八幡山番帳と横尾八幡城址2022/03/04 16:35

横尾八幡城
令和4年3月2日横尾八幡城址へサイクリング
町内の旧家に真田昌幸が発出した「八幡山番帳」の写しが伝えられている。この番帳は北条勢の襲撃に対抗するため横尾八幡城における防御体制を指示した文書である。
吾妻利根地区は上杉、武田、北条の勢力が鬩ぎあう土地として戦国期に山城や砦が多く建てられ今でもその名残を留めている。横尾八幡城は岩櫃から尻高、中山、名胡桃、倉内への要所の八幡山にある。

横尾八幡城図
この配置図には番号を付してあります。図面を拡大して番号の位置を確認して下さい。
横尾八幡城配置図
④に立てられた案内板の中之条町教育委員会の説明文
横尾八幡城址は中之条盆地の東端、名久田川と赤坂川の合流点付近にあり、北は赤坂川、東は名久田川に面した深い崖になっている。この段丘上にある八幡山の山頂部に、約40メートルの方形の平地を高さ4メートルの土居(土塁)で囲む一郭式の砦となっている。
大永年間(1521-28)に尻高三河守によって築城された(「吾妻記」)と伝えられ、後に塩原源太左衛門が城代となり、天正8年(1580)真田昌幸の吾妻進出によって富沢豊前守が配置された。に立てられた


①自転車を飛ばして横尾の交差点から県道231号線大道横尾線を北上する
 やがて路肩に城址への道標がありここから坂道へ入る。
横尾八幡城址
①まずはここで案内板を読み八幡城の概要を把握しよう 
横尾八幡城址案内板
八幡山番帳については次のような記述がある
 天正十六年四月二十六日「八幡山番帳」によると、六十四名の番衆を二組に分け、交替で番をした。番帳に番衆の武具(弓・鉄砲・鑓)と氏名が記載されており、番頭として富沢豊前守、狩野志摩之助、同右馬之助、折田軍兵衛があげられている。
 翌天正十七年十二月北条氏邦が白井より攻め寄せたが、番頭以下将兵が固く守りこれを退けている。

②自転車を押しながら坂道を登っていくとY字分岐がありその正面に観音像が並ぶ
 ここを左折してさらに登って行く
横尾八幡城址道祖神

➂上り詰めたところで再び道は分岐し左手の先に案内板が見える
 自転車はその案内の前に駐車する
横尾八幡城址➂

④城址を説明する案内板(内容は記事冒頭に記す)で道は3つに分かれている
 左手へ行くとすぐ本丸へと続く
 右手は真ん中とその右に分かれ真ん中は地元の墓地へ、右は八幡山を降る本道だ
 まずは本丸へ南側から登ろうと一番右の本道へ進んだ
横尾八幡城址④
 
⑤本道を降ると南側から本丸へ登る道があった
横尾八幡城址⑤
⑤分岐に古い道標が倒れていてここからが昔の八幡城へのルートであったのではないか?
横尾八幡城址⑤道標

⑥南坂道を登っていくと本丸前の虎口?に着く
 虎口の手前の両側は篠林となっている
横尾八幡城址⑥虎口

⑦本丸は土塁で囲まれている。
 土塁の外側は曲輪のようでもあるが篠で覆われ入って確認できない
横尾八幡城址本丸
⑦北側の土塁に登る
 北側の土塁がもっとも高く残っている
 左手下の笹薮、右手は本丸
横尾八幡城址本丸北土塁
⑦土塁上から本丸内を見下ろす
 石仏は誰がいつ建てたのか如来像であるようだ
横尾八幡城址本丸

④本丸から西に道を抜けていくと写真左の道へ続き④に戻る
 下山のため再度最右の本道を降る
横尾八幡城址④

⑤先ほどの分岐⑤からへさらに真っすぐ降る
横尾八幡城址⑤

⑻急坂を降ると県道231号線に出る
横尾八幡城址⑧
   やったあ・・・ペダルをゆるりとこいで気持ちよく家まで帰りました

中之条町誌資料編より八幡山番帳全文を載せました。

真田昌幸朱印 八幡山番帳
一番
弓       狩野 右馬助
鉄炮      同 又左衛門
鑓       唐沢平左衛門
鉄炮      田村 雅楽丞
同       上原 弥次郎
同       関  勘解由
弓       富沢源右衛門
鑓       小菅六郎三郎
同       島村 市之助
同       田村 助五郎
同         彦右衛門
同         かねこ(かわたカ)
同       狩野 志摩守
同       片貝茂右衛門
同       おり田内蔵之助
鉄炮      すみや七郎右衛門
同       割田 与兵衛
鑓         九郎左衛門
同         太郎左衛門
てつほう    関  又衛門
同       桑原 大蔵
やり      小野田 市助
鉄炮      しほ津守之丞
同       今井 左近
鑓       細野三郎大衛門
やり      つのた 新六郎
同          市 助
てっほう    唐沢 二兵衛
同       山口 織部
同       富沢 与四郎
同       柳田総左衛門
やり      蟻川 源四郎
           以 上   (32名)

二番
てっほう    おり田雅楽助
同       富沢 善内
やり        甚左衛門
同       番才新左衛門
鉄炮      安原市左衛門
やり      おみ さし代
同       新井彦右衛門
てっほう    戸塚源右衛門
鑓        七郎左衛門
同         すけ五郎
同         専 助
鉄砲      けんもち喜左衛門
砲       森田半右衛門
やり       九郎右衛門
てっほう    大間与右衛門
同       青木孫右衛門
同       長井彦右衛門
同       かん田左衛門太
同       横沢 源助
鑓       丸山新左衛門
同       関口 助三
鉄炮      伊与久 左京
鑓       角屋 弥兵衛
同       小林九郎右衛門
同       河原田 新六
同       勅使河原清十郎
同       十さへもん
同       青木太郎さえもん
やり        新四郎
同         藤へもん
同       大塚孫左衛門
同       渡 又左衛門
           以 上     (32名)
右之衆番請取渡慥ニ致し其上番普請儀兵伏以下
無油断可相勤者也仍如件
 天正十六年       能登守
  子ノ卯月廿六日      奉之
   富沢豊前守殿
   狩野志摩守殿
   同右馬之助殿
   折田軍兵衛殿

                         

         ⑦本丸における自撮り写真
横尾八幡城 本丸
    N自動車整備に車を車検に出してから自転車に乗り換えての城址探訪でした。

      
     令和4年3月4日掲載ス