とある温泉(群馬県) ― 2020/12/02 16:32
とある温泉(群馬県) ― 2020/11/18 16:01
とある温泉(福島県) ― 2020/11/05 16:39
とある温泉(新潟) ― 2020/10/31 20:28
碓氷郡 霧積温泉 ― 2020/08/21 16:43
東京に住んでいた頃の昭和46年の話から始める.
その頃 詩人や画家を目指した友がいた.
彼は碓氷郡出身の男性でペンネームが「碓氷久幸」であった.
私と彼は新宿の詩学の会の例会に通ったことがあった。
嵯峨信之氏や石原吉郎氏など現代詩人を代表する先生方が主催していた。
萩原朔太郎や室生犀星、立原道造、石川啄木などを読んでいた私にとって
現代詩を詠むのには未熟過ぎたと言える。
彼は「浄土」という詩集を自費出版した。
私はその詩集の巻頭に「君の詩を読むと妙義の山から流れ出る碓氷川を思い出さずにはいられない。僕はその流れの清い旋律に心うたれる。(1971.9.12)」と記した。
私と彼は詩学の会をぬけた
彼は会社も辞め画家をめざしウラジオストックからシベリア鉄道でパリへ向った。ローマから届いた一通の絵葉書が最後の音信となった。千葉で暮しているとの風の便りに聞いたことがあるが、その後彼の消息は不明である。
霧積温泉の名前を初めて聴いたのは碓氷久幸君からであるから昭和46年頃ではないかと思っている。その後人間の証明で脚光をあびた頃、霧積に行ってみたいとの思いが高まった。その頃は群馬県碓氷郡松井田町坂本という地名であったのではなかろうか?平成の合併により碓氷郡の地名が消滅して今は群馬県安中市坂本である。明治の昔繁盛した上野国碓氷郡(ごおり)碓氷温泉のUSUIGORI(碓氷郡)の地名は奪われているのだ。
中山道17番目の宿場 坂本宿から国道を離れ県道を霧積川を遡ると終点に金湯館の駐車場がある。そこは霧積館のあった場所である。霧積館のあった場所には建物はなく熊野神社と鼻曲山への道標が残るのみである。
その頃 詩人や画家を目指した友がいた.
彼は碓氷郡出身の男性でペンネームが「碓氷久幸」であった.
私と彼は新宿の詩学の会の例会に通ったことがあった。
嵯峨信之氏や石原吉郎氏など現代詩人を代表する先生方が主催していた。
萩原朔太郎や室生犀星、立原道造、石川啄木などを読んでいた私にとって
現代詩を詠むのには未熟過ぎたと言える。
彼は「浄土」という詩集を自費出版した。
私はその詩集の巻頭に「君の詩を読むと妙義の山から流れ出る碓氷川を思い出さずにはいられない。僕はその流れの清い旋律に心うたれる。(1971.9.12)」と記した。
私と彼は詩学の会をぬけた
彼は会社も辞め画家をめざしウラジオストックからシベリア鉄道でパリへ向った。ローマから届いた一通の絵葉書が最後の音信となった。千葉で暮しているとの風の便りに聞いたことがあるが、その後彼の消息は不明である。
霧積温泉の名前を初めて聴いたのは碓氷久幸君からであるから昭和46年頃ではないかと思っている。その後人間の証明で脚光をあびた頃、霧積に行ってみたいとの思いが高まった。その頃は群馬県碓氷郡松井田町坂本という地名であったのではなかろうか?平成の合併により碓氷郡の地名が消滅して今は群馬県安中市坂本である。明治の昔繁盛した上野国碓氷郡(ごおり)碓氷温泉のUSUIGORI(碓氷郡)の地名は奪われているのだ。
中山道17番目の宿場 坂本宿から国道を離れ県道を霧積川を遡ると終点に金湯館の駐車場がある。そこは霧積館のあった場所である。霧積館のあった場所には建物はなく熊野神社と鼻曲山への道標が残るのみである。

駐車場からホイホイ坂を登ると一軒宿の金湯館に辿り着くが、あらかじめ若女将のメールでの案内に従い県道に入る地点で電話をかけ迎えの車を依頼した。駐車場に到着するより早くマスクをした若旦那がワゴン車で迎えに到着していた。

