安中市梁瀬二子塚古墳 ― 2022/11/01 20:02
群馬県民の日の前日に吾妻から地蔵峠を越えて碓井へ出かけました。その目的の一つは安中市にある大型の前方後円墳を見物することでした。
全景
古墳時代後期初頭(6世紀初頭)の横穴式石室をもつ前方後円墳である。
墳丘に葺石を施した形跡が発掘されている。
想定図
墳丘の長さ約80m、周溝、周堤、外周溝を加え全体の長さは約130mと推定している。
埴輪は墳頂部と第一段基壇(平坦)面?に並べられていたようだ。
後円頂部方向(東向き)
前方頂部方向(西向き)
妙義山や浅間山が展望できる。
横穴式石室の入口
後円部南側に石室の入口あり 扉施錠のため入室出来ず
石室からの出土品
全長11.54m、羨道長7.47m、玄室長4.07m 壁面に赤色顔料(ベンガラ)痕跡あり。
玄室からの出土品は装身具、馬具などであり、特に「金箔挟み込みガラス三連玉」は非常に珍しい。
石室のベンガラを確認できずちょっぴりガッカリしている見学者
隣接して展示コーナ、トイレ、駐車場を備えたガイダンス設備があり見学には便利でありました。
撮影:令和4年10月27日
群馬県 安中市 (令和4年11月3日)
磯部城址(安中市磯部) ― 2022/11/03 08:15
磯部温泉旅館のチェックインまで時間があったので、急遽磯部城址を見ることにした。
地元のハムの先輩たち(NAB/OAK)が子供の頃走り回って遊んだ城址は今は公園となるも遊ぶ子供の子供の姿も声もしない。
現地にある案内板
由来
縄張り図
三の丸
馬出し
腰曲輪(馬出を越えて行く)
馬出し下空堀
空堀を下まで降って行ったところにこれは石垣の跡か??どうか?
櫓台(物見平)下の空堀(この下が三の丸)
堀切、二の丸虎口(左:二の丸、右:物見平)
右:物見平
右:物見平東下の空堀
左:二の丸(虚空蔵菩薩祠一基あり)
二の丸と本丸間の笹で覆われた高土居、堀切の跡ははっきりしない。
本丸(一面の笹、端に神社一基あり)
本丸搦手口(本丸北西の端)
ハムの先輩たちが子供の頃遊んだ城址に今は遊ぶ子供等ひとりもおらず荒れるにまかせ朽ちるばかりなり。
この城は永禄4年(1561年)武田信玄が松井田城と安中城を分断するため築城したのかもと記されているが、これに関連すると考えられる史跡として首塚が簗瀬二子塚古墳の際にある。
簗瀬八幡平の首塚
戦国時代の犠牲者のものと考えられる150体分の頭蓋骨を供養したもの。
説明文
磯部城と関連ありと感じてここに合わせて首塚を載せることとした。
令和4年10月27日撮影
群馬県安中市 磯部 (令和4年11月3日筆)
今晩望月さまがホオズキの実になりました ― 2022/11/09 15:02
黒保根町栗生神社本殿の関口文治郎作透かし彫り ― 2022/11/30 15:13
栗生神社寄
栗生山の中腹杉木立の中に鎮座する神社は新田義貞の家臣栗生左衛門頼方を祀る。石の鳥居から石段を登り長屋門を抜けると社殿の前に辿り着く。拝殿の右手に大杉が聳え、左手に神楽殿が残されている。拝殿の後ろに本殿があり関口文治郎の透かし彫りが目に留まった。彫られた場面は何の場面であるのか?二十四孝に関係すると云われているが私には説明する知識がない。現在の社殿は寛政2年(1790年)の建築ということからすでに240年が経過している。
本殿右面
本殿背面
本殿左面
棟札に残された彫工の氏名をここに写す。
彫工
武衛御棟梁 関口文次在信 同仕手 福田源治
同仕手 窪田徳次 藤原与四郎 関口千次
同 関口松次 鏑木半次 萩原平次
令和4年11月24日撮影
群馬県桐生市黒保根町(旧勢多郡黒保根村) 令和4年11月30日
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