私のポーランド3(ユダヤ人)2018/07/04 11:01

ユダヤ人

カジミェシュ3世(1333年~1370年)は西ヨーロッパで迫害にあっていたユダヤ人を保護、移民も奨励したという。このためポーランドはヨーロッパの大国に成長したという。
ヴィエリチカ岩塩坑

         坑道内のカジミェシュ3世の彫像
ヴィエリチカ岩塩坑のカジミェシュ3世彫像

クラクフ
         クラクフ城内地区とカジミェシュ地区の都市図
クラクフとカジミェシュの都市図
        (ワルシャワのポーランド・ユダヤ人の歴史博物館にて)

         現在のカジミェシュ地区の地図
クラクフ カジミェシュ地区の地図

         カジミェシュ地区 ヨセフ通り
カジミェシュ地区 ヨセフ通り

         カジミェシュ地区 スタラ・シナゴーグ
カジミェシュ地区 スタラ・シナゴーグ

ワルシャワ
         ポーランド・ユダヤ人の歴史博物館
ワルシャワ ポーランド・ユダヤ人の歴史博物館

カジミェシュ3世がユダヤ人を受け入れた理由は宗教的人道的な理由だけではないと思うが、とにかくユダヤ人はポーランドで定住地を得て自治都市を形成することができた

  1897年 ワルシャワ市内人口約64万人その内ユダヤ人約22万人(34%)
  1938年 クラクフ市内人口約25人その内ユダヤ人約6万4千人(25%)

           ポーランド(2018年5月14日~21日)

30ふるさと夏①ケロちゃんのつぶやき2018/07/05 10:54

30年夏のケロちゃんは昨年と同じ東側の物干しのパイプに住みつきました
2018年ケロスケ
         蛇も来ないし鳥も来ない!ここが一番安全さ!!
         今年もこの場所を借りるヨ!!

OK!OK!ケロちゃんがこの住処に何時来るのか待っていたヨ
今年の我が庭はヒヨドリが縄張りを張るし、春先には蛇が日向ぼっこしていた
だからいつもの年より危険だヨ
安全な場所とはいえ油断しないで過ごしてネ

         ところでオジイさん日本の政治はどうなってんだ
         日本でも格差社会が議論されて久しいガ
         日本の一番の格差は政治と国民の間の格差が大きな問題ではないかネ?
         
         選挙区に戻って選挙民に直接政策を熱く説明することもないしナ?

そうだネェ~

         国会答弁を聴いていると
         一般社会では通用しないことが国会ではまかり通ってるだろウ!!
         ごまかしの答弁が貴重な時間を無駄使いしているだろウ!!
         国民をばかにしているとしか思えないやりとりぢゃないカ!!
         正義を貫く官僚が見えないゾ夢も希望も浮かばない官僚が目立つゾ!!

ケロスケどうしてこんな不誠実な社会になってしまったのだろうカ??

         オジイさんもう古希だ!!そんなことつぶやいても
         良くはならないサ!!気にするナ!! アキラメろ!!
         寿命がちち”まるヨ~  

そうだネェ~

            群馬 吾妻 ふるさと(2018年7月5日)

私のポーランド4(著名人)2018/07/05 15:31

著名人たち

コペルニクス(1473年2月19日~1543年5月24日)
 天文学
   クラクフ
クラクフ コペルニクス像

   ワルシャワ
ワルシャワ コペルニクス像


キュリー夫人(1867年11月7日~1934年7月4日)
 物理学・化学
 
   ワルシャワ
        キュリー夫人博物館
ワルシャワ キュリー夫人博物館

アダム・ミツキエヴィチ(1796年12月24日~1855年11月26日)
 詩人・政治活動家
   クラクフ
        中央市場広場
クラクフ アダム・ミツキエヴィチ像

    ワルシャワ
ワルシャワ アダム・ミツキエヴィチ像

ショパン(1810年3月1日~1849年10月17日)
   ジェラゾヴァ・ヴォラ村
        ショパンの生家
ショパン生家 ショパン像

   ワルシャワ
        ショパンのベンチ
ワルシャワ ショパンのベンチ
 
 

