吾妻郡高山村中山城址散策記 ― 2023/01/09 13:51
令和4年10月19日中山古城散策を終え中山城址に向かいました。
中山城址縄張り図
赤字の数字と矢印は記事の項目番号と撮影の方向を示す
①中山城址案内板
国道沿いの駐車スペースに掲示されている案内板です
ここから散策をスタートしました
②城址東側全景
舌状台地を利用して築城されたことが分かる
③下曲輪
田圃の道から城址のアクセス
まずは城址の東側に下曲輪が畑となって細長く伸びています
④本丸
下曲輪から坂道を登ると本丸です
本丸は一辺約60メートルの正方形をしていて杉木立と藪に覆われている
西側の土塁の袂に明神様が祀られている
ここに設置してある案内板に追手は南側、搦手は北側にあったと解説があります
⑤本丸を囲む高土居と深い空堀
本丸の南、西、北は高土居で囲まれ、その外側は深い空堀が取り巻いている
縄張り図を見ると空堀の囲みの対岸は二の丸が囲んでいるのが分かる
この写真は西側の土塁の上から北向きに撮影したものです
⑥三の丸
本丸から下曲輪に戻り、下曲輪の先から道路を進み捨曲輪と三の丸の間の道を登っていくと台地の上は一面の畑が開けている
この境の坂道も空堀跡であったことが納得できる
北側の開けた畑は三の丸跡でその先の杉林は本丸であると思われる
⑦三の丸、二の丸、腰曲輪方面
三の丸の真ん中に北向きに農道が続きその先正面が二の丸で左手が三の丸の西部分である
⑧ 三の丸北側堀切
農道を二の丸の南端まで進んで行くと左に三の丸の土塁とそこを隔てて堀切が残る
⑨二の丸西堀切跡
右側の一段上が二の丸でその東側は本丸と向き合う深い空堀となっている
手前の浅い堀跡は二の丸の西側三の丸西部分の間の堀切の跡と思われる
➉帯曲輪南堀切跡
三の丸の西側部分を北へさらに進んで行くと三の丸と帯曲輪、その先で北側の二の丸との間の堀切跡が伸びている
⑪北曲輪北堀切跡
さらに北上すると北曲輪北側の堀切跡が東に続いている
ここで右折して方向を東に転ずる
⑫北曲輪と帯曲輪の縁
堀切の道路を進むと右側が北曲輪の縁、正面が帯曲輪の出はなと思われる地形に出合う
城址東側の道路を出発点に向け進む
東側から本丸の北、南の空堀を確認する
⑬東側より本丸北側の空堀
⑭東側より本丸南側の堀切
出発点①に戻り散策無事完了
中山城址は囲郭式で北条系の築城形式は北毛地域では特異な存在と見られている。吾妻記によれば、天正10年「中山城主中山右衛門尉は津久田にて討死、早速白井より赤見山城守要害持ちに被遣差置、其節小田原領になり」とあり、赤見山城が城代の頃築城したのではないかと推定されている。
令和4年10月19日撮影
群馬県吾妻郡高山村 (令和5年1月10日)
後閑城址散策記 ― 2023/01/10 14:52
2022年10月27日後閑城址に出掛けた
後閑城は後閑川と九十九川の合流点に突き出した南北に続く丘陵の末端部分に築城された山城である。本丸の説明文によると嘉吉、文安の頃(15世紀中葉)信州の依田忠政が築城したと解説されている。
後閑城址縄張り図
本丸の東に階段状に東郭と東郭群が、西に階段状に三つの大郭(西第一~第三郭)が、南に尾根を堀切で分断した尾根端に南郭と二の丸が、さらに北に堀切の先に北郭がある
散策開始
西第三郭にある公園駐車場に車を停める。
南郭
駐車場から南郭へ向かう
南堀切で分断された尾根の端に南郭がある
南郭の奥の東屋
南郭からの展望
妙義山の頂が見える
➁二の丸
南郭をさらに東へ進むと次の尾根を分断する大堀切がある
その尾根の端に細長くくの字状の二の丸がある
大堀切側の高台に櫓が建てられていたという
二の丸の東屋
東郭群
大堀切から細道を下り北方向に尾根を登ると東郭群がある
東郭から小郭が階段状に下る東郭群
東郭
大堀切までもどり堀切を登り上げると東郭に出る
東郭の先の通りは北堀切に続く
本丸
東郭からさらに登ると最高地点の本丸に着く
東屋と掲示石板があり周囲には百庚申石像が並ぶ
広さは南北60メートル、幅40メートルと解説がある
周囲に並ぶ百庚申の石像
西第一~第三郭
本丸から西に階段状に三つの大郭がならぶ
西第一郭
