私のポーランド7(アウシュヴィッツ)2018/08/26 10:52

私が旅行先にポーランドを選んだ理由は
①なぜポーランドはいとも簡単に隣国から侵略されてしまったのか?
②ナチスによる大量殺戮の直接の現場を見ておきたい
ということでした

まず始めに第二アウシュヴィッツ・ビルケナウ強制収容所へ
①有刺鉄線に囲まれた広大な敷地(175ヘクタール)
②正面入口のあった中央監視棟の建物
③貨車から降ろされユダヤ人がSS医師により選別された荷降ろし場と引き込み線路
④労働可能と選別された人々が収容された木造のバラック
などが記憶に残りました
大量虐殺の直接的施設であるガス室と焼却炉跡は証拠隠滅のため破壊されその残骸が残っているが敷地の一番奥にあるため行く時間がなく見られませんでした。

ビルケナウを見てから第一アウシュヴィッツ強制収容所へ
①大量殺戮の重犯罪を行った場所、処刑場、ガス室、焼却炉を直接見ました。
②処刑場としては銃殺を行った「死の壁」、餓死刑を行った11ブロック地下の監房、点呼広場の片隅にある集団絞首台を見ました。
③アウシュヴィッツにおける殺戮の恐ろしさを直に感じたのは第4ブロック、第5ブロックで見た登録もされないで抹殺された人々の遺品の山でした。
 


1947年、ポーランド国会下院は現存していた2つの強制収容所後に、ポーランド国立アウシュヴィッツ・ビルケナウ博物館を設立を制定した

アウシュヴィッツはナチス・ドイツの最も大きな収容所で死のキャンプであった。1940年~1945年の間にに少なくとも1,300,000人の人々がナチスによってアウシュヴィッツへ追放された。
1,100,000人・・・・ユダヤ人
  140,000人・・・・ポーランド人
   23,000人・・・・ロマ(ジプシー)
   15,000人・・・・ソビエト兵捕虜
   25,000人・・・・その他人種
アウシュヴィッツで1,100,000人の人々が命を失った。その約90%の犠牲者がユダヤ人である。SSは彼らの大多数をガス室で惨殺した。

アウシュヴィッツに送られたユダヤ人の概算の人数は以下の通りである。
430,000人・・・・ハンガリーから
300,000人・・・・ポーランドから
 69,000人・・・・フランスから
 60,000人・・・・オランダから
 55,000人・・・・ギリシャから
 46,000人・・・・保護領のボヘミアとモラビアから
 27,000人・・・・スロバキアから
 25,000人・・・。ベルギーから
 23,000人・・・・オーストリアとドイツから
 10,000人・・・・ユーゴスラビアから
  7,500人・・・・イタリアから
    690人・・・・ノルウェーから
加えること凡そ34,000人のユダヤ人が他の収容所から個別に移送された。

          第二アウシュビィッツ・ビルケナウ強制収容所

 まず大規模な絶滅収容所として建設されたを第二収容所を見た
 施設は雨で濡れていた

 見取り図
    左からBⅠ、BⅡ、BⅢと3つのブロックで構成
    
第二アウシュヴィッツ強制収容所

第二アウシュヴィッツ強制収容所

 中央監視棟
        囚人たちが「死の門」と呼んでいた中央門
第二アウシュヴィッツ強制収容所の門

アウシュヴィッツ・ビルケナウ

        有刺鉄線の外に配置された監視塔
第二アウシュヴィッツ強制収容所


 鉄道用荷降ろし場
    貨車から降ろされた人々がSSの医師により選別された現場
    このレールの先に大規模な焼却場(ガス室と焼却炉)がありった
    降ろされたユダヤ人の70~75%ここからガス室へ送り込まれたとの記録もある
    
第二アウシュヴィッツ・ビルケナウ鉄道引き込み線

        
    1944年の現場の写真
第二アウシュヴィッツ強制収容所

 焼却場(クレマトリウム)
      ガス室と焼却炉をクレマトリウムと云う
    1943年から稼働した
    当時はこの写真の正面にその煙突が見えたであろう
    証拠隠滅のため破壊されたためその姿は見えない 
    今は残骸が残るが一番奥にあるため見に行く時間はなかった
アウシュヴィッツ・ビルケナウ
        
           

 収容施設
   労働可能として選別された者が収容施設に入れられました。
   175ヘクタールの敷地内に約300棟のバラックが建てられた

   BⅡブロック方面の木造のバラック群
     現存する木造バラックは22棟
アウシュヴィッツ・ビルケナウ BⅡブロック

   BⅠブロックには45棟のレンガ造りのバラックが残っている
アウシュヴィッツ・ビルケナウ

   木造バラックの内部
     
     52頭馬小屋を改造して約400人収容できた
      ベットは3段ベット、1段に5人が寝かされた
    中央にレンガ造りの暖房用の排気装置がある
        
第二アウシュヴィッツ・ビルケナウ木造収容棟

    バラックの床
      不揃いなレンガ張りの床 土で固めただけの床もあった
第二アウシュヴィッツ強制収容所収容棟床

   トイレがあるバラック内部
第二アウシュヴィッツ強制収容所トイレ

 

