私のベルリン①オリンピアスタディオン ― 2014/09/02 21:59
私のベルリン②連邦議会議事堂 ― 2014/09/03 21:24
私のベルリン③ベーベル広場 ― 2014/09/04 22:33
私のベルリン④ポツダム広場 ― 2014/09/05 14:29
ポツダム広場のソニーセンターの広場で一休み
日曜日なので大変な人出だ
日曜日なので大変な人出だ
何処にでも見かける店のカウンターでカフェラテと揚げパンを注文
女房から持たされたビスケットもリュックから取り出してつまむ

この広場の近くにヘルベルト・フォン・カラヤン通りがある
そこまで足を延ばし200番のバスに乗ることにした
今のひとにカラヤンと話しても通じないかも知れないが
若い時音楽にさほど興味があったわけではない私がカラヤンが指揮したということで
レコードを買ったのであるから当時日本でも相当有名であった指揮者なのだ
ヘルベルト・フォン・カラヤン指揮
演奏ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団
曲目チャイコフスキーの交響曲第六番ロ短調「悲愴」
1964年2月11~12日にベルリン イエス・キリスト教会で録音
雨が上がったばかりのフィルハーモニーの建物の前でこのレコードを録音してきた
ICレコーダのイヤホンを耳にあてた
当時「悲愴」を好んで聞いた記憶がベルリンの地で甦った
ドイツ連邦共和国 ベルリン (2014年8月24日)
若い時音楽にさほど興味があったわけではない私がカラヤンが指揮したということで
レコードを買ったのであるから当時日本でも相当有名であった指揮者なのだ
ヘルベルト・フォン・カラヤン指揮
演奏ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団
曲目チャイコフスキーの交響曲第六番ロ短調「悲愴」
1964年2月11~12日にベルリン イエス・キリスト教会で録音
雨が上がったばかりのフィルハーモニーの建物の前でこのレコードを録音してきた
ICレコーダのイヤホンを耳にあてた
当時「悲愴」を好んで聞いた記憶がベルリンの地で甦った
ドイツ連邦共和国 ベルリン (2014年8月24日)
私のベルリン⑤ノイエ・ヴァッヘ(新衛兵所) ― 2014/09/06 10:49
ベーベル広場を出てウンター・デン・リンデンの通りを越えたところに
1818年に建てられたノイエ・ヴァッヘがある
やがて衛兵所は世界大戦戦没者慰霊館として改築され
戦後「ファシズムと軍国主義の犠牲者慰霊館」して使用され
現在では「ドイツ連邦共和国中央慰霊館」として
ファシズムと暴力支配の犠牲者に対する記憶と追悼の場となっている
1818年に建てられたノイエ・ヴァッヘがある
やがて衛兵所は世界大戦戦没者慰霊館として改築され
戦後「ファシズムと軍国主義の犠牲者慰霊館」して使用され
現在では「ドイツ連邦共和国中央慰霊館」として
ファシズムと暴力支配の犠牲者に対する記憶と追悼の場となっている
壁に掲げた碑文を訳文のまま以下に記す
ノイエ・ヴァッヘは
戦争と暴力支配の犠牲者に対する
記憶と追悼の場である
我々は
戦争で苦しんだ各民族に思いをいたす
我々は、そうした民族の一員で
迫害され命を失った人々に思いをいたす
我々は、世界大戦の戦没者たちに思いをいたす
我々は、戦争と戦争の結果により
故郷で、捕われの身で、また追放の身で
それぞれの命を落とした罪なき人々に思いをいたす
我々は殺害された何百万ものユダヤの人々に思いをいたす
我々は殺害されたシンテイ・ロマの人々に思いをいたす
我々は、その出自、その同性愛、その病や弱さゆえに
それぞれ殺されていった全ての人々に思いをいたす
我々は生きる権利を否定され殺害された全ての人々に思いをいたす
我々は、宗教や政治的信念ゆえに
命を落とさなければならなかった人々に思いをいたす
我々は暴力支配に抵抗し命を犠牲にした
女性たちや男性たちに思いをいたす
我々は自らの良心を曲げるより死を受け入れた全ての人々の栄誉を讃える
我々は、1945年以降の全体主義独裁に逆らったために
迫害され殺害された女性たちや男性たちに思いをいたす
広間の中央で「死んだ息子を抱く母」が深い悲しみの行方に呆然としている
私は私の心のなかで止まることのない碑文のマニグルマを回しつづけていた
ドイツ連邦共和国 ベルリン (2014年8月24日)
ドイツ連邦共和国 ベルリン (2014年8月24日)
てくてく苗場山2145メートル ― 2014/09/09 19:08
この山は年齢的に限界ではないかと思いつつ
苗場山祓川コースに挑戦!!