ここから送迎車は右に左にカーヴしながら専用の林道をあえぎながら谷を登っていく。車窓から谷間を眺めると谷は深く怖さを起させた。帽子を渓谷に落とすことなくようやく車は道端に停まった。車を降り渓谷を見下ろすと朱色の屋根の旅館の建物が見えた。覚束ない足取りでくの字に坂を下ると朱に塗った木橋を渡ると金湯館の玄関である。
玄関でスリッパに履き替える。秘湯の温泉場らしい玄関である。帳場で若女将が「お風呂が近い部屋がいいですか、トイレが近い方がいいですか?」と女房に訊いた。女房は困ったような顔をして僕に回答を託した。「おまえさんの古稀の記念に泊りにきたのに自分で決めれば」と心の中でころに思ったが「お風呂の近い方にお願いします。」と声をやや荒げて応答した。
南棟の一階の南側の角部屋に案内された。部屋に妙義山を描いた油絵が飾ってあり窓から水車が見えた。水車は15秒間水をためるとコトっと一言音をたててぐるりと一回転を繰り返していた。
南棟の一階の南側の角部屋に案内された。部屋に妙義山を描いた油絵が飾ってあり窓から水車が見えた。水車は15秒間水をためるとコトっと一言音をたててぐるりと一回転を繰り返していた。
玄関を出て庭を散策する。
霧積川の渓流れは急である。渓流の底の固い地盤が浸食を防ぎ旅館を守っているように思えた。長い樋は渓流の水を流している。樋は水車まで敷かれていて何がしかに利用された水は終いには水車を回して渓流に戻っていくのだ。
玄関脇に石碑がひっそりと立っている。勝海舟揮毫の書の石碑であるという。明治20年頃、即ち上野国北碓氷郡碓氷温泉の時代、皮膚病で湯治に来ていた勝海舟が矢島揖子の依頼により筆を執ったという。内容は聖書の一節であるようだ。
我があたふる水を飲む者は永
遠かわく事なし且わが予ふる
水は其中にて泉となり湧出て
永生に至るべし 約翰伝四章十四節
西条八十の「麦わら帽子」の詩と森村誠一の「人間の照明」もここの温泉とのかかわりがより有名である。玄関の広間のパネルで西条八十と森村誠一が大きく紹介されているが、私にとって玄関の表から見えた麦わら帽子が象徴的であった。
源泉かけ流しの風呂に入る。
地名は霧積温泉、源泉名は入之湯という。泉温は38.9℃。
私はゆったりと湯につかり日常の疲れをとる。やがて肌にサイダーの泡粒のような泡が無数に付く。掌で肌を擦ると泡粒は皮膚を離れ湯面に浮かび音を立てて消える。これを繰り返して子供のような気分を味わった。
風呂からあがり夕食までの時間木の長椅子に腰を下ろし、長椅子で休んでいた大女将と話を交わした。電気や電話がなかったときの話、ふいにたくさんの客が来て廊下でも良いとそのようにして山小屋のようであったこと、湯治客のお話、一代で終いになった霧積館の話など霧積ことを拝聴することができた。
部屋食の夕食は心がこもっていてとても美味しかった。
夕食後まだ外は明るかった。谷間に静かに白い霧が降り積もってきた。
唐 十郎はこの宿に「湯煙りの中に消ちまいたい・・・」と色紙を残している。
私は「湯煙りと霧の中に消えちまいたい・・・・」と洒落て心の中に色紙を書き置いた。
消息不明の碓氷の詩人碓氷久幸のこと、消えちまった碓氷郡(USUIGORI)のこと、森林と渓谷の霧積のこと、若夫婦に引き継がれていく秘湯金湯館のこと、古稀に至った女房への思いなど様々な思いを思った霧積であった。
湯につかりながら二度上峠から鼻曲山に登り霧積に下り金湯館に泊るとの考えが浮かんだ。しかし古稀を過ぎた二人の体力では実行は無理であろう。しかし折を見て二人で鼻曲山まで登り山頂から碓氷を眺めて見たいとの思いが現実味を帯びた。
写真:令和2年7月23日撮影
群馬県 安中市 霧積温泉 (令和2年8月21日)
肘折のお地蔵さまたち ― 2019/07/20 11:15
肘折温泉とお地蔵さま
地蔵権現さまが崖から落ちて肘を折った際に岩から湧き出る温泉を発見しその湯に肘をつけたところ傷がたちまち治ったという言い伝えが肘折温泉の由来となっている
地蔵権現さまが崖から落ちて肘を折った際に岩から湧き出る温泉を発見しその湯に肘をつけたところ傷がたちまち治ったという言い伝えが肘折温泉の由来となっている
地蔵権現さまとは地蔵菩薩のことなのかそれとは別物なのか分からないのでここではお地蔵さま又は地蔵と記すこととします。
私の六道輪廻の苦しみをやわらげすくい取ってもらうため、上の湯~薬師神社~遊歩道~茂吉歌碑~一本松~地蔵倉~一本松~茂吉歌碑~遊歩道~源泉公園と肘折を右回りで一周しました。
上の湯からタート
数珠を架け合掌しているお地蔵さま
湯で身を清めてから回って来なさい
数珠を架け合掌しているお地蔵さま
湯で身を清めてから回って来なさい
薬師神社の参道が遊歩道の入口
数珠を輪にしてシッカと握るお地蔵さま
何事にも円満にあたる心掛けが大切なのじゃ
杉林のなかの急な遊歩道
金剛杵を持つお地蔵さま
このさき魔物が出ても守ってさしあげよう
ひしゃくを持つお地蔵さま
のどが渇いたであろう、さあ一口どうじゃ
遊歩道
ブナ林です