       
            第一アウシュヴィッツ強制収容所

最初に建設された強制収容施設

見取り図
第一アウシュヴィッツ強制収容所

収容所正門
  Arbeit macht Frei(働けば自由になる)
第一アウシュヴィッツ強制収容所入口

   
第一アウシュヴィッツ強制収容所

二重に囲った有刺鉄線
   電流が流された鉄条網による囲いは全長2キロメートル
   暴力的抑圧に耐えられず感電自殺を選ぶ囚人もいた
第一アウシュヴィッツ強制収容所

第一アウシュヴィッツ強制収容所

中央広場(点呼広場)
  長い時間整列させられ点呼をとらされた広場
   
  広場の一角に集団絞首刑台がありSSはここで公開処刑を行った
  絞首刑台は学校の鉄棒施設のようでもあり不気味な気持になった
     
第一アウシュヴィッツ強制収容所点呼広場

第4ブロック、第5ブロック
第一アウシュヴィッツ収容所

 このブロックの部屋に展示されているうず高く積まれて何千もの靴や服、ブラシ、メガネ、名前や住所が書かれたトランクなどの遺品の山をを見て虐殺の凄まじさを身に直に伝わった。
 その他壁に掲げられた入所時に撮られた囚人たちの写真など遺品の山を含めて写真を撮る気持ちにはなれなかった。唯一撮ったのはチクロンBの空き缶である。
  チクロンBの空き缶
第一アウシュヴィッツ強制収容所 チクロンB
 

第10ブロック、第11ブロック(死の家)とその間の死の壁
        左側の建物10ブロックでカール・クラウベルグやヨゼフ・メレンゲが人体実験を
   行った
   右側の建物11ブロックが死の家と呼ばれた中央刑務所
     地下にマクシミリアン・コベル神父が餓死刑に処せられた監房がある
   正面中央に死の壁と呼ばれる銃殺を行った壁 
     主にポーランド人が銃殺された
        
第一アウシュヴィッツ強制収容所死の壁

クレマトリウム(ガス室と焼却炉)
  第一強制収容所のクレマトリウムは1943年に稼働を開始した第二アウシュヴィッツ・ビルケナウ収容所の大規模な焼却場へ役目を引き継いだ
  見取り図
  2棟併設されていた
第一アウシュヴィッツ強制収容所焼却場

  外観
第一アウシュヴィッツ強制収容所焼却場
         
 

   
       
  ガス室
    一度に数百人殺戮したというガス室
    天井にチクロンガスを噴射した穴が黒い口
第一アウシュヴィッツ強制収容所ガス室内部

  焼却炉        
    一昼夜で340体焼却できたという
第一アウシュヴィッツ強制収容所焼却炉

1941年秋ラインハルト作戦と呼ばれる絶滅計画
・ヘウジェツ、ソビボル、トレブリンカに絶滅収容所を建設
・ゲットーからユダヤ人を収容所へ強制移送、ゲットーの解体(ワルシャワを除く)
・1943年11月3収容所消滅、これらの収容所で約170万人のユダヤ人が殺害されたいう。
1942年1月20日ヴァンゼー会議
・ドイツからユダヤ人を排除する方法が国外移住の促進から移送と強制収容と強制労働と計画的殺害に変更された。
・1942年春アウシュヴィッツ・ビルケナウを絶滅収容所に指定、アウシュヴィッツでは 約110万人のユダヤ人が殺害されという。
1941年6月開始された独ソ戦は独軍の敗退により東への領土の拡張の野望が断たれたことも悲惨な殺戮を実行を促進した一因であるのかも知れない。


アウシュヴィッツに展示された犠牲者が残した遺品の山を目の前に見て殺戮の恐ろしさが直に伝わった。ナチスの国家犯罪の傷痕を現実に見て思うことは人間というそのものと国家権力の恐ろしさである。このような惨劇の再発防止策としてはナチスのような凶悪な指導者やグループに簡単に国家権力を奪われないようにすること、すなわちナチスが国家権力を握ったプロセスに注目して現状では国内的にそのような問題がないか絶えずチェックしていくことではないかと思う。
二次大戦では無差別爆撃、原爆投下などによる大量に人命が虫けらのように失われた。この惨劇は今も何処かで起こっていて止むことはない。ピカソが生きているとすればゲルニカを何枚も描かないといけないだろう。あるいはもう描く意欲を失ってしまっているかも知れない。
労働できると選定され強制収容所に収容された人々も重労働により消耗し、劣悪環境のなかで力尽き命を落とし灰となり有刺鉄線の囲いの中から再び出ることはなかった。南方の戦場で補給路を断たれ弾薬も食糧も尽き自決や餓死を被ったた兵士たちの遺骨は見えない有刺鉄線の囲みの中で今でも風雨にさらされている。


    
           ポーランド  (2018年5月14日~21日)

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