自宅を4時に出て駐車場に6時前に到着 準備
苗場山祓川コースに挑戦!!
自宅を4時に出て駐車場に6時前に到着 準備
6時35分 登山口 出発
登山道は途中から和田小屋への車道と合流

7時00分 和田小屋(5合目)
登山開始
ガイドには山頂まで4時間とあるが我々の目標はプラス1時間の
5時間 12時の到着とした
登山道の両側には濃い紫のりんどうが頂上まで途切れることなく
咲いていて登りの疲れを癒してくれた(りんどうの登山道だ)
7時45分 6合目
登山道がこんなに石ころだらけであると現地で知った
思ったよりハードな登山道だった
8時28分 下ノ芝
1時間半でようやく下ノ芝到着 一息入れる
9時20分 中ノ芝
所々木道が整備されていて助かった 添付されていたプレートを見ると
年々計画的に敷設整備しているのがわかる
全然木道がなく石くれだけの登山道であれば我々はとても頂上まで到達できない
登山道がこんなに石ころだらけであると現地で知った
思ったよりハードな登山道だった
8時28分 下ノ芝
1時間半でようやく下ノ芝到着 一息入れる
9時20分 中ノ芝
所々木道が整備されていて助かった 添付されていたプレートを見ると
年々計画的に敷設整備しているのがわかる
全然木道がなく石くれだけの登山道であれば我々はとても頂上まで到達できない

9時40分 上ノ芝
木道がなく石くれだけの道であればとても頂上まで登れそうにない
9時55分 小松原分岐
小松原湿原への分岐だ
ここからややなだらかな道になる
9時59分 股スリ岩
約3メートルの岩場の段差
10時12分 神楽ケ峰(8合目)
ようやく神楽ケ峰まで到着
ここから一度下ってからまた登って行かなければならない
体力的にここで引き帰すかそれとも山頂を目指すか判断のポイント
パートナーに体調と登頂意志の確認 登頂決定
10時36分 富士見坂
下りに入り間もなく私の足がつった
以後足を労わりながら苦しい山行きがつづいた
10時46分 雷清水
ボトルの水の消費が早いので帰りが不安
清水が流れていることを確認
10時55分 お花畑
11時06分 9合目
道脇の可憐な花に元気付けられながら最後の急登に挑む
下りに入り間もなく私の足がつった
以後足を労わりながら苦しい山行きがつづいた
10時46分 雷清水
ボトルの水の消費が早いので帰りが不安
清水が流れていることを確認
10時55分 お花畑
11時06分 9合目
道脇の可憐な花に元気付けられながら最後の急登に挑む
11時23分 雲尾坂
パートナーも強い登頂意欲を維持し急登を克服
霧が流れたなびく平原に到着
池塘を眺めながら頂上を目指し木道を歩く
12時04分 苗場山山頂 2145メートル
計画通り5時間で頂上に到着 ひと安心して昼食休憩
12時30分 山頂 出発
私の足がつる問題とパートナーの脚力の問題などで
ひとつ故障が起こればアウトだ
帰りの不安が頭いっぱい広がる
下山目標時間を登りと同じ5時間に設定
まずは小松原分岐を目差して強風のなか出発
一歩一歩慎重に急峻な崖道を下る
13時32分 お花畑
ひとまず急な崖道を下り鞍部のお花畑に1時間で到着
登行程ではりんどうしか目に付かなかった紫の花が
ここだけがトリカブトだったのでドキッ
13時47分 雷清水
いつもより喉が渇いてボトルの水が空になっていた
ここで水を補給できて助かった
14時29分 神楽ケ峰
14時46分 小松原分岐
なんとか足を庇いながらお花畑から1時間で登りきった
頂上出発からほぼ登り時間と同じ2時間ちょっとで到着できた
15時05分 上ノ芝
さああと2時間30分で何事もなく下りられるか
道端の花も黄色の危険信号
15時27分 中ノ芝
急激にパートナーのペースが落ちる
疲労が溜まった下山時にいつもおこる問題だ
16時25分 下ノ芝
若い夫婦に追い残されもう我々が最後の登山者になってしまった
なんとか明るいうちに1時間半で和田小屋まで到着しなければ