        ショパンのピアノコンサート
ワルシャワ ピアノコンサート

        ショパンの心臓が眠る聖十字架教会
ワルシャワ ショパンの心臓が眠る聖十字架教会

ローマ教皇 ヨハネ・パウロ2世(1920年5月18日~2005年4月2日)
 ローマ教皇

   クラクフ
        クラクフ教区の司祭~大司教
クラクフ ヨハネ・パウロ2世

   ヴィエリチカ
        岩塩坑内
ヴィエリチカ岩塩坑のヨハネ・パウロ2世彫像



            ポーランド (2018年5月14日~21日)

私のポーランド5(侵略と抵抗)2018/07/17 15:40

侵略と抵抗

1025年  ポーランド王国誕生
        ポレスワフ1世
ポーランド ポレスワフ1世

         旧王宮と大聖堂(クラクフ)
クラクフ 旧王宮と大聖堂


1241年  蒙古来襲  
      バトウ率いるモンゴル軍が進攻、3次にわたるモンゴルの侵攻によりポーラン
      ドは壊滅状態に

      クラクフにある聖マリア教会のヘイナウ・マリアッキと呼ばれるトランペット
      の時報の演奏が中断されるのはラッパ兵がモンゴル兵により喉を射抜かれたこ
      とに由来しているという
         聖マリア教会(クラクフ)
クラクフ 聖マリア教会
 
               街を守る城塞もしっかりしたものに
         ババルカン(クラクフ)
クラクフ ババルカン
         

      ヤスナグラ修道院のヤスナ・グラの聖母の頬の傷はモンゴル兵の仕業である
      との説もあるが?
         ヤスナ・グラの聖母(チェンストホーヴァ)
チェンストホヴァ ヤスナ・グラの聖母

1569年~1795年
     ポーランド・リトアニア共和国
     選挙王制へ

1596年  首都をクラクフからワルシャワへ遷都(ジグムント3世)
         ジグムント3世像と王宮(ワルシャワ)
ワルシャワ ジグムント3世像と旧王宮広場


1772年  周辺諸国による侵略
      ロシア、プロイセン、オーストリアによるポーランドの分割

1795年~1815年
      国家消滅
      第3次分割によりポーランド消滅

1807年~1815年
      傀儡国家ワルシャワ公国
      ナポレオンによる傀儡国家ワルシャワ公国の建国
      ナポレオン没落しワルシャワ公国解体
1815年~
      ロシア皇帝が国王を兼ねたポーランド立憲王国

 ロシア支配からの独立を目指し大規模な蜂起 (1830年、1863年)  
 ポーランド人の連帯意識を強めカトリック信仰がより堅固に

        「革命のエチュード」フレデリック・ショパン(1831年?)
ショパン生家 ショパン像


        叙事詩「パン・タデウシュ」(1834年)アダム・ミツキエヴィッチ
        (クラクフ中央市場広場)
クラクフ アダム・ミツキエヴィチ像


1918年  ポーランド共和国樹立
      第一次大戦ドイツの敗北、ポーランド共和国独立

1939年  ドイツとソ連による侵略
      ナチス・ドイツとソビエトの進攻によりポーランド消滅
      ホロコースト(大量虐殺)

ワルシャワゲットー蜂起(1943年)
         ワルシャワゲットーの英雄記念碑(ワルシャワ)
ワルシャワ ワルシャワゲットー英雄記念碑

ワルシャワ蜂起(1944年)
         ワルシャワ蜂起記念碑(ワルシャワ)
ワルシャワ ワルシャワ蜂起記念碑


1952年~1898年
      ソ連の衛星国家、ポーランド人民共和国樹立
      スターリンより贈与された悪魔の宮殿のような不気味な建物
      元はヨシフ・スターリン記念文化科学宮殿という名称
         ワルシャワの文化科学宮殿(ワルシャワ)
ワルシャワ 文化科学宮殿

反社会主義運動、民主化運動(1980年~)
      

