施されている
英霊殿 社殿 正面

       闘鶏の場面であろうか社殿の側面も隙間なく彫刻されている
英霊殿 社殿側面彫刻

明治時代は須賀神社、八坂社、中条明神となされ
明治42年(1909年)4月15日 須賀神社は村社伊勢宮に合併した
現在市場の神天王様は伊勢宮に祀られ町では毎年祇園祭が挙行され
祇園信仰が引き継がれている

明治42年以降この祠は大国魂神社となり英霊殿とも呼ばれている
英霊殿 大国魂神社

      現在の鳥居から見た神社境内
英霊殿 大国魂神社

時間の経過
嘉永4年(社殿が再建)より165年が経過
明治元年(明治維新)より150年が経過
明治42年(伊勢宮に合併)より106年が経過

年輪が150年分認められるとすると桜は嘉永4年の再建時に植樹されたと推測することもできないことはない
その頃、幕末期にソメイヨシノなる苗木を植えることが可能であったのか??
また、神社の境内に桜を植えることはどういう意味があるのであるか??
須賀神社やその後の大国魂神社の古文書などに桜植樹に関する記録があるのか??

または、大国魂神社奉る時106年前に植樹したものなのか??

ここでは嘉永4年4月再建時の植樹したとして想定して置きたい


     群馬県 中之条町  英霊殿の桜樹齢  (2015年5月30日)