九州北部の旅①漢委奴国王金印を見る2018/03/01 14:52

福岡市博物館で展示された国宝の金印を見る

     建武中元二年倭奴国奉貢
朝賀使人自称大夫倭国之極南界也光
武賜以印受
                「後漢書」倭伝
大きさは漢の一寸角
金の純度は後漢までの金製品とほぼ同じ(純度95%)
漢委奴国王金印

倭は亻がない委であるが
漢委奴国王金印

鈕(つまみ)は蛇を形どったもの
蛇は南方諸民族へ下賜のもの 北方民族へは駱駝や羊だそうだ
漢委奴国王金印

古希を迎えてようやく歴史の教科書にでていたものを見ることができました
建武中元2年(西暦57年)九州北部に後漢に直属する奴というクニあり


          福岡県 福岡市博物館  (2018年2月)

九州北部の旅②水稲耕作の遺跡を見る2018/03/03 11:21

      土宜禾稲麻紵蠶桑知織
績為縑布
                「後漢書」倭伝

弥生文化は九州北部で成立したという
弥生時代前期の板付遺跡を見た

集落(ムラ)を中心に水路をめぐらして水田を開いた
集落には住居や稲穂の貯蔵施設があり濠で取り囲んでいた
板付遺跡全景

住居は松菊里型という竪穴式住居 韓国にこれと同じ造りものがあると云う
土器は弥生時代初期の板付式土器
板付遺跡 竪穴住居

木製農具 農具は稲作技術と同時に伝わったようだ
ということは、先に水稲をやっていた人々が移り住んで開拓したということかも
板付遺跡 木製農具

後漢書に記すようにここでも蚕桑の知識があったというのか
板付遺跡 蚕

この後(弥生中期)に福岡平野には奴国が成立していく
            福岡県 福岡市   (2018年2月)

九州北部の旅③邪馬台国を想像する2018/03/06 16:51

○邪馬台国の王は

倭在韓東南大海中依山島為居凡百余
国自武帝滅朝鮮使駅通於漢者三十許
国国皆称王世世伝統其大倭王居邪馬
台国
         「後漢書」倭伝

邪馬台国に居た大倭王の勢力は自国のムラ長をまとめるだけだったのか
吉野ヶ里遺跡 北内郭

○大倭王の座の争奪戦は
           桓霊間倭国
大乱更相攻伐歴年無主有一女子名曰
卑彌呼年長不嫁事鬼神道能以妖惑衆
於是共立為王
         「後漢書」倭伝

其国本亦以男子為王住七八十年倭国乱相攻
伐歴年乃共立一女子為王名曰卑彌呼事鬼道
能惑衆           
            「魏志」倭人伝

倭国は争いが治まらず一女子(卑彌呼を)共に立てて王としたとあるが争いは一国内の争いではなく九州北部の諸王間の大倭王の座の争奪戦であったと言えないだろうか
吉野ヶ里遺跡 北内郭

○邪馬台国の景観

          居処宮室楼観
城柵皆持兵守衛法俗厳峻
         「後漢書」倭伝


      居処宮室楼観城柵厳設常有人
持兵守衛
            「魏志」倭人伝

大倭王卑弥呼が住む邪馬台国とははどんな景観であったのか

城柵と濠で集落を取り囲みさらに内郭で囲み厳重な大倭王の警備
吉野ヶ里遺跡 城柵

楼観 兵士が常時警備にあたった物見のやぐらか
吉野ヶ里遺跡 楼観

大型建物 諸王を威嚇することもできたろう壮大な建物
これだけ大きな建物が建つのに王は竪穴住居なのか・・・
吉野ヶ里遺跡 大型建物

大規模な墳丘墓や甕棺墓はこの集落の人口の多さを示すものだろう
吉野ヶ里遺跡 墳丘墓甕棺墓

吉野ヶ里遺跡を邪馬台国にイメージして見ました この遺跡は大倭王が居住した都であると想像してもおかしくはないと思いました  倭国大乱と後漢書に記すということは単に一国の騒乱を言うのではなく倭国の大倭王の座を九州北部の諸王が争奪し合ったものでこの諸国連合を邪馬台国と言ったものではないかとも感じました

       

          佐賀県 吉野ヶ里遺跡   (2018年2月)


