小栗上野介忠順終焉の地を訪ねる ― 2025/07/31 13:48
小栗上野介忠順の禄高は2700石で権田村(375石)は領地のひとつである。
何故隠棲の地として9か所ある領地の内から権田村を選んだのか疑問に思うが、ここが終焉の地となったのは間違いない。
小栗上野介忠順は万延元年日米通商条約批准書交換のため目付け役として渡米した。この写真はワシントン海軍造船所で撮影されたもので忠順は前列右二番目である。
(権田村へ隠棲)
帰国後、外国奉行、陸軍奉行、勘定奉行などの要職につき、横須賀製鉄所の創設など幕政の近代化に尽くしたが、幕府の解散とともに勘定奉行を罷免され、慶応4年3月1日権田村の東福寺を仮住居として隠棲した。
(邸宅の建設)
権田観音山に用水を引き、宅地の造成を行い邸宅の建設にかかり、50日余りで主屋一棟を完成をみたが、東福寺より移り住むことはできなかった

建物の痕跡として礎石が残されている
(忠順終焉の地水沼川原)
慶応4年閏4月6日烏川の水沼川原(水沼村)で斬首された。
(権田村東禅寺)
小栗上野介忠順忠順の墓と胸像
令和7年7月20日撮影
忠順の功績を深堀することで明治の近代化の足取りを別の角度から検証してみたい。





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