ポルトガル③ロカ岬2015/06/11 22:06

2015年3月17日午前8時47分 ついにユーラシア大陸の西の果てに到達した
仏教、ヒンズー教、イスラム教、キリスト教の寺院や神殿、宮殿などを見に
ユーラシア大陸の国々をほぼ串刺しにしてこの果ての地に辿り着いた

「ここに地尽き
ポルトガル ロカ岬
              お気に入りの帽子が頭上からふわっと風に舞い
              ゆっくり断崖へ吸い込まれていった
海始まる」
ポルトガル ロカ岬
              大西洋は帽子を奪って僕を誘っている
              君にはまだ終わりはない             
(カモンエス)
ポルトガル ロカ岬

ここで旅の最終到着点とするのか
ポルトガル ロカ岬

それとも大西洋に乗り出して未到なるアメリカ大陸に新たな歴史を探るのか
ポルトガル  ロカ岬

それとも串刺しに洩れているトルクメニスタン、タジキスタン、北朝鮮を目指しユーラシア大陸一筆書きを完成させるのか
ポルトガル  ロカ岬

ポルトガル  ロカ岬
、いずれにしても注ぎ込める体力・気力は残り少なくなってきているのだ。


     ポルトガル共和国   ロカ岬   (2015年3月17日)

ポルトガル②雨のリスボン2015/05/17 10:28

ユーラシア大陸の最西端の国ポルトガル共和国
大航海時代の先陣をきった国の首都リスボン
起伏の多い港町は雨に濡れていた

テージョ川の河畔に立つ 河畔というよりは河口というか
リスボン湾といってもよいここはそんな地形だ
15世紀末この地からインド航路に旅立ったバスコ・ダ・ガマはカリカットへ到達した
リスボン テージョ川

リスボン港を守る要塞ベレンの塔が建造された16世紀
ポルトガルの勢力はゴア、マラッカ、セイロン、マカオと伸長した
リスボン ベレンの塔

パトロンとして海洋探検の援助・支援したエンリケ王子の没500年後
船出の地に大航海時代を称えるモニュメントが建てられた
リスボン 発見のモニュメント

インド航路を伸長してポルトガル人が種子島に漂着して鉄砲を伝えたのは
天文12(1543)年と日本史で学んだ
リスボンの発見のモニュメントの前の広場に描かれた世界地図では
日本到達は1541年と記されている
リスボン 発見のモニュメント

漂着したポルトガル人はポルトガルの船ではなく中国人の頭目が操る
倭寇船に乗っていたとのことである
2年の記述の差の理由を追及することはしないが、もしポルトガル船で漂着したならば
ポルトガル人は鉄砲を種子島人に教えたであろうか?中国人が間に入ったことで
言葉の障壁も取り払われ種子島人は鉄砲を手に入れることができたのではなかろうか
その後のフランシスコ・ザビエル(イスパニア)、ルイス・フロイス(ポルトガル)など
によるキリスト教の伝道より早く鉄砲が伝来したこと
我々の先人がその価値を認め兵器として強兵を計ったこと
日本が先進諸国の植民地に落とされなかったひとつの理由であったと思う


バスコ・ダ・ガマの遠征で得た富を費やして建造されたマヌエル様式の
ジェロニモス修道院にはバスコ・ダ・ガマと詩人カモンェスの石棺が祀られている
リスボン ジェロニモス修道院

ベレン地区からバイシャ地区へ移動する
小雨のなかバイシャ地区を散歩する

コメルシオ広場に立つ
大西洋にそそぐテージョ川は海のように広かった
ポルトガル リスボン

コメルシオ広場から歩行者優先のアウグスタ通りを歩く
土産物屋に入りポルトガルと刺繍の入ったキャップを買った
(なぜならロカ岬で日本から被っていったキャップが風で飛ばされたためだ)
バイロ・アルト地区の丘に昇るサンタ・ジュスタのエレベータは工事をしていた
ポルトガル リスボン

アウグスタ通りはロシオ広場(ペドロ4世広場)に突き当る
銅像に噴水は西洋の広場の必需のオブジェだ
地面の波模様は大航海時代を誇示しているように大きくうねっている
ポルトガル リスボン

模様を形つくる敷き石は大きさがまちまちだ
先程までの降雨により水溜りができる
なぜか鳩が集まる
ポルトガル リスボン

グロリア線のケーブルカーでサン・ペドロ・デ・アルカンタラ展望台へ昇る
乗客のほとんどは観光客だった
(写真はグロリア線でなくビカのケーブルカーだ)
ポルトガル リスボン

サン・ペドロ・デ・アルカンタラ展望台のリスボンの展望
ポルトガル リスボン

サン・ジョルジェ城やカテドラルまで歩く予定であったが・・・
リスボン アルカンタラ展望台

展望台よりサン・ペドロ・デ・アルカンタラ通りを下ると
天正12年(1585)天正遣欧使節が滞在したサン・ロケ教会がある
ポルトガル リスボン

サン・ロケ教会の内陣
雛段飾りの使徒群像は珍しいのでパチリ
ポルトガル リスボン

さらに通りを下るとカモンイス広場がある
その先のガレット通りの道端でフェルナンド・ペソアが椅子に坐る
リスボン カモンイス広場

旅行ガイドにあったブラジレイラというカフェでひと休み
地下のトイレでは鍵番の姉さんとひともんちゃくあり
ジェスチャーでなんとか事が通じて鍵をあけてもらった
ポルトガル リスボン

ガレット通りをくだるとアルマゼン・ド・シアードというショッピングセンタがある
エスカレータを使えば楽にバイシャ地区まで下ることができる
空きスペースには芸術作品も展示されている
リスボン ショッピングセンターの展示作品

フィゲラ広場から12番のトラムに乗ってカテドラルやサン・ジョルジュ城まで
足を伸ばそうとしたが夕闇が迫り雨足が強まったことから断念せざるを得なかった
カモメ線に飛び乗ってホテルまで帰った
(ああ 変わりばいのない体験記なってしまった)

ポルトガルの建築・芸術様式でマヌエル様式というもの
それは海藻やロープ、鎖、貝殻、天球儀などが装飾のデザインに取り入れられたもので
ジェロニモス修道院で確認できた
リスボン マヌエル様式

もうひとつはエッグ・タルトの店で見たアズレージョという装飾タイルだ
リスボン アズレージョ

リスボンの町の十分とは言えない散歩体験でした


  ポルトガル共和国  リスボン  (2015年3月)

ポルトガル①天正遣欧使節の足跡が残るエボラ2015/05/15 21:21

エボラはローマ時代の城壁や神殿など遺跡が残る世界遺産に指定された街です

街の中心にあるジラルド広場
ポルトガル エボラ

ローマ時代の遺跡ディアナ神殿
ポルトガル エボラ


1385年(天正13年)天正遣欧使節が滞在したカテドラル
ポルトガル エボラ

カテドラル内陣
見上げると伊藤マンショと千々石ミゲルが演奏したと伝えられるパイプオルガンが
ポルトガル エボラ

1584年(天正12年)リスボンに上陸した天正遣欧使節はフェリベ2世に謁見して翌年この町を経由してローマに向いました。それから430年の時間を経て日本人としての自分がこの町に到着することができたことに心躍りました
      ポルトガル共和国 エボラ  (2015年3月)