九州北部の旅④甕棺に思う2018/03/19 22:57


甕棺というものを実際目の前で見たのは初めてだ
素焼の甕で大きい物は高さ1メートル20センチ、口の直径は70センチ程度で、高さ50センチほどの所に補強のためかつなぎ目であるのか二重の縁がまわっている
小さい物では高さ40センチ程度、口の直径は40センチ程度のものがある
この時代大人も子供も甕棺に入れられ埋葬されたのだ
吉野ヶ里遺跡 甕棺
                      (吉野ヶ里遺跡にて)
棺に甕が使われたのかその理由は想像しがたいが人の死者に対する暖かさを感じる
甕棺は少し傾けて土中に埋められ埋葬者の視線は真上ではなく斜めとなる
吉野ヶ里遺跡 甕棺墓

通常は棺の上下は甕と甕の組み合わせであるが、甕と壷の組み合わせも出土した
須玖岡本遺跡
                     (奴国の丘歴史資料館)
甕棺の強度の問題であるのか深くは埋められないようだ
吉野ヶ里遺跡 甕棺墓列
                   (吉野ヶ里遺跡 甕棺墓列)

埋葬者はまるで子宮のなかで浮かぶ胎児のように見えた
甕棺は魂を鎮める揺り籠のようであり、あの世へ戻るカプセルのようでもある
甕が選ばれたのは母体回帰の意味合いがあったのではないかと想像した
吉野ヶ里遺跡 墳丘墓
                  (吉野ヶ里遺跡 北墳丘墓)
位の高い者は副葬品として剣や鏡、管玉などが入れられた

戦いの痕跡を残す人骨
吉野ヶ里遺跡の甕棺墓は約2900基発見され、そのうち300基から人骨が検出された
首のないものや 矢じりが刺さっていたり 刀傷のある骨も発見されている
吉野ヶ里遺跡 首のない人骨
                  (吉野ヶ里遺跡 首のない人骨)

当時の葬式はどのようなものであったのか?

奴国の丘歴史公園にある竪穴遺構は埋葬に関係した建物跡の可能性ありとある
須玖岡本遺跡 竪穴遺構
                  (奴国の丘歴史公園 竪穴遺構)

魏志倭人伝に葬儀の様子が記されている

                其死有
棺無槨封土作家始死停喪十余日当時不食肉
喪主哭泣他人就歌舞飲酒巳葬挙家詣水中澡
浴以如練沐
             「魏志」倭人伝

棺はあるが槨はないとある
 棺は甕棺や木棺であったろう そして外棺はなく直接土に埋められたということか
誰が葬式を取り仕切ったのか
 卑弥呼のような鬼道に仕える霊媒師のようなものが行ったものなのか
他人は歌舞飲酒とあるが
 今の葬式でも清めといって酒宴を催すのと同じだね

甕棺は日常使用していた甕を使ったものではなく、そのつど誂えたもののようだ
その点甕棺は死者を敬う人の気持ちをかたちとした包みと思えないこともない
また丸い甕の内壁は死者へ永遠の宇宙を提供したものになったのかもしれない

         佐賀県 吉野ヶ里遺跡    (2018年2月)

2018 3月の野鳥2018/03/28 16:26

都会では桜が満開との便りが届きますが
我が家の庭はまだ梅が満開の状況です
本日は天気が良いので畑にじゃがいもを植え付けました

本題に戻ります 3月に見かけた野鳥をまとめました

雨宿りをするヒヨドリ
雨宿りをするヒヨドリ
         3月1日 雪でなく雨の一日

何故か口を大きく開けて花壇を歩き回るツグミ
口を開けて歩き廻るツグミ
         3月12日 中之条町の花の駅「みのはら」にて

白い紋が目印ジョウビタキ
松で一休みジョウビタキ
         3月13日 庭の松の幹にて

巣作りをするのか?口にクズヒモをくわえたカワラヒワ
クズ紐を口にくわえたカワラヒワ
         3月19日 庭の柿の枝にて

今年も巣箱で子育てを準備するシジュウカラ
子育て準備シジュウカラ
         3月26日 隣家のアンテナで周囲を警戒
巣箱に入ろうとするシジュウカラ
         3月26日 昨年に続き柿の木の巣箱を利用するようです

シジュウカラはつがいで毎日姿を見せて巣箱を点検しています
それを縁先から見るのが楽しみとなっています
今年は巣箱の清掃をしないで昨年使ったままです
 清掃したら入らない年が続きました
 今年は昨年に続き連続して入りそうです
 清掃しなかったのが良かったのかな??

      群馬県 吾妻郡    (2018年3月28日)