九州北部の旅⑤銅鏡に思う2018/04/11 15:10

多数の銅鏡が発掘された須玖岡本王墓と平原1号墓から銅鏡について考えてみた                


須玖岡本王墓     銅鏡30面

        この大石の下の甕棺より出土
須玖岡本遺跡王墓
                                                                    (奴国の丘歴史公園)

         前漢鏡 草葉文鏡 3面
         
須玖岡本遺跡草葉文鏡(複製)
                                                      (複製された草葉文鏡)
                   (春日市奴国の丘歴史資料館)

        前漢鏡 青雲文鏡 五面

        前漢鏡 連弧文照明鏡 四面

        前漢鏡 連弧文清白鏡 八面

        など

         連弧文銘帯鏡
須玖岡本遺跡 連弧文銘帯鏡
                                                        (春日市奴国の丘歴史資料館)

             


平原遺跡王墓    銅鏡40面      

                         平原一号墳
伊都国平原遺跡1号墳
                           

         
         副葬品の出土状況
伊都国 平原遺跡一号墳


         銅鏡は予め破砕して埋葬したようだ
平原遺跡 銅鏡
                        (復元された銅鏡)
         内行花文鏡
         方格規矩四神鏡
         四螭鏡(前漢鏡)
        
              など

         直径46.5センチの巨大な内行花文鏡 5面(国産鏡)
平原遺跡 内行花文鏡


三雲南小路王墓1号棺   35面
  〃    2号棺   22面
井原鑓満王墓       21面

銅鏡について

①銅鏡は漢から弥生中期ごろ伝わった

○「前漢書」地理志に楽浪海中有倭人、分為百余国、以歳時来献見云とあり弥生中期ごろに    は集落のなかで漢に朝見するものが出てきた
○弥生中期の須玖岡本遺跡の王墓から出土した銅鏡は殆どが前漢鏡である

どうだ、我らの集落は漢の皇帝の鏡を手に入れた この鏡で祭祀を執り行え集落の平和と繁栄は間違えない どうだ君たちの集落より偉いだろう

②倭国の形成と銅鏡の国産化

○弥生後期には大集落が出現して集落の序列が生じて序列を維持する手段として銅鏡の利用が広まった
○首長の私的な宝器や権威付け、集落同士の外交の手段として銅鏡の利用が進み、渡来では間に合わず国内でも銅鏡が鋳造されるようになった
○須玖岡本遺跡群からは多数の青銅器鋳造の鋳型が発見されている 奴国は青銅器の工業地帯として各地域から銅鏡の注文に応え勢力を蓄えた やがて「後漢書」倭伝に記すように建武中元2年(西暦57年)後漢に奉貢朝賀して光武帝から印綬を賜うまでの国になった

私はこの地方の盟主たる力がある お前は私に使えないか 貴国との連合の印としてこの銅鏡を渡す この鏡を印として君の国内を治めて欲しい

○倭王卑弥呼に景初二年(西暦238年)魏王明帝から銅鏡百枚を賜ったことが記されている卑弥呼が賜った銅鏡は盟邦の首長に下賜して倭国同盟の結束を図っただろうか
                            白絹五十
             匹金八両五尺刀二口銅鏡百枚真珠鉛丹各五
             十斤皆装封付難升米牛利還至録受悉可以示
             汝国中人使知国家哀汝故鄭重賜汝好物也 
                                「魏志」倭人伝

③銅鏡は粉砕され王の墓に埋葬された分けは

○伊都国の平原王墓から出土した銅鏡は直径46.5センチの巨大な銅鏡も含め国産のものであり、倭国を形成する統治文化が整った証ではなかろうか
○魏志倭人伝曰   「陸行五百里到伊都国官曰爾支副曰泄謨觚柄
           渠觚有千余戸世有王皆統属女王国郡使往来
           常所駐東南到奴国百里官曰兕馬觚副曰卑奴
           母離有二萬余戸・・・・・・・・・・・・」
伊都国は世帯千戸ではあるが魏の郡使が常駐する大陸とを結ぶ政治的なハブ国家であり(倭人伝の国の在りかを示す表現も伊都国を境に変えている)、また奴国は二万戸に及ぶ産業国家であったのだろうか
○40面の銅鏡が発掘されたが、王はこんなに多量の銅鏡を所持していたのだろうか?ちょっと多すぎないだろうか?
○大王没したことで今までの同盟関係を清算する意味合いから、盟主達は没した大王が下賜された銅鏡を粉砕して埋葬したのではないかと想像が羽ばたいた
○次の大王は新たに盟主達と同盟関係を築く必要があり、新王は多数の銅鏡を手に入れて盟主達との授受が不服なく成立することで新たな同盟関係が構築されたのかもね

これで多数の銅鏡埋葬と粉砕の理由の疑問が解けないだろうか??

④卑弥呼の死の場合からは

○魏志倭人伝曰   「・・・・・・・・・・・卑彌呼以死大作徑
           百余步殉葬者奴婢百余人更立男王国中不服
           更相誅殺当時殺千余人復立卑弥呼宗女壱與
           年十三為王国中遂定・・・・・・・・・・」

○伊都国の平原王墓は卑弥呼の時代とほぼ同時代であると考えられている 平原1号墳は副葬品の構成からして女性の墓ではないかと恰も=卑弥呼の墓と考える気配を感じた 
○魏志の記しによれば卑弥呼没後男の大王を立てたが皆が不服で殺し合って倭国の同盟関係は成立しなかったとある 平原1号墳が卑弥呼の塚だとすれば破砕した銅鏡は同盟関係を清算を象徴する儀式であったのかも知れない


(注)この稿は旅をして考えた個人的な想像の世界を述べたものです 

        福岡県 奴国の丘歴史公園
            伊都国歴史博物館      (2018年2月)