西第二郭
西第三郭
北郭群
堀切で仕切られて北郭に続いて小郭群が階段状に並ぶ
北第一堀切
本丸北側の堀切
北第二堀切
さらに二つ目の北第二堀切が走りその先に階段状に連なる小郭
北郭
二つの堀切による分断の先に小郭の最上段に北郭がある
北第三堀切
北郭より階段状小郭の北側の北第三堀切が走る
城址を一巡して駐車場へ戻る
吾妻記では「松井田合戦の事」に於て、天正18年小田原攻めの際の上野の合戦が記されている。碓氷峠から前田利家大将として真田安房守昌幸等都合5万余騎が攻め入り大道寺駿河守政繁が守る松井田城を始め、箕輪城、安中城、白井城など北条方の城は落城した。「上野下野内にて三十日の内に城郭三十八ケ所落城す」とあり大道寺駿河守の指揮下にあったというこの後閑城も松井田城と同じ運命を辿ったのであろう。
令和4年10月27日撮影
群馬県 安中市 (令和5年1月12日)
吾妻郡高山村尻高城址散策記 ― 2023/01/13 14:12
令和4年10月19日中山古城、中山城を散策して最後に字小屋に残る岩上の要害を訪ねた。
麓の案内板によると「応永8年(1401年)白井城主長尾重国の家臣により築城始まる。同10年完成。重国の三男重儀城主となり尻高氏を名乗り左馬頭と号した」とある。またこの要害に合わせ里城(並木城)が麓に造られ尻高城との呼称はこの二つを合わせた呼称となる。
尻高城縄張り図(高山村誌より)
案内図
現地に入ったところ本丸、二の丸のほかは縄張り図と現場の対応が明確に掴めなかったので案内板の案内図に撮影した写真を当てることにした
石柱と案内板
現在位置と朱書する場所でこの先を右折して空き地に駐車させて頂いた
要害(ゆうげい)登山開始
二番目の矢印の地点の登り口である。
土地ではこの岩山をゆうげいと呼ぶようである
要害が訛ったものなのかどうか?
案内板に沿って尾根道を登っていく
トラロープを握って急登を登る
一番石宮
急登を登って行くと一番石宮が見えてきた
一番石宮を過ぎ主稜線に沿って歩く
縄張り図でははっきりしないが西の二番目の郭ではないかと思われる
本丸
その先の本丸と思われるところ
そう広くは感じさせない
松の木も何本か見える
一番堀切
本丸を東に進むと堀切の跡がある
この写真は堀切を渡り二の丸側がら撮影したもの
手前が二の丸、先が本丸
二の丸
細長い二の丸にを進むと石宮が二番~六番続く
二番石宮
まず直ぐに二番石宮が
三番石宮と水場
次に三番石宮と水を湛えた切り石がある
貯水槽にしては小さい
四番石宮~六番石宮
二の丸の先端まで進み振り返って撮影したもの
手前が最奥の六番→五番→四番
先端の断崖
二の丸の先端は一段下がって断崖に落ちている
主稜線を第一石宮までもどった所でこの先下山ルートを見失ってしまった
第一石宮の先で時間をかけて下山ルートを探したが発見できず谷に下ってしまった。
あくまでも尾根筋を探すべきであったと反省している
堆積した枯葉の谷を足を滑られながら杉の伐採場までくだり、右手の低い尾根を登り藪をこいで行き運よく目印のリボンを発見しようやく民家まで辿りついた
その家のHさんの計らいで軽トラで無事に登山口に停車しておいた車まで送って頂いた
Hさんに感謝感謝である
尻高氏の威勢は盛んであったようで現在の尻高、大塚、平、赤坂、市城まで及んでいたようである。吾妻記の松井田合戦の事の件に「昔は尻高村三百貫文を二つに分け田畑野山等迄当分の積りに被成候。下尻高高辻六拾貫文は大塚組、五拾貫文は平組、四拾貫文は赤坂組、此高辻を以て万事諸役当相勤め申候事」とある。尻高村は均等に上尻高村と下尻高村に分割、「天正十八年秋末方上尻高村は井伊侍従様御知行に渡る。下尻高村は前々ゟ真田伊豆守様知行なり。さらに「下尻高村は文禄年中の頃は真田伊賀守様奥様の御知行所に被成、大塚村に北能登守殿御前様のご家老として住居被成」などなど吾妻記では尻高に関する出来事が一段と詳しく記述されているように思えるのである。
令和4年10月19日撮影
吾妻郡 高山村 尻高 (令和5年1月14日)
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