水瓶を抱くお地蔵さま
あなたの穢れを清めましょう
茂吉歌碑のまえ
お経?を掌にのせるお地蔵さま
しずかに念仏を唱えてあげよう
宝珠と錫杖を持つお地蔵さま(標準の地蔵菩薩の姿)
あなたのあらゆる願いをかなえてあげよう
子育て地蔵
蓮華の花を携えるお地蔵さま
きよらかなこころで甦りが全ての喜びの根源であることを悟りなさい
地蔵倉
腹かけをかけて並ぶお地蔵さまたち
六道輪廻の苦しみを私たちが吸い取りましょう
遊歩道(源泉公園へと下る)

子どもを抱くお地蔵さま
子どもはなにものにも代えられない宝だと大切にしなさい
笠を被り艪をこぐ?船頭姿のお地蔵さま
行き手をふさぐ銅山川をお船を漕いで船で渡してあげましょう
宝珠と錫杖をつくお地蔵さま
願いはかなえられましたか?最後の願いをかなえてあげます
王冠を被り合掌するお地蔵さま
いつでもあなたの頭上に希望の光が輝くように祈ります
遊歩道最後の地蔵
数珠を挟み合掌するお地蔵さま
あなたの穢れは消えました
あなたの行く末を見守ってまいります
遊歩道の終点
源泉公園 肘折ダム

お地蔵さまに守られてひとまわり出来ました。このまあるい道筋の中心には誰が出現するのか?いつか弥勒菩薩が出現するのであろうか?
お地蔵さまはお堂にも入らず、野ざらしに立って我々を見守ってくれる身近な有り難いほとけさまだなと、あらためて感心しました。
山形県 最上郡 大蔵村 肘折 (2019年6月30日~7月3日)
肘折十景 ― 2019/07/16 20:29
湯村温泉 夢千代像(令和元年5月13日) ― 2019/05/28 18:57
夢千代日記のテレビドラマは今でも鮮明に記憶として残っている
春来川を見下ろす夢千代像は色褪せてきたが私の記憶の中では褪せることがない
私が歳を重ねたためか最近テレビドラマは薄っぺらに感じて見る気がしない。夢千代日記を今でも思い起こすのは強烈にこころを揺すらすものが記憶に刷り込まれたからと思われる。このようにこころに刷り込まれた記憶はセビア色にはならないのだ。

湯村温泉は新温泉町の温泉郷のひとつになり湯村温泉の名前が遠くなったような気がする。私が初めて湯村を訪れたのが1982年11月のことであれから37年も時間が流れた。当時は鎮座する慈覚太師像には屋根はかかってなかった。記憶に残っているのは湯けむりでけぶる荒湯と湯が流れるせぎで山菜などを茹でる土地のひとびとの営みであった。
1982年11月23日の荒湯
2019年5月23日の荒湯
何故37年も過ぎてもこの温泉に行きたいとの思いを持ち続けたのか、説明できるような明確の理由は見つからない。長い歳月が経ても100度近い熱湯が噴き出している荒湯が湯村の象徴あることに変わっていない。土地の人々の営みも変わっていないように思えた。
旬の収穫物のタケノコやワラビなどを持ってきてしたの湯つぼで湯がいていは立ち去る。その端では観光客が店で買い求めてた卵を茹でている。

温泉橋は昔のとおり春来川に架かっていた。欄干には花模様が刻まれた竹筒が括り付けられていた。福知山Iから9号線沿いの道すがら但馬の山は竹林が多いなと感じて来たことと荒湯で大量の筍を湯がく人々の姿とが連鎖してこの地方の竹とのつながりを合点する景色となっいた。
その温泉橋の下で春来川の流れにゆったりと時を進める一羽の鷺鳥を見た。朝日のきらめきを身に受けこんなに美しく輝く鷺鳥は見たことがない。37年前の私達もここに来てこのように若く光輝いていた。
1982年11月23日まだ30代そこここの私は中国地方のバスツアーに参加してこの湯村温泉に1泊した。ホテルはニューとみやと日記に記されていた。ホテルの部屋は大部屋で3組の夫婦の相部屋となった。私よりひとまわりうえ亥年の方とまたそのひとまわりうえの亥年の方と偶然干支のめぐりが合う3組の夫婦がそろったことを一番年下の亥年であった私は今でも懐かしく思い出す。しかし今では私はいちばんうえの亥年の方の年齢を超えてしまった。あの時相部屋となった亥年の夫婦の方々は今でも達者であるかな気を回すのである。
街にいで湯がしゃんしゃんわいて
ここは鳥取いで湯鳥取君を待つ
きなんせきなんせ踊りゃんせ
サッテモヤレコノヨイトコラセ
いつかまた行ってみたいとの私の思いは今年5月花香に誘われる蝶のごとくこの湯の里にやってきたのでした。(ちなみに自宅から湯村まで車で676キロありました。)
兵庫県 新温泉町 湯村温泉 (2019年5月13日)
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