シクラメンが夏眠を開始しました ― 2024/06/24 19:36
吾妻のもう一人の忍び唐沢玄蕃 ― 2024/06/28 16:17
吾妻の忍と言われている割田下総のならびに唐沢玄蕃がおります。
その唐沢玄蕃について加沢記と吾妻記からその働きを探ってみることにした。
唐沢玄蕃の墓
割田下総の墓から望める横尾の山腹に唐沢玄蕃の墓がある。

墓石には玄蕃と妻の戒名が同会されて刻まれている。
正しいかどうか??この同会の戒名を一宗道益居士 容室貞顔大姉と私は読んだ。
玄蕃の妻は割田下総の娘であったと伝えられており、当時割田と唐沢がお互い緊密な関係であったことが裏付けられる。また玄蕃の墓が割田下総の里の横尾村に建立され、現代も横尾に唐沢姓が多いのも天正期の割田との交わりが関係したものではないかと勝手に想像を膨らませてしまう。
割田下総と共に戦国末期の活躍した玄蕃の活躍をまとめて見よう。
天正の始め 中山、尻高城に忍び入り、尻高城を放火、中山城では金の馬鎧を手に入れる
など高名をあげる(加沢記の記述の概略を下部に記す)
天正8年12月 尻高三河守が守る横尾八幡城を攻め奪取
天正9年正月 尻高の城へ押寄せ尻高三河守が守る小矢野城を奪取
天正11年夏 白井の長尾右衛門が配下赤見山城先手の攻めに辻の原と南極川原で戦う
天正12年3月 割田下総が案内による赤見山城守の中山への夜打ちに参加
天正16年11月 北条領となった沼田城代猪俣能登守の謀略により騙された名胡桃城の
鈴木主水の加勢として出兵
天正18年 松井田合戦では尻高の押さえとして随兵
そして手柄としての真田昌幸からの知行宛行状は
天正10年10月19日 17貫文の知行宛行状
天正11年4月5日付 5貫文の知行宛行状
など
加沢記の記述
唐沢玄蕃が現高山村の中山城へ忍び入り金の馬鎧を手に入れた高名は加沢記巻の二「唐沢玄蕃中山尻高両城忍之事付金の馬鎧之事」に記されている。
天正の始め(現在の高山村にあった)中山と尻高の城は白井城(長尾氏)へ随身していた。この時真田氏は吾妻を西から東へ勢力を拡大していた。真田信綱から忍び入って城を焼け落せとの命を受け割田新兵衛と語らい尻高に忍び入り放火した。そして中山の城へ忍び入ったところ、城主の中山安芸守がへたくそな鼓を打って酒宴を催していた。寝静まりをまって中山の納戸へ忍び入り爰かしこを探すと金の馬鎧を発見した。くっきょうのことと思い中山の城は放火はしないでこの金の馬鎧を盗み取って帰った。玄蕃は陣と申せばこの金の馬鎧を馬に懸けて出陣したるが武田信玄公西上州出張の節お目に留り、信玄公曰く先年信州松山合戦の時に見たるものだが懸けている者は何者と信綱にお尋ねあり、信綱唐沢と申し上げ、玄蕃おもんばからず高名を上げた。
なお、此金の馬鎧は中山安芸守が関東管領上杉氏より拝領したるかと記されている。
天正元年(1573年)に活躍した玄蕃と万治三年(1660年)この墓に眠る玄蕃が同一人物であるとは思い難い
この墓に眠る玄蕃は天正を駆け抜けた唐沢玄蕃から1~2代後の子孫ではなかろうか思う。
令和6年6月28日 記migi
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