故障したらアウト 時間を気にしないでゆっくり下りるのだと
再三励ます
18時00分 和田小屋
下ノ芝から考えた1時間半で下りられた
なんとか明るいうちに和田小屋へ到着
明るいうち到着できてほっとしたらスリップして地面にころり
視線は空に あっ十五夜の月が昇っていた
18時40分 登山口 到着
足を引きずりながら月明かりの車道を下り登山口に到着
帰宅できたのは21時すぎとなりました
今回は結婚40周年の山行として計画し実行しました
石ころだらけのきつい登山道であることに事前の認識が不足
全行程10時間を超える山計画は我々にとってそもそも無謀
自分の足の不安やパートナーの脚力の不安など
山頂で一泊して2日の計画で実行すべきでした
地元の方々の計らいで木道が敷設されていたこと
また天気の崩れがなかったことが幸いしました 感謝 反省!!
新潟県 苗場山 祓川コース (2014年9月7日)
私のペルリン⑥ホロコースト記念碑 ― 2014/09/10 16:16
ブランデンブルグ門で観光マップを開いて場所を確認する
マップにホロコースト・メモリアルとある
インフォメーションセンターのパンフレットでは
「虐殺されたヨーロッパのユダヤ人のための記念碑」となっている
インフォメーションセンターは月曜日が休みだ
マップにホロコースト・メモリアルとある
インフォメーションセンターのパンフレットでは
「虐殺されたヨーロッパのユダヤ人のための記念碑」となっている
インフォメーションセンターは月曜日が休みだ
縦2.38メートル横0.95メートル高さ0から4.5メートルとまちまち
コンクリートブロック2711個が並べられている
2711という数字は何を現しているのか
ヨーロッパ中のホロコーストの現場が2711か所あったということなのか
また並べられたブロック群が作る形は何の表現なのだろうか
コンクリートブロックは地面の傾斜を無視して垂直に立っている
地面は時代の悲惨なうねりを現すかのように波打っている
グレーのブロックの壁とうねったタイルの地面に落とす影は
犠牲者の止めることのできない呼吸のようだ
ヨーロッパ中のホロコーストの現場が2711か所あったということなのか
また並べられたブロック群が作る形は何の表現なのだろうか
コンクリートブロックは地面の傾斜を無視して垂直に立っている
地面は時代の悲惨なうねりを現すかのように波打っている
グレーのブロックの壁とうねったタイルの地面に落とす影は
犠牲者の止めることのできない呼吸のようだ
虐殺されたヨーロッパのユダヤ人のための記念碑に
慰霊碑とことばを加えたい
ドイツ連邦共和国 ベルリン (2014年8月25日)
私のベルリン⑦トポグラフィー・デス・テロリス ― 2014/09/13 04:45
ポツダム広場からベルリンの壁があった通りを下り
三叉路を左に折れたとニダーヤルヒナー通りにはまだ壁が続いて残っている
この壁が続く場所は秘密国家警察があったところだ
いまここには「トポグラフィー・デス・テロリス」という記念館がある
三叉路を左に折れたとニダーヤルヒナー通りにはまだ壁が続いて残っている
この壁が続く場所は秘密国家警察があったところだ
いまここには「トポグラフィー・デス・テロリス」という記念館がある
「暴力の地勢図」とでも読めばよいのか
「暴力組織の巣」と解釈すればよいのか
地勢図の真ん中にメインの四角のドーナツ形の展示場が建てられ
ナチのテロがパネル展示されている
壁にそって一段掘り下げた堀に長い屋外の常設展示がある
1933~1945年
Headquarter SA突撃隊 SS親衛隊 Gestapo秘密国家警察
1939年~
Reich Security Main Office
ドイツ連邦共和国 ベルリン (2014年8月24日)
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