群馬県民の日榛名山蛇ケ岳登山日記 ― 2024/10/29 15:09
10月28日は群馬県民の日です。
今年は榛名山にあるゆうすげ元湯に浸かることをメインして
榛名神社参拝、蛇ケ岳登山を楽しみました。
ここでは蛇ケ岳標高1229メートル登山をまとめました。
9時15分 小雨降り霧に霞む登山口を出発
画面の右手が登り口だ
丈の低い笹原をぬって真っすぐな登山道を登る
女房もなんとか登っている
途中珍しい茸を発見
女房曰くこれはとても珍しい 暫く考えてこれは「やまぶしたけ」だよ答えを出した
山伏の袈裟についた梵天に似ていることからその名前がついたのだそうだ
登り始めて20分近くもうすぐ頂上だ
9時35分 約20分で夫婦そろって標高1229メートル頂上到着
蛇ケ岳1229mの標識は地面に落ちていた
山頂からの景色はまったく見られない
霧が漂う無彩色の山頂で鮮やかな色彩を見つけこころ和む
はてツツジか?
9時40分 下山開始
10時10分 約30分かけて無事下山
約1時間の喜寿を迎えた登山日記でした
珍しい「やまぶしたけ」に初めて会えたことも心に残る出来事でした
榛名湖畔ゆうすげ元湯
10時30分よりゆうすげ元湯の温泉に浸かり県民の日のひと時を過ごした
もちろん私は男湯、女房は女湯です
帰り道に明るくなった湖畔より登山時雨雲と霧で確認できなかった蛇ケ岳の山容を探す
テレビ塔のある二つ岳と榛名富士に挟まれた峰が蛇ケ岳と思われる
令和6年10月28日撮影
群馬県 榛名山
沼田市真田河内守信吉の墓 ― 2024/10/21 15:29
沼田市材木町月宮山天桂寺にある沼田第二代城主真田河内守信吉のお墓を訪れました。
丈が高くがっしりとした宝篋印塔は墓所の外から容も易に確認できました。
真田信吉は沼田初代城代真田信幸の嫡子として生まれた。生年は諸説あり、文禄二年(天桂院殿御事蹟稿)、文禄四年(沼田記事)、慶長元年(滋野世紀)などである。
天佳院殿御事蹟稿では没年寛永十一年(1634年)享年四十二歳から生年は文禄二年(1593年)と考えたものである。
生母は真田家の嫡流真田信綱の娘の清音院殿説と小松殿則ち太連院説がある。どちらが正解であるか私には解明のすべはないが、ここでは信吉の真田氏嫡流に重きを置いて清音院殿説を選びたい。
掲示の沼田市教育委員会の解説文では享年40年とあり生年文禄四年の沼田記事に基づきいると思われる。
宝篋印塔の墓石を見て見よう
相輪の太さが目立つ
屋蓋の隅飾りに挟まれて真田家の六連銭が刻まれている
基礎の格狭間上部の反花座に蓮華文の彫が浮き出ているのが確認できる
墓石に刻まれた刻銘も判読できる
塔身から基礎上段にかけて
正面の刻銘は「天桂院殿 前河州太守」と法名の前段の部分が
右側面の刻銘は「滋野朝臣 真田信吉」と出自滋野一族を示し
左側面の刻銘は「月岫浄珊大居士墓」と法名の後段の部分が
後面の刻銘は「寛永十一申戌 歳十一月念八日」と没年月日が
沼田記事より真田信吉の生涯を概観して見よう。
文禄4年(1595年)仙千代生まれる。
慶長16年(1611年)仙千代真田蔵人信吉と号す。
慶長19年、元和元年(1614~15年)信吉、信政坂大坂冬の陣、夏の陣に出陣
元和2年(1616年)信吉沼田城主となる。
寛永元年(1624年)秀忠上洛に信吉供奉、従五位下河内守となる。
寛永4年(1627年)酒井雅樂頭娘を室とする。
寛永7年(1630年)信吉に娘くにが生まれる。
寛永9年(1632年)信吉に熊之助生まれる。
寛永11年(1634年)
閏7月 鍛冶町にて寺鐘を鋳造し三の丸に掛ける。
閏7月 信吉江戸へ参勤
11月28日 信吉疱瘡にて逝去
迦葉山にて火葬
寛永12年(1635年)桶川で兵吉(後の伊賀守)生まれる。
初代沼田城主の真田信幸は天正18年より26年間利根・吾妻を治めた。元和2年信幸が上田に移り嫡男の信吉が沼田二代城主となる。寛永11年に没するまで18年間領地を治めた。
その間の主な働きとしては
①家臣の沼田城下への移転と俸禄制への移行
②川場用水の開削
➂新田開発
④金銀の採掘など試行した。
⑤真田家と領内の安寧を祈り城鐘を鋳造した。
などが挙げられる
写真撮影 令和6年10月18日
群馬県沼田市材木町 (令和6年10月23日)
2024年秋ケロちゃんやっと会えたネ ― 2024/10/16 14:22
アカボシゴマダラ出現 ― 2024/09/24 16:38
真田伊賀守奉納の石灯籠 ― 2024/08/13 16:25