1989年~  
      国名をポーランド共和国に変更
1999年  NATO加盟
2004年  EU加盟

ワルシャワの人々の復興のシンボル
         王宮広場、旧王宮、聖アンナ教会(ワルシャワ)
ワルシャワ 旧王宮広場

         ショッピングセンター(ワルシャワ)
ワルシャワ ショッピングセンター

ポーランドの壮絶な歴史をどうコメントしたらいいのだろうか?
ヨーロッパでは弱いものは強いものに潰される。これがあたりまえなのか?
選挙王制が国を弱めてしまったのか?
神のお告げに忠実でありすぎたのか?(隣人を信じすぎてしまったのか?)

「アンネの日記」の記述の中にその回答のひとつがあるように思います。
「多くの時代を超えてユダヤ人は生きのびてきました。このあいだずっと苦しんでこなくてはなりませんでしたが、同時にそれによって強くなることを覚えました。弱い物は狙われます。けれども強い物は生き残り、けっして負けることはないのです。」(深町眞理子訳)





            ポーランド (2018年5月14日~21日)     

  


てくてく小国町温身平ハイキング2018/07/28 22:44

静養と気分転換のため山形県小国町の飯豊梅花皮荘で連泊、温泉とブナの森温身平のハイキングで心身をリフレッシュ!!

飯豊連峰の懐に抱かれた飯豊温泉飯豊梅花皮荘はわが家から国道17号線と290号線を走り約300キロ先にあります
この宿に宿泊するのは10年ぶりです
あまりにも素晴らしい飯豊連峰の景色が印象に残りまた宿の温泉風呂もとても良かったので
再来することに決めました
小国町飯豊梅花皮荘


飯豊連峰から発する玉川の断崖に建つ梅花皮荘は渓流釣りの客も定宿としているようです
清潔な館内と東北の心和む従業員さんの応対、気を使わないで過ごせる至福の時間と空間が手に入る、飯豊連峰を眺めながらのゆるり温泉入浴など私にとって十分に満足できる宿です
1日目はゆっくり湯に浸かってドライブの疲れを癒しました
小国町飯豊梅花皮荘

さて2日目飯豊連峰の登山するパワーが不足する老人二人はブナの森温身平を散策することにしました
宿から奥に入ること10分程度で飯豊山荘がありその先にパーキングが3か所続いてがある
車を下りると登山計画の受付小屋があり沢の向うに温身平の入口があり温身平の背骨のメインロードが伸びている(写真の黄色で示す歩道)
小国町温身平

温身平の背骨メインロード
小国町温身平メインロード

メインロードを進むと渓流沿いに分かれる道筋がある
この道筋はけもの歩道と名付けられている
まず左に折れてけもの歩道を行く
小国町温身平けもの歩道

カモシカ沢、清流展望台と係留を見ながら朽ち葉が積った歩道を進んで行くとミズナラが聳える観音平に着く、ミズナラの幹に掌を当てると冷たい、水の流れを感じるようだ
歩道のポイントには木造りのベンチを設置した休憩所が設置されている
小国町温身平 観音平

次に奥に進みマタギ屋敷を過ぎると温身の池がある、この池はモリアオガエルの繁殖地であるという カエルの鳴き声はしない 聞こえるのは蝉の鳴き声が響くばかりだ
小国町温身平ぬくみの池

温身の池を越すとけもの歩道はメインロードに合流し飯豊連峰の展望に出る ここから真っ直ぐ渓流を渡るとダイグラ尾根への登山道となる
小国町温身平飯豊連峰展望

ここからメインロードはやや坂道となり石転び沢への登山道へと伸びている
沢つたいにを登っていくとブナの巨木が立ちその根元に湧水がある、ブナしずくと云う、ここで飯豊の頂きを目指す登山者たちは水を補給して行くのだろうか
温身平ブナのしずく

