2024年秋ケロちゃんやっと会えたネ ― 2024/10/16 14:22
沼田市真田河内守信吉の墓 ― 2024/10/21 15:29
沼田市材木町月宮山天桂寺にある沼田第二代城主真田河内守信吉のお墓を訪れました。
丈が高くがっしりとした宝篋印塔は墓所の外から容も易に確認できました。
真田信吉は沼田初代城代真田信幸の嫡子として生まれた。生年は諸説あり、文禄二年(天桂院殿御事蹟稿)、文禄四年(沼田記事)、慶長元年(滋野世紀)などである。
天佳院殿御事蹟稿では没年寛永十一年(1634年)享年四十二歳から生年は文禄二年(1593年)と考えたものである。
生母は真田家の嫡流真田信綱の娘の清音院殿説と小松殿則ち太連院説がある。どちらが正解であるか私には解明のすべはないが、ここでは信吉の真田氏嫡流に重きを置いて清音院殿説を選びたい。
掲示の沼田市教育委員会の解説文では享年40年とあり生年文禄四年の沼田記事に基づきいると思われる。
宝篋印塔の墓石を見て見よう
相輪の太さが目立つ
屋蓋の隅飾りに挟まれて真田家の六連銭が刻まれている
基礎の格狭間上部の反花座に蓮華文の彫が浮き出ているのが確認できる
墓石に刻まれた刻銘も判読できる
塔身から基礎上段にかけて
正面の刻銘は「天桂院殿 前河州太守」と法名の前段の部分が
右側面の刻銘は「滋野朝臣 真田信吉」と出自滋野一族を示し
左側面の刻銘は「月岫浄珊大居士墓」と法名の後段の部分が
後面の刻銘は「寛永十一申戌 歳十一月念八日」と没年月日が
沼田記事より真田信吉の生涯を概観して見よう。
文禄4年(1595年)仙千代生まれる。
慶長16年(1611年)仙千代真田蔵人信吉と号す。
慶長19年、元和元年(1614~15年)信吉、信政坂大坂冬の陣、夏の陣に出陣
元和2年(1616年)信吉沼田城主となる。
寛永元年(1624年)秀忠上洛に信吉供奉、従五位下河内守となる。
寛永4年(1627年)酒井雅樂頭娘を室とする。
寛永7年(1630年)信吉に娘くにが生まれる。
寛永9年(1632年)信吉に熊之助生まれる。
寛永11年(1634年)
閏7月 鍛冶町にて寺鐘を鋳造し三の丸に掛ける。
閏7月 信吉江戸へ参勤
11月28日 信吉疱瘡にて逝去
迦葉山にて火葬
寛永12年(1635年)桶川で兵吉(後の伊賀守)生まれる。
初代沼田城主の真田信幸は天正18年より26年間利根・吾妻を治めた。元和2年信幸が上田に移り嫡男の信吉が沼田二代城主となる。寛永11年に没するまで18年間領地を治めた。
その間の主な働きとしては
①家臣の沼田城下への移転と俸禄制への移行
②川場用水の開削
➂新田開発
④金銀の採掘など試行した。
⑤真田家と領内の安寧を祈り城鐘を鋳造した。
などが挙げられる
写真撮影 令和6年10月18日
群馬県沼田市材木町 (令和6年10月23日)
群馬県民の日榛名山蛇ケ岳登山日記 ― 2024/10/29 15:09
10月28日は群馬県民の日です。
今年は榛名山にあるゆうすげ元湯に浸かることをメインして
榛名神社参拝、蛇ケ岳登山を楽しみました。
ここでは蛇ケ岳標高1229メートル登山をまとめました。
9時15分 小雨降り霧に霞む登山口を出発
画面の右手が登り口だ
丈の低い笹原をぬって真っすぐな登山道を登る
女房もなんとか登っている

途中珍しい茸を発見
女房曰くこれはとても珍しい 暫く考えてこれは「やまぶしたけ」だよ答えを出した
山伏の袈裟についた梵天に似ていることからその名前がついたのだそうだ
登り始めて20分近くもうすぐ頂上だ

9時35分 約20分で夫婦そろって標高1229メートル頂上到着
蛇ケ岳1229mの標識は地面に落ちていた
山頂からの景色はまったく見られない

霧が漂う無彩色の山頂で鮮やかな色彩を見つけこころ和む
はてツツジか?
9時40分 下山開始
10時10分 約30分かけて無事下山
約1時間の喜寿を迎えた登山日記でした
珍しい「やまぶしたけ」に初めて会えたことも心に残る出来事でした
榛名湖畔ゆうすげ元湯
10時30分よりゆうすげ元湯の温泉に浸かり県民の日のひと時を過ごした
もちろん私は男湯、女房は女湯です
帰り道に明るくなった湖畔より登山時雨雲と霧で確認できなかった蛇ケ岳の山容を探す
テレビ塔のある二つ岳と榛名富士に挟まれた峰が蛇ケ岳と思われる
令和6年10月28日撮影
群馬県 榛名山
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