薄根川を渡り曲がりくねった急な寺久保坂を登り上がると観音様を祀る晴雲山三光院があります。その観音堂の前に二基の石灯籠が並んでいます。
石燈籠の竿の部分に
献上 石灯籠 両基
清雲山
観音 寶前
寛文四年甲辰八月十八日
従五位下〇伊賀守滋野〇真田信澄
竿に刻まれた銘からこの石燈籠は明暦3年沼田に入部した藩主真田伊賀守が8年後の寛文4年に奉納したものと読めます。
どんな理由で伊賀守が観音様に石燈籠を奉納したのか史料を当れないので明らかにできませんが、なぜか「あやまり燈籠」と呼ばれています。
伝承によるならばその理由は「伊賀守が小川時代に交流のあった常楽院を三光院の向かい側に引き写し三光院の十一面観音を常楽院に譲るように頼んだところ、三光院の住職だった広海和尚が断固として断ったため、家臣に命じて領民が三光院の祭礼にお参りするのを邪魔をした。すると翌年領内ではやり病が起こり伊賀守自身も罹患し苦しんだので、観音様の罰が当たったと評判になり、伊賀守が謝罪の為石燈籠を三光院に寄進した」となります。
伊賀守が月夜野にあった常楽院を幕岩城址に移転し創建したのが寛文3年、沼田氏創建の三光院の観音様に石灯籠を奉納したのが寛文4年、いったい伊賀守はどのような考えで石灯籠を奉納したのだろうか?疑問が解けない。
令和6年4月26日 撮影
朝顔が花開く朝 ― 2024/07/29 08:45
吾妻のもう一人の忍び唐沢玄蕃 ― 2024/06/28 16:17
吾妻の忍と言われている割田下総のならびに唐沢玄蕃がおります。
その唐沢玄蕃について加沢記と吾妻記からその働きを探ってみることにした。
唐沢玄蕃の墓
割田下総の墓から望める横尾の山腹に唐沢玄蕃の墓がある。
墓石には玄蕃と妻の戒名が同会されて刻まれている。
正しいかどうか??この同会の戒名を一宗道益居士 容室貞顔大姉と私は読んだ。
玄蕃の妻は割田下総の娘であったと伝えられており、当時割田と唐沢がお互い緊密な関係であったことが裏付けられる。また玄蕃の墓が割田下総の里の横尾村に建立され、現代も横尾に唐沢姓が多いのも天正期の割田との交わりが関係したものではないかと勝手に想像を膨らませてしまう。
割田下総と共に戦国末期の活躍した玄蕃の活躍をまとめて見よう。
天正の始め 中山、尻高城に忍び入り、尻高城を放火、中山城では金の馬鎧を手に入れる
など高名をあげる(加沢記の記述の概略を下部に記す)
天正8年12月 尻高三河守が守る横尾八幡城を攻め奪取
天正9年正月 尻高の城へ押寄せ尻高三河守が守る小矢野城を奪取
天正11年夏 白井の長尾右衛門が配下赤見山城先手の攻めに辻の原と南極川原で戦う
天正12年3月 割田下総が案内による赤見山城守の中山への夜打ちに参加
天正16年11月 北条領となった沼田城代猪俣能登守の謀略により騙された名胡桃城の
鈴木主水の加勢として出兵
天正18年 松井田合戦では尻高の押さえとして随兵
そして手柄としての真田昌幸からの知行宛行状は
天正10年10月19日 17貫文の知行宛行状
天正11年4月5日付 5貫文の知行宛行状
など
加沢記の記述
唐沢玄蕃が現高山村の中山城へ忍び入り金の馬鎧を手に入れた高名は加沢記巻の二「唐沢玄蕃中山尻高両城忍之事付金の馬鎧之事」に記されている。
天正の始め(現在の高山村にあった)中山と尻高の城は白井城(長尾氏)へ随身していた。この時真田氏は吾妻を西から東へ勢力を拡大していた。真田信綱から忍び入って城を焼け落せとの命を受け割田新兵衛と語らい尻高に忍び入り放火した。そして中山の城へ忍び入ったところ、城主の中山安芸守がへたくそな鼓を打って酒宴を催していた。寝静まりをまって中山の納戸へ忍び入り爰かしこを探すと金の馬鎧を発見した。くっきょうのことと思い中山の城は放火はしないでこの金の馬鎧を盗み取って帰った。玄蕃は陣と申せばこの金の馬鎧を馬に懸けて出陣したるが武田信玄公西上州出張の節お目に留り、信玄公曰く先年信州松山合戦の時に見たるものだが懸けている者は何者と信綱にお尋ねあり、信綱唐沢と申し上げ、玄蕃おもんばからず高名を上げた。
なお、此金の馬鎧は中山安芸守が関東管領上杉氏より拝領したるかと記されている。
天正元年(1573年)に活躍した玄蕃と万治三年(1660年)この墓に眠る玄蕃が同一人物であるとは思い難い
この墓に眠る玄蕃は天正を駆け抜けた唐沢玄蕃から1~2代後の子孫ではなかろうか思う。
令和6年6月28日 記migi
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