メインロードの終着点、石転び沢への登山道へと続く
石転び沢まで行ってみたいが希望を断念ここでUターン
温身平 石転び沢へ

ブナしずく、飯豊連峰展望と戻りメインロードを入口に向って下るとヤチダモの巨木がある
温身平 ヤチダモの巨木

やがてけもの歩道との分岐を通過し入口に辿り着いた
約3時間の温身平のハイキングは終了した

3日目天気はあい変らず良かった
帰りに樽口峠に立ち寄り飯豊連峰の雄姿を堪能した
梅花皮荘からの眺望では確認できなかった烏帽子、梅花皮、北股などの頂きをこの目で確認できた
溝口峠飯豊連峰の眺望

もと来た道300キロをひたすら運転して無事に自宅に帰還、満足の旅でした


         山形県 小国村  (2018年7月18日~20日)

私のポーランド6(ゲットー)2018/07/31 14:31

UNDER NAZI OCCUPATION 1939-1945

ゲットー
16世紀以降ユダヤ教徒をギリスト教徒から隔離するため都市に造られたという
ここで記すゲットーは20世紀ナチス・ドイツによってユダヤ人を強制的に収容した居住区域である。

ワルシャワ・ゲットー(1940年11月~1943年5月)

11万人のポーランド人住民が強制退去させられた区域に44万人ものユダヤ人が強制収容されたという
ワルシャワ ゲットー

ゲットーを囲んだ高さ3メートルを超える壁の一部は今も残っている
         ゲットーウォールの案内板(ズウォタ通り)
ワルシャワゲットーウォール案内

         それは集合住宅の中に点在していた
ワルシャワゲットーウオール

                         A part of the Ghetto wall
A part of the Getto wall


         掲示が読めないのが残念
A part of the Ghetto wall

A part of the Ghetto wall


A part of the Ghetto wall
 

1942年7月ゲットー住民トレブリンカ収容所へ移送開始 9月30万人を移送、7万人が残る
1942年7月ユダヤ人戦闘組織発足
1943年4月19日住民移送のドイツ軍と警察に対し武装蜂起(ワルシャワ・ゲットー蜂起)
   ゲットー地区破壊 5月蜂起鎮圧 ゲットー解体

                         ポーランド・ユダヤ人の歴史博物館に展示してある
         ワルシャワ・ゲットー蜂起の写真
ワルシャワ・ゲットー蜂起

ワルシャワ・ゲットー蜂起

                        博物館の前庭に建てられたワルシャワ・ゲットーの英雄記念碑
ワルシャワ ワルシャワゲットー英雄記念碑



クラクフ・ゲットー(1941年3月~1943年12月)
        

カジミエシュ地区のビスワ川を挟んだポドグジェ地区に塀で囲んで造られたゲットーに当初1万5千人のユダヤ人が強制収容されたという
クラクフ・ゲットー

         両地区を分け隔て流れるビスワ川
クラクフのビスワ側

         クラクフ・ゲットーの全体図
クラクフ・ゲットー

1942年6月、10月に3度にわたりユダヤ人住民を強制収容所へ移送
1943年3月4度目の移送によりゲットー解体

         ユダヤ人を雇って操業したオスカー・シンドラーのエナメル工場
オスカー・シンドラー・エナメル工場

Oskar Factory

ナチス支配時代のゲットーは単なる民族と民族を隔離することを目的としたものではなく、民族絶滅を目的のための手段であった ゲットーに収容された住民のほとんどは絶滅収容所へ移送されていってゲットーから姿を消した
住民が移送されカラになったゲットーは残忍極まるプロセスの役割を終え解体された


世界では壁は消えることなく今でも役割を得て存在し続けている

イテオロギーによる分断
冷戦時代ベルリン市民を東西に分けた「ベルリンの壁」
宗教の派閥による分断
北アイルランドベルファストにあるカトリックとプロテスタント地区を分ける「平和の壁」
土地を分捕るための包囲
イスラエルのパレスチナ地区を囲む「鉄の壁」

現代でも生きているアンネの日記の一説を思い出す

「弱いものは狙われます。けれども強いものは生き残り、けっして負けることはないのです。」


            ポーランド  (2018年5月14日~21日)